43.婚約者とそれぞれの想い
馬車を使うより早いという理由でトラムで中央区に移動し、大通りをひとつ逸れた区画に並ぶ建物のひとつに足を向ける。
一階はブティックになっており、居住区に上がるためのホールにはコンシェルジュの他に体格のいい門番が立っている。王都にはよくあるタイプの建物で、メリッサは現在その一室で暮らしている。
ここは、元々メリッサの父親である男爵が愛人である彼女の母親に譲った物件だという。舞台歌手である母親は現在他の都市に活躍の場を移していて、週に何度か家事を担う使用人が通っているらしいが、今はメリッサは一人暮らしだ。
コンシェルジュに身分証を見せ、伝声管でメリッサに来訪を伝えてもらう。入室の許可が出たので階段を四階まで登り、目的の部屋をノックすると、すぐに内側からドアが開かれた。
「ブライアンさん! 来てくれたんですね!」
明るい笑顔で迎え入れてくれたのは、ブライアンの婚約者であるメリッサだった。
濃い灰色の真っすぐな髪を腰まで伸ばし、背も女性にしては高い方だ。スレンダーだがメリハリのある体形をしていて、それを強調するようなワンピースを身に着けている。
顔立ちは王都の歌姫と呼ばれていた母親によく似た、妖艶な雰囲気の美女だが、二十歳という年の割に少女のような無邪気で、かつ気まぐれな性格をしている。
「お茶を淹れますね。どうぞ、座って下さい」
「メリッサ、ロバートからフォスター商会の納期の話は聞いていますね? 人を遣っても部屋から出てこないと聞きました。体調でも悪かったんですか?」
今の華やかな表情を見ればそうでないことは一目瞭然だったが、頭ごなしに責めても面倒なことになるだけだ。ブライアンとしてはそれなりに気を遣ったつもりだったが、メリッサはぷう、と頬を膨らませ、唇を尖らせた。
「十日ぶりに会ったのに、まず仕事の話ですか?」
そうして、子供っぽい口調で責めるように言って、ぷいっ、とそっぽを向いてしまう。
「ひどいです、ブライアンさん。十日前だって仕事のついでに来てくれただけで、お話も仕事のことばかり。私たち、婚約者なんですよ? デートしたり、食事に誘ったり、そういうの、全然ないじゃないですか」
ため息を吐きたくなるのをぐっと飲みこむ。
彼女は優秀な付与術師だが、とにかく気分にムラがあり、一度拗ねると機嫌を取るのに非常に手間が掛かる。
下手に出てそれで済むなら、そうしたほうが早い。
「すみません。今は商会が繁忙期で、私自身ほとんど家には寝に帰るだけの状態です。秋が深まる頃には時間が取れるので、そうしたら中央区の良いレストランを予約しますので」
「そんなの、何か月も先じゃないですか」
「どうか、分かって下さい。商会を盛り立てていくのが私の仕事ですし、あなたはその私の妻になるのですから」
妻という言葉に、メリッサはちらりとこちらに視線を向ける。
「……折角来てくれたのに、お花もないんですか?」
正直、人と会うのに花を用意するという感覚そのものが、ブライアンにはなかったが、その言葉に、次から彼女を訪ねる時は多少遠回りしても花を売っているスタンドに寄ると決める。
「すみません。私は女性と付き合ったこともない朴念仁です。気が回りませんでした」
「もう、仕方がないですね! パパはママに会いに来るときは、必ず小さくても花とプレゼントを持ってきていたんですよ。その花が枯れるまでにはまた会いにくるからって約束なんだと、ママがよく言っていました」
ころりと機嫌を直し、手を取ると、さ、座って下さいとソファに促される。すぐにメリッサを連れて商会に戻りたいところだが、そう言えばまた拗ねてしまうだろう。
仕方なくソファに腰を下ろす。メリッサはそれなりに豊かな暮らしをしているが、貴族ではないのでお茶くらいなら自分で淹れるらしい。
「このグラス、「冷」を付与しているので、ずっとお茶が冷たいんですよ。夏にはぴったりだと思いませんか?」
「さすが、付与術師ですね。素晴らしいです」
「温」を付与したティーポットと「冷」を付与したグラスやジョッキは、比較的多く出回っている。当たり前だが付与されていないものと比べれば高価なので、裕福な層を中心としているが、そう珍しいものでもない。
それでも賞賛されれば心地よいらしく、メリッサはにこにこと笑っていた。
