140.懐かしい記憶と温かな今
何かと消耗しつつフェルミナス商会を後にすると、頬に当たる風が冷たくなっていて、空を見上げる。
店に入った時は少し雲がある程度でよく晴れていたけれど、今は七割ほどが雲で隠れていた。
「オーレリア、近くのカフェに入らない? 無性に甘いものが食べたい気分なんだけど」
「私もです」
快諾して、少し歩き飲食店の多い通りに出て、目に入った大きなカフェに入る。三階建てで眺望が良いテラスがあり、テーブルがいくつも並べられていて、運河を含む中央区の街並みを眺めることができた。
少し離れた場所に王立図書館を見つけて、懐かしさについ微笑んでしまう。ここしばらく多忙さに奔走してすっかりご無沙汰になってしまったけれど、館長のジャスティンを始め司書のみんなにも大変お世話になった場所だ。
少し落ち着いたら、お土産を持って挨拶に行きたいなと思う。
メニューを開くと、本日のケーキとしてスポンジケーキのクリームサンド、チョコレートケーキに、アップルタルトの三種類が載っている。
前世のカフェと違ってあまりたくさんの種類は置いていないけれど、その分迷うことも少ないので、ウォーレンはチョコレートケーキのクリーム添えとコーヒーを、オーレリアはアップルタルトと紅茶をそれぞれオーダーする。
「今日はお疲れ様です。――本当に疲れてますよね?」
「うん、こういうのはライアンが得意なんだけど、俺は誰かと宝飾品を選ぶなんて初めてだし、かなり緊張した」
「私もです。アリアは、きっと得意ですね」
きらきらした互いの友人を思い出して、目を見合わせ、ふっと笑い合う。
「私、服もアクセサリーもこれまで大分アリアに甘えていたなと痛感しました。私だけでは正直、まだ右も左も分かりません」
「女性は流行もあるから大変だよね。男はまあ、テーラーに行って「おまかせ」と言えば格好だけはちゃんとしたのを用意してもらえるし、ちゃんと管理すればそれほどたくさん服は要らないんだけど」
「女性のドレスってかなり目まぐるしく流行が変わるらしいですよね。ワードローブの管理が大変そうです」
それもあって、王都では特に女性の服は少し流行が外れた古着が豊富に売られていて、それらをリメイクすることで女性の服はかなりバリエーションが豊かであり、特に中央区は、少し歩いただけでとてもオシャレな女性が多いと感じる。
「でも、丁寧に対応していただけてよかったです。ロクサーヌさんのアトリエも、かなり懐かしい感じで」
「懐かしい?」
「あ、実家の父の部屋に似ているなって思ったんです。それで、色々と思い出してしまって」
「お父さん、確か商人だったよね?」
はい、と頷いたところでケーキと飲み物が運ばれてくる。
アップルタルトは、タルトの上に甘いカスタードを載せてその上に林檎の角切りジャムを載せた、フィリングを掛けて焼いたものだ。旬の林檎ほどの香りはないものの、洋酒がよく効いていて贅沢な味がする。
ウォーレンのチョコレートケーキはどっしりとしたチョコレート生地の間にアプリコットのジャムが挟んであり、その上から艶のあるチョコレートクリームをコーティングしたもので、見た目はザッハトルテによく似ていて美味しそうだ。
「アウレル商会の名前を付けた時もそうでしたけど、最近、たまに生家のことを思い出します。不思議ですね、これまで全然思い出さなかったのに」
「ご両親はどんな方たちだった……って聞いても大丈夫かな」
遠慮がちに尋ねるウォーレンに、しっかりと頷く。
「いい思い出ばかりですし、大丈夫です。何を取り扱っていたかは思い出せませんが父は商人で、優しくて、私はロッキングチェアで葉巻を吸っている父の膝に抱かれてゆらゆら揺れるのが好きでした」
二人の顔も覚えてはいるけれど、手元に写真などがあるわけではないのでやや朧気だ。
体を支えてくれる父の手に小さなタコがいくつもあったこと、母に髪を梳いてもらったこと、握った手の温かさなど、断片的な印象の方がずっと大きい。
「父は私に甘くて、休日に三人で出かけた時に、あれが欲しいとねだったらすぐに買ってくれようとして、母にもう家にあると怒られて。その時は確かこう、腕に抱けるくらいのサイズのクマのぬいぐるみでした」
「ぬいぐるみが好きだったんだ?」
「そうですね。枕元にいくつも置いていて、みんなに名前を付けていました。……今まで、本当に忘れていました」
まるで紐がするすると解けるように、言葉にするほどあの頃のことがこぼれ出してくる。
