処方箋はジン・トニック
1杯め
タンブラーを持ち上げると、パチパチとトニックウォーターの泡が無数に弾け、表面に浮かんだライムの爽やかな香りが鼻をくすぐった。ひとくち喉へ流し込むと、ジン特有の青っぽいボタニカルの風味とほんのりと甘く独特な苦みを併せ持った炭酸水がライム果汁によって締まり、混然一体のバランスでこのカクテルを成立させている。
女は続けざまにグラスを傾け、首筋に浮かんだ汗をハンカチで押さえながら、すぐさま半分ほどを空にした。外気と室内の温度差に辟易とはするものの、さすがにこのバーの扉を押し開いたときに浴びた冷気と、スツールへ腰掛けて冷えたおしぼりを受け取るのももどかしく頼んだジン・トニックを流し込んだ心地よさが、一時の熱を抑えてくれる。
年々、暑さが増している気がする。子どものころ、祖父母の家の庭先でペットや昆虫と戯れ、遊び疲れ、網戸を閉めた日陰で扇風機の風を受けながら、すやすやと寝ていた遠い思い出も過去の彼方へ去り、そして2020年代は猛暑という言葉だけでは片づけられないほど、蒸しこんだビニールハウスのように地球全体を熱気が包んでいる。
2杯めのジン・トニックを口につけたところで、ようやく女は身体じゅうに内包した不快感から解放された。そこでようやくバーカウンターのひざ元に据えられたフックにかけてあるトートバッグから携帯電話を取り出した。
未読のメールが2件。
会社を出てから15分ほどしか経っていない。送信者は確認しなくてもわかっている。ちいさなため息がそっと出たとき、目の前のジン・トニックの氷がグラス内で溶けてカランと音を立て、静かなバーに響いた。
マキとは高校の同級生で、当時はひとことも話したことはなく、学園祭や修学旅行などの学校行事で友達の友達という関係で遠巻きに顔を知っているていどのものだった。それが、卒業後に共に上京して同じ大学だと知り、また一人暮らしな上に大学へ通う沿線も同じとなれば、親密度は増すのは必然といえた。お互いに地方から出てきて心細かったのも多分にある。
女と対を成すようにマキは行動力があり積極的で押しが強い。彼女は大学を二年で中退して、NPO団体の活動に精を出すようになった。フィジーやニュージーランドの南西などに頻繁に赴くようになり、その活動の幅を広げていった。その際、マラリアに感染したのも二度三度ではないはずで、頭痛・嘔吐や下痢の症状もその都度違い、死線をさまよったとの話も聞いたが、本人にあまり応えた様子は見受けられなかった。そして、それが回復するやいなやこんどはパプアニューギニアへ出発するとのことだった。
いらっしゃいませ、という若いバーテンダーの声で我に返り女は顔を上げた。
新しい客は迷うことなく女の隣に腰を下ろした。
「なんだ。来てるなら無視しなくていいじゃん」
女はメールの無返信の気まずさもあって、意味もなくおしぼりを弄びながらバーテンダーに視線を走らせ、「わたしもいま来たとこだから」と消えいる声でこたえた。
「・・・・・・そう」マキは女の空のグラスを見ながらいって、「マスター、あたしビールね。すごい冷たいやつ」後半はおしぼりを両手で受け取りながらバーテンダーへ笑顔を向けた。
彼は同じような表情で応じながら、女のグラスへ手のひらを向けた。「いかがしましょう」
「あ、わたしは同じもので」
かるく会釈してバーテンダーが下がったところでマキが顔を向けた。
「何飲んでんの」
「ん、これ・・・ジン・トニック」
「へぇ、あたし居酒屋とかボックスでしか飲んだことないなぁ」
「おいしいよ」
返した女への反応はなく、やがてきたそれぞれのグラスだったが、彼女は自身のピルスナーを持ち上げ
女のグラスへ一方的にカチリと合わせるとキュッと喉を鳴らした。
「考えてくれた?」
ピルスナーのビールが1/3ほどになったところで、マキが正面を見たままいった。店内はまだ宵の口とあって彼女たち以外に客はなく、バーテンダーも気を利かせているのかカウンター隅でグラスを磨いている。
「おかあさんのことがあるから、やっぱりわたしには無理だよ」
マキはすぐに盛大にため息を吐くと、身体ごと女に向きなおった。
「お姉ちゃん夫婦が近くに住んでるじゃん。大丈夫だって。ね、それより本当にお願い。こんどのパプアニューギニアの学校支援、あんたしか頼める人・・・というか信頼できる人いないの。どうしてもこの事業は遅れなく進めたいし、お給料は今より少なくなっちゃうだろうけど、でもでも、世界に向けて社会貢献できるって、ほんとすごいことって思わない?」
いつからか、マキは帰国すると女へ連絡をしてきて同じ台詞を繰り返している。彼女がしていることを否定するつもりはないが、実家で現在一人きりになっている老母が心配なのも事実で、姉夫婦の夫との関係が良好でないことも姉から事あるごとに聞かされている。
女は自身が優柔不断であることは自覚している。母を案じる一方で、友人を応援したいが海外で活動をする気はなかった。ただ、女には自身の置かれた現状と気持ちを考えると、とてもマキを懐柔できる術を持ち合わせてはいなかった。
それからジャズの音色だけが静かに時を刻んでしばらくしたころ、ちらほらと止まり木がにぎわいはじめた。
「ジンってさ・・・」そういってマキが静かに話しはじめた。
ジンもトニックウォーターも元をたどれば薬用として発明された。ジンはオランダにはじまり、英国で洗練され、米国で普及する。トニックウォーターはキナという植物由来のキニーネを抽出したものがそもそもだ。ジンの原型であるものがオランダの大学教授の研究によって発現する以前に、16世紀以前の熱帯・亜熱帯地域ではマラリアが流行、それで命を落とす人たちも少なくなかった。
薬局で販売されるのも束の間、そこはアルコール。酒飲みの間で瞬く間に広がり・・・というのはジンに限ったことではないのだが。
「去年の春ごろ・・・だったかな。今日みたくここで同じ感じで飲んだの覚えてる?」
マキがエンジェルリングが何層も残るグラスをコースター上で転がしながらいった。
「あ、・・・うん。もうそんなになるんだ」
「その時気づいた。それまでカシスオレンジしか飲まなかった子が、ってね」
思わず女はマキの横顔に視線をやった。
「あたしだって、いつまでも初心者運転じゃないんだから」そういうと、やさしい瞳を女に向け、「少しは周りを見る目も広がってるよ。・・・ありがとう、いつも心配してくれて。ジンもトニックも解熱なんかの医薬品として飲まれてたんだってね、ずっとむかしに。・・・オセアニア州もだけどさ、みんなずっと悩まされてるの。マラリアもだけど、他にもたくさんの病気に現地の人たちが十分な医療も受けられずに苦しんでるの。・・・あたし見ちゃったからさ、あの子どもたちを、あの澄んだ目を。あの子たちを絶対放っておけない。あの子たちを救いたいの」
俯いて下唇を噛みながらいうマキに、女は強い意志を改めて感じたが彼女にかける言葉は見つからなかった。
やがて、マキは突然何か吹っ切れたように顔を上げると、常連客と談笑していたバーテンダーを呼んだ。
「ジン・トニック2杯お願いできますか」そのまま潤んだ目を女に向けた。「餞別とおまじないのカクテルご馳走になっていいかな?」
女は涙をこらえて、くすりとしてちいさく頷いた。