宮廷付与術師として二年ほど勤めていたと聞いているが、彼女はこうしたあからさまな褒め言葉に弱い。虚栄心が強く、場の中心でなければ気が済まないが単純で、少なくとも悪人ではない。それがメリッサ・ガーバウンドだ。
「ブライアンさん、結婚式はいつ頃になりますか? そろそろママにも連絡をしないと、忙しい人なので、出席してもらうには早めに連絡をしないとなんです」
花の香りが漂う冷たい紅茶を傾けて、メリッサは頬をバラ色に染めて言う。
「ドレスもそろそろ採寸をしたいです。白絹の裾の長いデザインで、真珠を縫い付けたものがいいです。中央区の教会で、親しい人たちを集めて、白薔薇の花びらをシャワーのように撒いてもらって、その中でみんなに祝福してもらいながら永遠の愛を誓うんです」
夢見るように言うメリッサは、十代になったばかりの少女のようだ。そんな結婚式は貴族でもなければ無理だと、頭ごなしに言っても仕方がない。
「ママはパパと結婚式が挙げられなかったので、私には世界一幸せなお嫁さんになりなさいって言うんです。だから私ずっと、素敵な結婚式が夢で」
「婚約の時も話しましたが、すぐには難しいです。先に届けを出して、式は数年後という形が現実的かと」
「なんとかならないんでしょうか。数年も後なんて、私、行き遅れでお嫁さんになったみたいに見えてしまいます。それに、赤ちゃんができたら体のラインが崩れるってママが言ってました。私、綺麗にドレスを着たいんです」
「メリッサ……僕としてもあなたの希望はできる限り叶えてあげたいと思っています。ですが、できないことをできるというのは、不誠実だと思って正直に言っているんです」
「………」
俯いて、唇を尖らせる仕草はもはや少女というより幼児のようだ。自分が女の扱いに不得手であるのは間違いないが、それにしたってメリッサは幼すぎるように思えてならない。
「メリッサ。婚約の時に、婚約中も私の仕事を助けてくれると言ってくれましたね?」
「………」
「お茶を飲んだら、商会に行きましょう。あなたが付与をしている間、私も傍にいます。それが終わったら、東区にはなりますが美味しいレストランの席を取りますので、食事に行きましょう」
脳裏に、デスクに積み上がった書類の束が浮かぶが、仕方がない。食事を終えてメリッサを帰りの馬車に乗せた後、商会に戻って片付ければなんとかなるだろう。
「……本当ですか?」
「ええ。確かにあなたの言う通り、私たちには共に過ごす時間が足りていないと反省しました。いつも、とは言えませんが、できるだけ一緒にいる時間を作るようにします」
ぱあっ、とメリッサの表情が明るくなる。彼女は立ちあがると、ブライアンのソファの隣に座り、腕を絡めてきた。
「きっとですよ? 約束ですよ?」
「はい、約束します」
「うふふ。私、頑張ります」
その言葉にほっと息が漏れる。
メリッサは宮廷付与術師として勤めていただけあって、魔力量は多く、一日に付与できる数も多い。これで、フォスター商会への納期を守ることはできるだろう。
新しい付与術師を雇うことができればそれが最善だが、付与術師の雇用は高くつく。多額の結納金を支払っているので、今の時点では厳しい。
――こんなことなら、前の婚約者から結納金の返還を求めればよかったかもしれない。
会ったのはほんの十分ほどだったが、人が良さそうな、明らかに世間知らずな娘だった。強く言えば王都までの往復の旅費はともかく、それ以外の金は戻ってきたかもしれない。
――いや、本人はともかくその親族まで出てくれば、話はもっと複雑になっただろう。
もはや顔もおぼろげで、中途半端に赤み掛かった髪の色くらいしか印象に残っていない。
メリッサにじっと見つめられて、見つめ返すと瞼を下ろされる。
さすがに女の扱いがいまいちの自分でも、何を求められているかは明白だ。手入れが行き届いているなめらかな頬に指を添えて、柔らかい唇にキスをする。
「……うふふ」
恥じらうように笑うメリッサは、頬を染めて、幸せそうだ。
口づけひとつで機嫌がよくなるなら、安いものだ。
あとはまた拗ねたりする前に、商会に戻ろう。
もたれ掛かってくるメリッサを抱きとめて、考えるのはそんなことばかりだった。
メリッサの暮らす建物の階数は日本式で地階が一階、二階、三階と数えています。
一階が店舗と住宅のホール、二階~三階が貴族や富豪、四階が中産階級、五階~屋根裏は貧しい学生や芸術家、使用人などが暮らしています。