10.王立図書館と王都の雨期
「オーレリアさん、お昼を一緒に行きませんか?」
そう声を掛けられて、はっと顔を上げる。「保存」の付与に没頭していて、いつの間にやら昼時になっていたようだった。
王立図書館によって「保存」の付与用にあてがわれた作業部屋は付与待ちの本が積み上がっていて、まだまだ先は長そうだった。
「はい、レオナさん」
レオナは王立図書館にオーレリアを紹介してくれた女性で、アリアの実の姉である。アリアと同じ涼し気な水色の髪を長く伸ばしていて、しっとりとした雰囲気の美女である。
アリアがよくよく頼んでくれたらしく、初日からなにくれとなくオーレリアを気遣い、声を掛けてくれていた。
王立図書館は広大な書架と膨大な蔵書があるため、いくつかの区分で担当司書が分かれている。
レオナは総記の統括をしている立場で、その他に哲学、歴史、社会科学の他、複数の書架にそれぞれの司書がついていて、その役職に従い王立図書館を運営している。
各部署を順に回っていくことになっているオーレリアだが、総記は分類の難しいあらゆる蔵書が集まっている書架で蔵書が多く、オーレリアの付与の速度で「保存」をかけても中々減っている気がしない。
この状況で専属の付与術師がひとりもいないとは、思ったより事態は深刻なのではないだろうか。
「私はパスタセットにするわ。オーレリアさんは?」
「私は、日替わりにします」
王立図書館の素晴らしいところは、職員用の食堂があり、無料で利用できるというところである。
オーレリアはアルバイトの立場であり職員ではないけれど、レオナが館長に掛け合ってくれたため、職員同様利用できるよう取り計らってくれた。
スーザンも時々お昼を持たせてくれるので、それがない日はこうして職員食堂を使わせてもらっている。
今日のランチはトマトベースのソースにペンネの入ったグラタンと小さなオムレツ、夏野菜のマリネがワンプレートに載っていて、パンは白パンだった。
ふわふわの白パンにバターを塗って食べるのは、なんとも贅沢である。
貴族出身の職員も多いとは聞いていたけれど、こんなに職員食堂が充実しているとは、ありがたい福利厚生である。
「こちらの仕事にはもう慣れた? 通うのは大変ではないかしら」
上品なフォーク使いでパスタを巻き取りながらレオナに聞かれて、いえ、と微笑む。
「お仕事は楽しいですし、交通費まで出していただいて、本当に感謝しています」
「こちらこそ、こんなに通ってもらって本当に助かっているの。付与も丁寧だし、仕事も早いし、アリアもいい人を紹介してあげたでしょう、感謝してよねって毎日胸を反らしているくらいよ」
人当たりのいいアリアも、姉の前ではそういう態度を取るらしい。その言葉にふふっと笑っていると、中庭に面した窓の向こうでゴロゴロ、と唸るような雷の音が響く。
そちらに目を向けると、雨は降っていないものの、空には灰色の雲が厚く立ち込めていた。
「今日は雲が厚いですね」
「ええ。もうすぐ夏が始まるでしょう? 王都は本格的な夏が来る前に二週間から三週間ほど、雨ばかりの日が続くのよね」
レオナも窓の向こうに視線を向けて、憂鬱げな様子である。
「夏がきて気温が上がってくるのに連日の雨で、とても蒸すの。だからこそ「保存」が切れないようにする必要があるんだけど」
その言葉に、オーレリアは頷く。
本の表紙の大半は羊皮紙や動物由来の革だ。「保存」が切れた中での高温多湿の環境では、羊皮紙は大変カビやすく、傷みやすい。
特に高価な本を並べ、入館にそれなりの金銭の支払いを求めている王立図書館である。利用者が本を手に取ったら表紙が真っ白にカビていたなど、その名前に関わるのだろう。
そのため、王立図書館では私設図書館とは違い、まだ「保存」の効果が残っている本でも一定の期間で「保存」を掛け直すという措置を取っている。
おかげでオーレリアの仕事が尽きる気配は今のところなかった。
「できるだけ早く「保存」をかけていきますね」
