42.アルバートの悩み多い日々
王都の東区の大通り沿いに本店を構えるヘンダーソン商会の会頭室。黙々と書類仕事を片付けていたアルバート・ヘンダーソンは、不意に響いたノックの音に顔を上げた。
気が付けば、太陽は中天を越えて西側に傾き始めていた。正午の鐘の音を聞いたのは随分前で、きりのいいところまでやってしまおうと思っていたら、手を止めるタイミングを失ってしまっていた。いざ書類から目を逸らすと、眼球の奥にどんよりと重たい疲れを感じて、ぐりぐりと眉間を揉みしだく。
「どうぞ」
そう告げると、ドアが開き、入室してきたのは初老の男だった。父の代からヘンダーソン商会に勤めていて、今は番頭を任せているロバートだった。
ロバートとはそれこそ赤ん坊の頃からの付き合いだ。第二の父と言っても過言ではない。信頼しているし、信用もしている。
だがここしばらく、彼が会長室を訪ねてくると、どんよりと気分が沈むのが常だった。
「ロバートさん。どうかした?」
「フォスター商会からの連絡で、出荷が予定された木箱のうち、三分の一に【保存】が掛かっていないと連絡がありました」
思ったよりも深刻な話に、アルバートは書類に走らせていたペンを止める。
「メリッサに【保存】を掛けるよう頼んだのは先週だよね。フォスター商会に今回下ろす木箱は三十箱だから、無理のないスケジュールだったと思うけど」
「はい、メリッサさんからは、終わったとお聞きしていたので。すみません、私が改めて確認しておくべきでした」
「期日は明日だ。十箱程度なら、今からやれば間に合うだろう。フォスター商会の荷場までは僕も行って一緒に頭を下げるから、すぐに付与を掛けるように言ってくれ」
「それが、メリッサさん、今日は商会に顔を出しておらず……迎えをやったのですが、部屋から出てこないそうで」
ずきずきとこめかみの辺りが痛む。こうなると、メリッサの部屋まで自分が迎えに行かねばならない流れだろう。
ちらりと書類の束に視線を向ける。アルバートでなければ決裁できないものばかりであり、明日に回そうにも、明日は明日の分の書類が届くことになっている。
――今夜、残ってやるしかないか。
睡眠を削れば時間は捻出できるが、納期を守らなかったことで毀損する信用は取り返しがつかない。ただでさえ、ヘンダーソン商会は今が存続できるかどうかの山場だ。
ヘンダーソン商会は、祖父の代から王都で食品の流通を担う老舗の商会だ。それ以前は紡績を扱う商会だったが、その資金力で祖父が設立したのが現ヘンダーソン商会だった。
規模は中堅というところだが、祖父の代から付き合いのある商会も多く、手堅く商売を続けてきた。
王都は人が多く、必要とされる食料も多い。堅実に商売をしていれば貴族のような生活とまではいかずとも、それなりの規模を維持し続けることができるはずだった。
潮目が変わったのは、父が祖父の跡を継いだ頃だという。それまで王都で正式な商売をするには王家の勅許状が必要だったが、より流動的に商業の門戸を開くという議会の意向で、商売の自由化が施行された。
それにより、王都の外からも多くの商会が流入し、王都の食卓は彩り豊かになったが、その中である商会は商機を掴み躍進し、またある商会は波に乗り切れず衰退することになった。
ヘンダーソン商会は、後者に入る。大きな変化の波に慌てふためいた父が新規事業を展開しては失敗することを繰り返し、気づけばいくつも負債を負うことになった。
父が商会を継いで、傾くまで、たった五年ほどだったという。
父は父なりに、時代の流れを読んで紡績から食品に業種を転換し成功を収めた祖父への羨望と、祖父の息子としての誇りがあったのだろう。
父は決して悪人ではない。会頭としてはともかく、父親としては子供に優しく面倒見のいい父だったと言えるだろう。
だが、甘い展望で新たな業種に手を出しては手痛く失敗を繰り返す父に、アルバートは子供心にもどかしく、成人後すぐに父が倒れベッドから起き上がれなくなった時には、安堵すらあった。
それから、アルバートは祖父の代からヘンダーソン商会を支えてくれているロバートと共に十年弱、傾いた商会の経営を立て直すべく奔走を続けている。商会長代理という立場でありながら、二十代半ばになるまで婚約者もなく独身だったのも、そのためだ。
――ようやく、持ち直してきたところだったというのに。
王都の人口を支えるための食品の売買は、自由化が進んだ今でも堅実な業種である。祖父が築いた人脈もあって負債の大半の返済が済み、ようやく息が吐けるようになった頃、そろそろ結婚をと周囲から勧められるようになった。
