ヒロイン、俺ってマジかよ(1)
「……じゃあ、俺そろそろ帰るわ」
男子校、燈ノ杜学園、2年D組。
放課後のチャイムが鳴ってからすぐ、和泉翠心は鞄を肩に引っかけ、教室を出ようとしていた。
次の目的地は、もちろん自宅。そして、そのままゲームの世界にログインする予定だった。
が。
「待てって。お前ヒマだろ」
不意に背後から手首をつかまれる。振り返れば、いつもの無遠慮な笑顔。
清水桔平。同じクラスの幼なじみで、よく言えば活発、悪く言えば強引なやつ。
「は? ヒマじゃねぇし。帰ってゲームすんだよ」
「そのゲーム、今やらなくてもいいだろ。こっち来いよ、ちょっとだけだから」
「いや“ちょっとだけ”で済んだ試しねぇじゃん、お前の場合」
文句を言いながらも引っ張られた手を振り払えず、翠心はそのまま校舎の別棟――演劇部の部室へと連れていかれた。
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部室・舞台裏。
「ほら着いた! さ、ここが栄光の燈ノ杜演劇部です!」
「紹介すんな。つーか俺、入るとは言ってねぇからな」
「入ったことにしといた。部員数足りないし、あと、お前ヒロインな」
「はァァァァ!?」
ドアを開けた先にいたのは、数名の先輩たち。中でも目を引くのは、ソファに寝転んだままこちらを見ている3年生の男。
「へぇ、君が“例のヒロイン”?」
だるそうに体を起こしたその男――辻井凌央、演劇部の部長にして照明担当。
軽く目を細めた彼は、立ち上がって翠心の顔を覗き込む。
「……イメージにピッタリだわ。中性的なとことか、目とか……表情とか。あと声も。完璧」
「いや、勝手に決めんなよ。てか、ヒロインってなんだよ。俺男だし!」
「そこがいいんじゃん」
口を挟んできたのは桔平。横でにやけている。
「黙って読んでみろって。ほら、これ次の演目の台本。『花に宿る』。読み合わせってやつ」
「はァ……やる意味ねぇだろ、俺帰るっつーのに」
そう言いながらも、手に渡された台本をぱらりと開く。
試しに読んでみろと桔平に促され、渋々ながら声を出した。
「“この花が……咲いたら、また会える……そう、言ってくれたのに”」
部室の空気が、ぴたりと止まる。
「……おぉ」
思わず漏れる声。
後ろから覗いていた別の先輩――安楽悠嵩が穏やかに微笑む。
「やっぱり、声に透明感あるね。すごく合ってると思うよ」
「うちの演劇部で、ヒロインできんの、お前しかいねぇって思ってたんだよな」
桔平の顔には自信満々の笑み。
そして――そのまま、極めつけが来る。
「才能あるんちゃうか」
ドアの影から現れたのは顧問の宮吉皓介、通称“ミヤキチ”。白衣のポケットにガチャガチャとチョークを詰めたまま笑う。
「君、ええ声しとるわ。ほんで芝居に空気持っとる。ええセンスや。入部、確定やな?」
「ちょ、ちょっと待てって! 俺ただの帰宅部だし、つーかヒロインってなんだよ、俺は――!」
その抗議の声は、誰にも真面目に取り合われなかった。
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翠心の“穏やかな日常”は、こうしてあっさりと幕を閉じた。
次に訪れるのは、部活漬けの日々と、まさかのヒロイン役。
ゲームの代わりに与えられたのは、台本と――狐の妖怪に守られる運命。
(……マジかよ)
翠心の嘆きは、まだ誰にも聞こえていなかった。
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翌日。放課後。
「……死ぬ……」
和泉翠心は、校庭の片隅、演劇部用に確保されたスペースの地面にぺたんと倒れ込んでいた。
「柔軟終わり! はい、次は腹筋50回ねー!」
「やってらんねぇ……」
桔平に連れて来られた初日、本格的な練習が始まった。
だが演劇部と言えば、台本を読むだけの活動かと思っていた翠心の認識は甘かった。
柔軟、腹筋、背筋。最後は部活エリアの外周ランニング。
「なんで走るんだよ……! 演劇って、スポーツだったか……?」
「当たり前だろ。体力ないと声も出ねぇし、舞台で倒れるぞ?」
そう言った桔平は、汗をぬぐいながらも余裕の表情で立っている。
こいつマジで体力バカだな、と翠心は泣きそうになりながら地面を見つめた。
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「じゃあ次、発声行くよー。“あめんぼの歌”から!」
部室に戻った後も、地獄は続いた。
目の前には、壁一面の鏡。まるでダンススタジオのような設備。
「“あめんぼ あかいな あいうえお”……腹から声出す! 恥ずかしがるなー!」
「……あめんぼ あかいな……」
翠心の声はまだどこか硬い。
それでも部員たちは、誰も笑わない。真剣そのものだ。
悠嵩が、そっと横からアドバイスをくれる。
「翠心くん、もうちょっと喉を開いて、胸の響きに乗せる感じでやってみるといいよ」
「……は、はい」
猫柄のハンカチを首に巻いた悠嵩の柔らかい声に、翠心は少しだけ緊張が和らぐ。
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「あーーえーーいーーうーーえーーおーーあーーおーー」
「にっ! にこっ! むーーん!」
鏡の前で、顔を大きく動かす部員たち。
「こんなことやって何の意味があるんだ……」と思いつつも、翠心も真似してみる。
「あー……えー……いー……うー……って、バカみてぇだよ……」
「ヒロイン役だもん、表情は大事だよ。舞台じゃメイク越しでも伝わるようにしないとね」
再び、悠嵩が柔らかく声をかけてくる。
「……ヒロインじゃないです、まだ」
「でも今日、本読みするよ?」
「……マジかよ」
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『花に宿る』初めての本読み
夕方。
すべての基礎練習が終わった後、ようやく“芝居”の時間が来た。
「はい、配役確認してー」
桔平が、プリントを各自に配っていく。
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『花に宿る』
あらすじ
“人と妖が共に暮らす”幻想世界。
翠心が演じるのは、神の力を宿した“巫女の生まれ変わり”の少年。
彼を狙う妖たちと、彼を守る者たち――やがて選ばれる「人として生きるか、妖として生きるか」という運命。
人外たちとの絆、裏切り、そして別れが交錯する、哀しくも美しい和風幻想劇。
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主な配役
和泉 翠心: 主人公・神の力を宿した“選ばれし者”
清水 桔平: 主人公を守る狐の妖怪
有安 遥登: 主人公の助言者となる猫又。衣装と舞も指南
坂本 蓮真: 二重スパイの妖。敵か味方か不明な存在
辻井 凌央: 闇の主。すべての黒幕であり、最強の敵
安楽 悠嵩: 神社の主。物語の全てを知る鍵となる存在
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「翠心、ここから読んでみて。“第1幕:神社の花が咲く時”の冒頭な」
桔平が、隣で本を指し示す。
翠心は少し唾を飲み込んで、息を整える。
「……“また、この花が咲いた……。この花が咲いたら、また会える……。そう、あの時……君はそう言ったんだ”」
部室に、静けさが訪れる。
「……いいじゃん。やっぱお前、舞台向きだな」
桔平が嬉しそうに笑う。
「……こんなんで、マジで大丈夫かよ……」
「大丈夫。ヒロインはお前しかいないんだから、な?」
そして、翠心の“ヒロインとしての運命”が、いよいよ動き出すのだった。