「頼りになるわ。宮廷から付与術師の派遣が止まったときには腹も立ったけれど、オーレリアさんが来てくれて、結果的によかったのかもしれないわね」
レオナは複雑そうな表情ながら、微笑んでそう言ってくれた。
アリアと同じく、本当に本と図書館を愛しているのだろう。
昼食を終えると作業部屋に戻り、改めて気持ちを引き締め直す。
できるだけ早く、けれど丁寧に。
一つ一つの奥付を確認して、それに合った魔力の出力で「保存」を付与していく。
ゴロゴロと、また遠くで雷の音が響いた。
王都に来た時は春の終わりだったのに、もう初夏がそこまできていた。
* * *
レオナとそんな会話を交わしてから、数日後のことである。
「あっ!」
ぽたり、と本の表紙に汗が落ちたことに慌て、集中力が切れた。
幸い、すでに「保存」を付与し終わった後なので、汗は落ちた拍子にいくつかの雫に分裂したものの、本に染みこむことはない。ハンカチで慎重にそれを拭って、オーレリアはほっと息を吐く。
王立図書館の本にはまだ前回かけた「保存」の効果が残っているので、そう焦る必要はないのだけれど、奥付を確認している時でなくてよかったとしみじみと思う。
顔を上げると、窓の外はまださあさあと雨が降っていた。午前中よりはやや小降りになったようだけれど、今日も一日中降り続ける気配を見せている。
王立図書館に通うようになって十日が過ぎた頃、とうとう空を覆う雲から滴が落ち始め、それ以降はほとんど晴れ間を見せることがない。
この雨は夏呼びの雨と呼ばれていて、この雨が上がった後を王都では本格的な夏としているのだそうだ。
とはいえ、すでに暦の上では初夏を迎え、日中はやや汗ばむほどの気温になる。そこに湿気が加わると、どうしても不快指数が上がるというものだった。
オーレリアが付与を行っている作業部屋は締め切っていて、風の通りが悪い。窓は開くものの、雨が吹き込んだらと思うと開ける気にはならなかった。
つまり、かなり蒸す。集中していたため気づかなかったけれど、知らず知らず汗をかいていて、先ほどの醜態はそのせいだ。
「雨が降っているおかげでそれほど暑くはないけれど、やっぱり湿気が辛いわね」
いくら表紙に「保存」を掛けていても、本の中身は植物性の紙だ。羊皮紙よりカビに強いとはいえ、この環境はあまりいいものではないだろう。
少し考えて、オーレリアは立ち上がり、窓際に置かれたサイドボードの上にぽつんと置いてある空の花瓶を手に取る。
それから、斜め掛けのバックからスーザンが持たせてくれたお昼を食べ終わった後の包みから、月兎の葉を取り出した。
月兎の葉は吸湿性のある植物の葉で、ダンジョンの周りで沢山採れる葉だ。魔力の薄い土地ではあまり育たないらしく、王都では食べ物の保存に当たり前に使われているもので、スーザンの持たせてくれる昼食もよくこれに包まれていた。
――湿気が少しでも減ってくれるといいんだけど。
月兎の葉の表面に「吸湿」の術式を付与し、ひっくり返してそちら側には「結露」を付与する。それから花瓶の上に月兎の葉を中央がへこむように置いてしばらくすると、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちる音がし始めた。
ちょっとした思いつきだったけれど、簡易版の除湿器はうまく動いているようだ。幸いこの小部屋は一階なので、花瓶に水が溜まったら、窓から捨てればいい。
「さ、続き続き」
しばらくすると、心なしか小部屋の空気が快適になった気がする。
その日四回ほど花瓶の水を捨て、仕事が終わる時間になったら月兎の葉の付与を上から魔力で塗りつぶす。
付与の術式は目で見ることはできないけれど、自分が付与したものならばどこに術式を入れたか覚えておけばいいし、上から術式を塗りつぶすことで効果を消すこともできる。
おかげで汗を本に落とすこともなくなり、以降は夏呼びの雨が終わるまで、この簡易除湿器に頼ることを決めたオーレリアだった。