141.突然の雨とグレミリオン邸とお風呂
お茶をお代わりしておしゃべりを楽しみ日が傾き始めた頃、カフェを出て辻馬車の停留所に向かっていたところ、ぽつり、と頬に冷たいものが当たる。
「あ、降ってきましたね」
フェルミナス商会を出た時からやや雲が多かったけれど、カフェにいる間にすっかり曇天に変わり、空から落ちてきた滴はぽつり、ぽつりと少しずつ勢いを増して、あっという間に小雨になってしまった。
「少し急ごう」
「はい」
幸い停留所まではそれほど離れていなかったけれど、生憎途中に雨宿りができるような軒が見当たらず、オーレリアもデイドレスで少し早足程度にしか進めなかったため、停留所にたどり着いた時には全身がしっとりと濡れてしまっていた。
少しずつ暖かくなってきているとはいえ、日が落ちればまだまだ冷える日が続いている。ぶるりと震えるとウォーレンは上着を脱いで肩に掛けてくれた。
男性用のコートはどっしりと重たいが暖かく、思わずほっとしたものの、フロックコートを脱げばウォーレン自身はシャツの上にベストというそれこそ寒々しい姿で慌ててしまう。
「ありがとうございます。でも、ウォーレンが寒いんじゃ」
「俺は鍛えてるから大丈夫」
きっぱりと言った後、少し考え込むように黙り込むと、すぐに馬車を一台確保してくれた。
「オーレリア、あの、もしよかったらなんだけど、うちに寄っていかない? 拠点より近いし、体が冷えたままだとよくないから」
「えっ、ウォーレンの家ですか?」
「うん、中央区内だから、馬車なら十分とかからない。その、服を乾かして温かい飲み物を飲むだけでも。夕飯も食べていけばいいし」
「でも、急に行くのはご迷惑では」
手を差し伸べられて、馬車に乗りこむ。
ここから拠点まで、道が混んでいなければ四十分程度というところだろうか。中央区の門を抜けて東区に入った先にあるので、少し離れているのは確かだ。
拠点に戻ると言えば、ウォーレンは送ってくれるのだろう。ここで別の馬車に乗ってじゃあまた、という性格でないことくらいは判っている。
その間、シャツとベストという寒々しい格好でいさせるのはあまりに申し訳ない。
「あの、それでは、迷惑でなければ……」
「よかった! 大丈夫。俺自身放蕩家主みたいな感じで、連絡もせず帰ったり帰らなかったりしているくらいだから」
ウォーレンは安堵したように笑い、御者席の窓を軽く叩くと、馬車はゆっくりと走り出す。
どうやら雨が強くなってきたらしく、馬車の天井を雨粒が叩く音が早くなっていた。
「昼間は晴れていたのに、ついてないね」
「春先は天気が崩れやすいといいますもんね」
こちらの世界にも新聞にその日の天気予報は載っているけれど、あくまでざっくりとした予測でしばらく雲が多いだろうとか、晴れることが予想されるというような曖昧なものであり、当たる当らないというレベルにはまだ達していない。
幸い道は空いていたようで、ほどなく馬車は減速し、ゆっくりと停止する。ウォーレンが御者席につながる窓越しに硬貨を渡し、ドアを開けた。
「ごめん、支えるから、少し走ろう。普段来客もないから、正門は閉じてることが多いんだ」
そう言うと、コートを頭から被せられて、腰を抱かれる。門が開いていれば馬車寄せまで入ることができたが、普段から閉じられているので前庭を駆け抜けなければならないという意味らしい。
正門の横に設えてある扉には鍵がかかっておらず、スムーズに中に入ることができた。
婚約自体は冒険者ギルドでエレノアとレオナに加え、公証人立ち合いの元で行われたのでウォーレンの自宅に訪れたのはこれが初めてだったけれど、白い石造りの立派な建物に、少し息を呑む。
円柱形の柱が四本建てられたひさしの向こうに、見上げるほど大きな扉があり、細やかなところまで彫刻が彫り込まれている。全体は三階建てで、アーチを描く壁が等間隔に並んでいた。
