8.楽しい毎日と古着通り
昼食を終えた後、ソーダ割のお代わりを注文し、オーレリアの現在に至るまでの大まかな経緯を聞いたアリアはくっ、と整えた眉の間に皺を寄せた。
「ヘンダーソン商会はひどいですね。婚約は破棄すると言って、仕事の紹介状一枚書かなかったなんて」
いつもにこにこと笑顔でいるアリアが不愉快そうに眉間に皺を寄せ、ぐっ、とテーブルの向こうから身を乗り出してくる。
「――オーレリアさん、一方的な婚約破棄の場合、結納金の返納なしは基本中の基本で、その他に結納金の倍から三倍の慰謝料は請求できるものですよ。今からでも請求したらどうですか? 腕のいい弁護士、紹介しますよ」
「いえ、スーザンさん……お世話になっている宿のおかみさんにも言われたんですけど、もういいかなってなりました。負け惜しみみたいになりますけど、私の方もそんなに気乗りしない縁談でしたし、いろんな人に助けられて、今はなんとかなっていますし」
もともとオーレリアは、叔父夫婦の家から出たいと思いつつ収入のほとんどを持っていかれていて、身一つで逃げ出す踏ん切りがつかない状態だった。
あの家を出るいいきっかけになってくれたのだと、婚約破棄の不義理は相殺しようと今は思っている。
「それより、これから王都で楽しく暮らしていくほうが私には大事ですし」
「オーレリアさんならできますし、きっと十倍、いえ、百倍もいい相手が見つかりますよ。今は宿暮らしなんでしたっけ。部屋を借りる予定はあるんですか?」
「はい。今お世話になっている宿がすごくいい条件で住まわせてくれているんですけど、いずれはと思っています」
魔力量の多さが幸いして、今のオーレリアはアルバイトの身分であり、働き始めてまだ三週間というところだけれど、王都の勤め人の平均を優に越える収入がある。
王立図書館でも同じ歩合で報酬を出してくれるということなので、今のペースでいけばそのうち新しい部屋を借りる資金は用立てることができそうだ。
とはいえ、オーレリアには部屋を借りる際に身元を保証してくれる保証人がいない。ギルドや商会に属してある程度の年数働けば身元を保証してくれる制度もあるけれど、今のところオーレリアにはその宛もなかった。
部屋を借りる際に賃料を一年分前払いする等、部屋の貸主との交渉によっては保証人なしでもいけるケースもあるらしいので、もうしばらくは資金を貯めることになりそうである。
とりあえず、スーザンに正規の料金を払ってもう一ケ月は鷹のくちばし亭に滞在させてもらえるよう、交渉してみるつもりだ。
いまだに安定したとも、先行きが明るいとも言い難いけれど、婚約破棄を言い渡されたあの日の閉塞感は、もうどこにもなかった。
友達と素敵な街の片隅で、美味しいご飯を食べてちょっとした愚痴や相談ごとで盛り上がっている。一ケ月前には――いや、王都に来る以前だって、到底考えられない状況だ。
――楽しいな。
スーザンと他愛ない話をしているとき、出勤の道すがらトラムの車窓から王都の街並みを眺めているとき。
黙々と本の奥付を確認し、「保存」の付与を施しているときも。
ここしばらく漠然と感じていた、心が浮き立つような気持ちに、今はっきりと輪郭ができたような気がした。
――私、毎日すごく、楽しいんだ。
そんな風に思うのはいつぶりだろうか。
前回が昔すぎて、すぐには思い出せない。
「よかったらこの後、服とか見に行きませんか? オーレリアさん、髪の色が綺麗だからもっとくっきりした色の服も似合うと思うんです」
オーレリアにその気がないと納得したのだろう、話を変えるようにアリアがそう持ち掛けてきて、少し迷ったものの、頷く。
昔からオーレリアの服は近所の子のおさがりか、古くなって擦り切れかけた服をかなり無理して繕って着ていた。
ずっとそうだったので清潔でサイズが合っていればそれでいいと思っていたけれど、友達と並んで歩くのに、見栄えがいいとまではいかずとも、みっともないと思われない程度の装いがしたい気持ちが湧いてくる。
今の日常を楽しんでいることに気づいたばかりなのに、もうもっと楽しみたいと貪欲に思っている自分が、オーレリアはすこし不思議だった。
「では、行きましょう! この少し先に、古着屋さんがたくさん並ぶ通りがあるんですよ。すごく大量の服から自分に合う服を選ぶのは大変だけど、宝物が見つかるみたいに、最高の一着が手に入ったりするんです!」
「はい!」
湿っぽい話はこれで終わりと打ち切るようにアリアが元気よく言い、オーレリアも笑ってそれに頷いた。
* * *
カフェから僅かに傾斜した坂道を上り大通りから少しそれた通りに出ると、アリアがそう言ったように古着屋が軒を並べるエリアに出た。
古着店は店内だけでなく、軒先まで吊り売りの服が大量にぶら下げられて、まるで服の見本市のようである。
服の種類や趣向も様々で、ある程度の分類はされているものの意外な棚から意外な服がひょっこり顔を出すこともある。なるほど、ここからお気に入りの一着を見つけるのは相当大変な作業になりそうだった。
