ヒロイン、俺ってマジかよ(2)
部室の空気が少しだけ緩む。
ひととおり本読みが終わり、各自が台本にメモを入れたり、内容について話し合ったりしはじめたころ。
ようやく椅子に座れた翠心は、テーブルに肘をついて深いため息をついた。
「……疲れた……マジで、芝居って体力使うんだな……」
台本をめくりながらぼやく翠心の前に、ぽん、と小さな袋入りのお菓子が差し出された。
「お疲れッス。甘いもん食うと疲れ取れるッスよ」
声の主は1年生、坂本蓮真。ニッと口角を上げながら、他の部員にも順にお菓子を配っていた。
「……あ? ありがとな」
「いやぁ、噂で聞いてたッスよ。無理やり演劇部に入れられたって」
「大丈夫ッスか? 逃げたいとか思ってないッスか?」
からかうように笑って、蓮真はテーブルの端にちょこんと腰かける。
翠心は、ちらっとお菓子に目を落として、肩をすくめた。
「大丈夫じゃねーよ……っつーか、気づいたら本読まされてたんだよ、俺」
「ッスよね~~」
蓮真は喉を鳴らして笑う。
「でも、演目の“ヒロイン”ってけっこうおいしいポジションッスよ? 注目されるし、舞台映えもするし。ま、期待してますから。これからよろしくッス」
軽く右手を上げて、にっと笑う蓮真。
「……あー、うん。こっちこそ、よろしくな」
まだ慣れないながらも、翠心も少しだけ笑い返した——そのときだった。
「蓮真~! 俺にもお菓子ちょーだい!」
不意に背後から肩越しに身を乗り出してきたのは、もちろん清水桔平だった。
「わっ、ちょ、やめっ……!」
翠心の背中に軽く覆い被さるように、顔をぐいっと近づけてくる。
「翠心だけずるいじゃん。僕にも優しくしてよ~」
「うっせぇ! やめろ、バカ! 重てぇ!」
体をひねって払いのけようとする翠心だったが、桔平はにやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべたまま。
「ほらほら~、仲良しアピールしとかなきゃ。部内の印象大事だからな?」
「いらねぇだろ、そんな印象!」
「あるある~~」
隣で蓮真が笑っている。
にぎやかな部室の中で、翠心は再び深いため息をついた。
けれど、どこかほんの少しだけ――この空気に慣れつつある自分を感じていた。
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蓮真の笑い声が混じる中、翠心はじたばたと桔平を振り払おうと必死になっていたが、その光景を数歩離れたところからじっと見ている人間がいた。
「ふふ……」
にこにこと目元を細めながら、まるで何かを確信したような微笑みを浮かべているのは、有安遥登。
その様子にすぐ隣にいた蓮真が目ざとく気づいた。
「……遥登先輩。なにニヤニヤしてんスか……」
「あ、ぼく? なんでもないよ♡」
とぼけながらも目線はしっかりと翠心と桔平に向けたまま。
「いや、絶対なんかあるでしょ……」
蓮真が眉をひそめて小声でつぶやくと、遥登はそのままの柔らかい声でぽつりと言った。
「いいね、青春って感じ……ふふ」
「せ、先輩やめてください!!」
翠心がバッと顔を赤くして振り返る。さっきまでの疲れなんかどこかに吹っ飛んだような勢いだった。
「えー? なにが~?」
遥登はとぼけながらも目が完全に笑っていた。
「……なにそれ、どういう意味なんスか……」
蓮真は呆れたように首をかしげる。
「てか、遥登先輩は青春してないんスか~?」
「ぼく? どうかなぁ~……」
遥登は口元に指を添え、わざとらしく空を見上げる。
その時——
「おーっす、楽しそうやな~。進捗どや?」
部室の扉ががらりと開いて、ラフな関西弁が響いた。顧問の宮吉皓介が、プリントの束を片手に入ってきた。
「ミヤキチ~! 今ちょうど本読み終わったとこっスよ~」
「お、そうなんや。ええな、ええな~。ほな、次は動きつけてくか~。立ち稽古や、立ち稽古!」
一気に部室の空気が切り替わった。
台本を抱えて、各自がそれぞれのポジションへと移動しはじめる。
桔平がぽんと翠心の背中を叩いた。
「ほらほら、ヒロイン様。立つぞ」
「……ぜってぇ今日、筋肉痛くるやつだ……」
ぼやきながらも立ち上がる翠心。
新たな青春劇の幕は、静かに、そして着実に開かれようとしていた。