貴族の屋敷といえば一時期滞在させてもらっていたウィンハルト子爵家と、ウォーレンとお見合いをしたエレノアの婚家であるローズ伯爵家程度しか知らないけれど、その二家と比べても規模が大きい。
「オーレリア、足元が悪いから、気を付けて」
「はい」
コートを被せてもらっているとはいえ、冷たい雨は容赦なく二人を打ち付けている。ひさしの中に入ってホッとすると、ウォーレンがノッカーを鳴らし、少しして、扉が内側から開いた。
中から顔を出したのはエプロン姿の女性だった。
四十代の後半くらいだろうか、赤褐色の髪を結い上げた、ふっくらとして年齢よりも若々しい感じの女性だ。
「まあまあまあ、お坊ちゃま! そんなに濡れてしまって――あらっ」
お坊ちゃまという言葉に目をぱちぱちさせていると、すぐに隣にいるオーレリアに気づいて、女性は手のひらで口をふさぐ。ウォーレンは苦虫を噛み潰したような表情をしつつ、腰に回したままだった腕に軽く力を入れて、中にオーレリアをエスコートしてくれた。
「婚約者のオーレリア・フスクス嬢だ。オーレリア、彼女はモニカ。この家の女中頭」
「初めまして、突然の訪問を失礼します。オーレリアと申します」
「あら、あらあらあら。失礼いたしましたお嬢様。雨に降られてしまったのですね。大変、すぐに湯の用意をいたします!」
「何か着替えも用意してあげてほしいんだけど」
「モニカにお任せください。ささ、お嬢様、こちらへ」
「あ、はい。あの、でもウォーレンの方が濡れて……」
「俺は着替えて暖炉に火を入れておくから、大丈夫。一緒に出掛けてオーレリアに風邪をひかせてしまったらアリアさんに叱られてしまうから、ゆっくり温まってきて」
気を遣わせないためだろう、軽く言われて頷くと、そっと腰から腕が解かれて、ずっと密着していたことが急に恥ずかしくなってしまう。
「ボイラーを温めておいてよかったですわ。まあまあまあ、お寒かったでしょう。おぼ……旦那様ったら、お電話を頂けたら迎えに参りましたのに」
「その、帰宅途中に急に雨に降られてしまいまして」
そう言っている間にも浴室に案内され、猫足のバスタブにお湯を溜めてくれる。
「ドレスはすぐに洗いに出しますね」
そう言うと、ごく自然に服を脱がそうとしてくるモニカにぎょっとした。
「あ、あの、自分でできますので!」
「あら……まあまあ、失礼いたしました。つい、お嬢様のお世話をしていた頃の感覚になってしまいましたわ」
「お嬢様というと」
「旦那様のお母様です。私は元々セリーナ様の乳姉妹で、世話係でもありましたので」
ウォーレンの母と言えば、現国王の愛妾だった方だ。
セラフィナは多少極端とはいえ、高貴な女性の身の回りのことは侍女やメイド、世話をする係の女性がやっていたことは想像に難くなく、ドレスを着せたり脱がせたりというのも、普通だったのだろう。
「その、私は庶民なので、慣れていなくて」
「はい、気遣いが欠けていて、お恥ずかしいですわ。着替えを用意して参りますので、ゆっくり温まってくださいませ」
モニカはニコニコと人好きする笑顔でそう言うと浴室を出ていった。
少しほっとして辺りを見渡す。かなり大きな浴室で、トイレとビデが置かれ、脱衣用の籠のほか、おおきな鏡台に風呂用の小物、のんびりと寛げそうな椅子まで置いてある。
元々の家主の趣味だろうか、仕様はウィンハルト家とそう変わらないけれど、こちらの方がやや女性的な感じがした。
ボイラーを通して配管からお湯が巡っているため、浴室内はとても暖かく、濡れたままでもあまり寒さを感じなかった。服を脱いで、ウォーレンの家で裸になっていることが何だか急に居た堪れないような、気忙しい気持ちになった。
浴槽に浸かり、全身が温まっていく感じに、ため息が漏れる。
「……大変な一日だわ」
あまり迷惑もかけられないし、できるだけ早くお暇しよう。そんなことを考えていると、タオルと着替えとともにお風呂でつまめるティーセットを持って戻ってきたモニカに、もう一度焦ることになった。