「オーレリアさんは肌が白くて髪色が明るいから、青か緑の服がすごく映えますね。首筋のラインが綺麗ですし、襟は少し大胆に開いていてもいいと思います。抵抗がなければ、ワインレッドみたいな濃い目の赤も、髪色と合わせてとっても似合いますよ」
ハンガーに掛けて吊り売りしている服からアリアが選ぶのは、これまで袖を通したことのないようなタイプの服ばかりだ。
というより、ずっと一枚か二枚の地味な服を着回してきたので、こちらの世界の服の流行や知識そのものがあまりない状態である。
今着ているワンピースも王都に来てからようやく買い足したもので、それも値段が安くてサイズが合っているという理由で選んだものだ。
なんとなく、自分が好きという理由で服を選ぶことに気が引けるのは、叔父夫婦の無駄な食い扶持にはできるだけお金をかけたくないという視線に晒されて子供時代を過ごした後遺症のようなものだろう。
「お兄さん、これとこれ、試着させてもらってもいいですか?」
「勿論、試着だけでもどんどんしていって。服選びは中央区の華だからね。一日中服と睨めっこして、運命の一着と出会うのが醍醐味ってものだ」
アリアがお兄さんと呼んだのは、顎も頬も鼻下もフサフサのヒゲで覆われている店員の男性だった。顔の大半が髭で隠れているため年はよく分からないけれど、声は思ったより若く、すっきりとした淡いブルーのシャツに濃い茶色のジレを合わせていて、それがやけに洗練されている。
「じゃあまずこれとこれを。オーレリアさん、試着室はこっちです」
「は、はい」
そうしてやや強引に、アリアに服とともに試着室に押し込まれてしまう。右手には濃い緑色のワンピース、左手にはワインレッドで袖がふわりと波立ったウイングタイプのチュニックに、膝丈の黒のスカート。
赤い色は自分には派手な気がして、二枚を見比べ、まずはワンピースを着てみることにした。オーレリアとしては試着して服を買うなど初めてだけれど、前世では当たり前だったので、まごつかずに済んだのにほっとする。
襟元はスクエア型に開いていて、鎖骨まではっきりと見えるのがやや気恥ずかしい。胸の下で絞りが入り、そこから下はふわっと裾が広がっている。
これまで袖を通したことのない、とても女性らしいシルエットのワンピースだ。
首元のボタンを綴じると、すっと体に密着する感じがする。鏡に映る自分は確かに自分なのに、まるで見知らぬ女性のようだった。
「オーレリアさん、着れました? 何かお手伝いすることはありますか?」
「あ、ええと、着れました」
「わっ、思ったよりずっと似合ってますよ!」
おずおずと試着室のカーテンを開くと、アリアが両手を胸の前で合わせて、ぱっと表情を華やがせる。
「三つ編みもほどいて下ろすか、後ろで編みこんで飾りピンで留めても可愛いかも。あ、髪、触っても大丈夫ですか?」
「はい、あの、ちゃんと毎日洗ってます」
思わずそんなことを言うと、アリアは何度か瞬きをしたあと、くすくすと笑った。
「やだ、オーレリアさん、そういう冗談言うタイプじゃないと思ってたから、不意打ちを食らいました」
アリアの指が伸びてきて、三つ編みを結んだオーレリアの髪を解くと、ふわっと少し癖のある髪が広がった。
「ああ、お嬢さんは髪を下ろした方が全然可愛いじゃないか。ブラッドオレンジの髪が白い肌色によく映えるし」
「ですよねー。オーレリアさんがこの髪型を気に入っているならそのままでもいいんですけど、このほうがうんと華やかに見えますよ」
つい、とアリアに三つ編みの癖がついたままの髪を耳に掛けられて、その感触に、不意に胸にこみあげてくるものがあった。
こんな風に誰かに髪に触れられたのは、多分、母が亡くなって以来だ。
母と同じ色の髪が好きだったし、子供心に誇らしかったのに、ある日叔母に手入れをされていないぼさぼさの髪でいると外聞が悪いから切ってしまえと怒鳴られて、唯一自分でできた三つ編みをしているうちに、その理由を忘れてこの髪型でいなければいけないという気持ちだけが残ってしまっていた。
あの日の叔母は少し機嫌が悪かっただけで、きっと大したことではなかったのだろう。
けれど、両親がいなくなって、父が撫でてくれた、母が丁寧に櫛を入れてくれた記憶が残るこの髪まで失いたくなかった。
両親がいなくなってから、十一年も過ぎてしまったのに。
――パパとママが触れた部分なんて、どのみちもう残っていないのに。
「前髪も少し切ったほうがいいかも。目にかかると視力が悪くなるというし、オーレリアさん、瞳の色がすごく綺麗だから――オーレリアさん?」
「いえ……この服、買おうかなって。アリアさんが似合うって言ってくれて、嬉しかったですし」
「ふふ、その服が似合っているのは本当ですけど、まだまだこれからですよ。「運命の一着」探しに果てはありませんからね!」
アリアは茶目っ気たっぷりにウインクをする。
それにあはは、と笑って、なんだかこうして声を上げて笑ったのもいつぶりだろうなんて思うことになった。