昔のことを誰かと話す機会そのものがほとんどなかったとはいえ、大事な思い出だったはずなのに、どうして忘れていたのだろう。
「茶色のうさぎのマフィンと白うさぎのスノウ、犬のジャックとピップ、子馬のチェス、アヒルのダックに、クマのロビンと、その時に買ってもらった新しい子がサニーでした」
「結局買ってもらえたんだ?」
「はい、きっと母も、私に甘かったんです」
与えられた寝室でベッドに入り、みんなにお休みのキスをして安心して眠りについた。
あの頃の自分は、今とは少し性格が違っていた気がする。前世の記憶があるのは同じだったけれど、もうすこし我儘で、周りに甘えるのもずっと上手かったし、新しい「オーレリア」の人生のほうが、大きなウエイトを占めていた。
今のように前世の記憶に人格や言動が引っ張られているのは、その幸福な時間があまり長くは続かなかったというのが大きいだろう。
両親が亡くなった直後のことはよく覚えていない。周りが騒がしくなって、慌ただしく葬儀が済んで、気が付いたら叔父の家にいて、おさげを結ぶようになっていた。
オーレリアに残されたのは、母親譲りのにんじん色の髪だけで、お気に入りの絵本もぬいぐるみも手元には残らず、気がつけば服も誰かのおさがりになっていた。
叔父や叔母を怒らせないように、食事がもらえるように感情を押し殺している時も、付与魔術の適性があると分かった後はなおさら、子供らしからぬ処世術があの頃の自分にはどうしても必要だったオーレリアにとって、前世の記憶はとても役に立った。
――あの子たちはどうなったのかな。
忘れていたことがむしろ不思議に思えるくらい、毎晩おやすみを言っていた友人たちの顔をはっきりと思い出すことができる。
こちらの世界ではぬいぐるみはまだまだ高級品で、そうぽんぽんと子供に買い与えるようなものではないので、どこかの家に引き取られてその家の子供たちに可愛がってもらえているといいと思う。
「母は付与術師でした。といってもそれは叔父や叔母から聞いた話で、私に付与の適性があると分かったのはずっと後でしたが」
「きっと、お母さんも優秀な付与術師だったんだね」
「ですね。母に付与魔術のこと、色々と教えてもらいたかったと思います」
親が付与術師で子供も同じ適性を持っている場合、適性があると分かれば付与術師としての心得を学ぶことができるし、ある程度成長すれば親の手持ちの術式を子供に譲ることもできる。
母は、どんな付与術を使う人だったのだろう。あのまま成長していれば前世のことはうっすらとした記憶になって、この世界のただのオーレリアとして母娘で父の仕事を手伝う日もきたのかもしれない。
叶わない、二度と取り戻せない夢の話だ。
「あの、オーレリア。よかったらお茶が済んだら、近くの雑貨店に行かない?」
「構いませんけど、何か欲しいものがありましたか?」
首を傾げると、ウォーレンは気まずそうに、照れくさそうに、笑う。
「その、よかったらぬいぐるみを買わないかなと思って」
その言葉にぱちぱちと瞬きをしたあと、笑う。
「もう私、大人ですよ?」
法律的な成人はとっくに越えているし、仕事もしている。
ぬいぐるみを恋しがるような年でないのは明らかだ。
「うん、それはもう、ちゃんとわかっているんだけど! 大人でも、いや、大人だからこそ好きなものを傍に置いておけばいいんじゃないかと思って」
焦りつつ、まっすぐに言ってくれる友人に紅茶を傾けるついでに一拍置いて、首を横に振る。
「ありがとうございます、ウォーレン。でも、いいんです」
ぬいぐるみが好きで、甘えるのが上手で、屈託なく笑ってばかりいた少女のオーレリアは、もういない。
それが寂しかったこともあるけれど、足りないところだらけでも、今は今の自分でいいと思っている。
「今の私には同じ目標に走っていけるアリアも、助けてくれる人たちも、こうして一緒にお茶をしてくれるウォーレンもいますから。もうぬいぐるみはなくて大丈夫です」
「そっか」
「はい」
「あ、じゃあケーキもっと頼む? チョコレートケーキも美味しいし、スポンジサンドも」
「夕飯が入らなくなるので」
不器用な優しさに笑って、ウォーレンは気恥ずかし気な様子だったけれど、その気持ちにふわりと胸を温かくしてくれて。
それは子供の頃、父に抱かれ母に髪を梳いてもらったあの安心感に、決して劣ることはないものだった。