アルバートは、正直に言えばさほど結婚に興味はない。祖父が健在だった頃は、アルバートの婚約者にと色々な家や下級貴族からさえ打診があり、周囲にいた少女たちもなにくれとなくアルバートに近づいてきていたけれど、父が跡を継いでからというもの、彼女たちは最初から存在しなかったようにアルバートの周囲から消えてしまっていた。
それに失望したわけではない。ただ学んだのだ。彼女たちは条件で自分を選ぶ。ならば、こちらも条件をつけて相手を選べばいいのだと。
結婚相手には付与術師をと、商会長代理になった頃から決めていた。
付与術は、商売において非常に重要な技能だ。【冷】を付与した入れ物があれば王都内で生鮮食品の流通に大きく有利になるし、【保存】や【軽量】を掛けた木箱は遠くまで加工食品を運び、その帰りに地方から安価な生鮮食品を詰めて戻ってくることができ、駄馬への負担も軽くなる。
大店になれば専任の付与術師を数人抱えているし、中堅の商会は子供や親族に付与術の才能が出れば、一人前の付与術師になるべく教育と支援を惜しまない。
生憎、ヘンダーソン商会の親族には付与術の才を持つ者はいない。付与術師の需要は高いため、王都周辺では縁談を見つけるのも難しい。
地方で付与術の才能を持っている娘を探し、結納金を支払って妻として迎えるのが最も現実的だった。
そうして迎えることになったのが、以前の婚約者だ。
ヘンダーソン商会が砂糖の取引をしている商会が仲介してくれた娘で、両親はすでに亡く叔父夫婦に世話になっている、成人して二年目という話だった。使える付与は【冷】と【温】だけだというが、その分紹介金と結納金を含めても金貨十枚ほどで済んだ。
しばらくは王都内に流通する荷箱に【冷】を掛けさせ、もう少し余裕が出たら【保存】の術式を購入して覚えさせればいい。【保存】の術式の購入には金貨百枚ほどが必要になるが、汎用性が非常に高いので、それくらいはすぐに元が取れるだろう。
子供が生まれて、付与術の才能があれば妻から子へ術式を伝えることもできる。子供のうち二人ほど才能を引き継いでくれれば、その子供たちが成人する頃にはヘンダーソン商会は祖父の時代を越えることも可能だろう。
付き合いのある商会から、結婚相手を探している付与術師がいるのだがと声を掛けられたのは、婚約が調って、相手が王都に向かうことになったと連絡が来たのと、ほとんど同じタイミングだった。
相手は男爵家の庶子ながら、付与術の才能があったことで手を掛けて育てられたのだという。高等学院を出たところで父親の男爵が急逝したが、その時点で五つの付与術を覚えていたのでそのまま宮廷付与術師に登用されたのだと男は調子よく話していた。
使える付与は【冷】【温】に加え【保存】【軽量】【乾燥】だという。どれも商売向きの術式で、比較的金で買いやすいものばかりだ。
彼女は宮廷付与術師を辞めて家庭に入りたがっているのだという。紹介料に金貨二十枚。結納金に金貨三百枚は現在のヘンダーソン商会の動かすことのできる現金の大半であったものの、基礎術式しか使えない田舎娘に金と時間をかけて新たに付与を覚えさせるより、条件はかなりいいように思えた。
すぐに話をまとめてもらい、翌週には彼女――メリッサと顔合わせをして、数度のデートをして、婚約に至った。
婚約者としてあなたを支えていくわ、と無邪気に笑っていたというのに、実際に仕事を任せれば、常に二割ほど抜けが出る。
商売において二割のロスは、全体の利益を損なうのに十分な率だ。商人にとって情報は血と同じ。巡るのは早く、損なわれれば命に関わる。
繰り返されれば、あの商会の仕事はいい加減だと自然と取引に影響も出るだろう。
「すぐにメリッサのところに行きます。付与が必要な木箱は倉庫に並べておいてください」
「はい、若旦那。その……」
「……大丈夫、上手くやるよ」
祖父の代からヘンダーソン商会を支え、繰り返される父の失策を止められなかったことに、ロバートは強く責任を感じている。
商売においては父よりも父らしく、アルバートを導いてくれた人だ。心配しなくていいと笑って、会長室を出る。
黄色味の強い金髪をくしゃくしゃとかき混ぜたあと、懐から櫛を出し、きちんと撫でつける。
とにかく、今はメリッサをなだめすかし、納期通りに商品を納めなければならない。
父の代で、祖父と付き合いのあった商会の多くがヘンダーソン商会と疎遠になった。残った数少ない縁を、これ以上損なうわけにはいかない。
――今が、正念場だ。
そう思い続けて、十年近くが過ぎた。
ようやく少し息が吐けると思ったが、これだ。
悩みは泥のように足にまとわりついて、重い。それを振り払うように、アルバートは歩き出した。




