00話「出会い」
こんにちは、巫星乃と申します。
長い旅になるかもしれませんが、どうぞしばしお付き合いください
――気持ち悪い。
気持ち悪い、気持ち悪い……気持ち悪い。
心の底から不快の一色に染まり、身体中に何かがまとわりついてくるような感覚がただひたすらに気持ち悪く、嗚咽が止まらない。
この空間内の妙な薄暗さが、彼の恐怖心を更に駆り立てる。
視界が歪み、足が震えた。
そしてついには、力なく地べたに腰をついた。彼の後ろはすぐ壁だ。左右を見るも逃げ道は無い。
おおよそ十帖程のその空間には、少し大きな蝋燭が等間隔に壁にかけられていて、ボヤっと明るい。
詰みだ。
――こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかった。
眼前、彼の身長の軽く倍はあろうかという程の巨体で仁王立ちする化物。おどろおどろしい風貌のそれは、鼻息を荒くし、手に持つ大きな棍棒をゆっくりと振り上げた。
彼の底冷えした体は、もう少しも動かせそうにない。冷たく固かった地べたの感触すら、もはや感じない。
――これが、俺の人生……これが最期か。
重く鈍く光るその眼球に彼の目が、意識が吸い込まれてもう離すことは叶わない。
もう駄目だ。
――俺は結局、いつもこうだ。詰めが甘くて最後に失敗する。
そうだ、彼女はどうな……
その思考が完結するより前に、棍棒が彼に向かって一直線に振り下ろされた。
――――――
「全く。妾が間に合ってよかったの。肉塊にならずに済んだこと、その魂の全てで感謝するのじゃ」
その刹那、鈴の音のようなどこか心地良い声が耳に入り、棍棒と化け物の肘から先が急に主を失い、彼の顔面のすぐ横の壁に突き刺さった。
その化け物は瞬く間に崩れ落ち、いくつもの大きなサイコロのような肉塊に変わり果てた。そして、ほんの少し前まで一個体だったはずのそれらは、大きな音を立てて地面に散らばった。
彼にとって儚くも眩いその一筋の光は、宙でクルッと華麗に1回転した後、優雅に着地し、剣をおさめた。目深にフードを被っていて目元はよく見えない。
「ほれ、立てるか? 」
そう言ってわずかにかがみ手を差し出した彼女は、彼にとってまさしく女神のように見えた。
「ありがとう、ございます……」
彼の様子を見て、その可憐な少女は言った。
「さて、貴様はどこの誰じゃ。見ない顔じゃが」
その問いに彼はハッとした。
自分は一体誰なのだろう。いや、それには少し語弊がある。彼は自分の名前も年齢も住所も本籍さえもハッキリと覚えている。
ただ、今この状況においてそれらは恐らく何の意味も持っていない。
「……なんじゃ貴様? 何も分からないと申すか」
少女の訝しげな目線が彼を刺す。
「俺……私は、その……」
「いや、良い。余計な詮索をして悪かったの……人には言えぬ秘密もあろうて。それが自分の名であってもな」
その少女は何を思ったのか、彼の素性について急に興味をなくした。
そうして彼を後にし、歩き始めた。と同時に、彼に言った。その表情はわずかだが曇っているように見えた。
「じゃが、妾には貴様を地上へ送り届ける義務がある。ついてこい」
彼は無言でその背中を追いかけた。
そうしないと彼は、自分の運命は死の一択だと感じ取っていたからだろう。
「妾の名は、ルア・イスト・アシュタルト。覚えておくが良い」
彼女、いやルアと名乗った少女は、こちらを振り向くことなく、簡潔にそう名乗った。
自分も名乗った方が良いのだろうか。そう考えていると、ルアが突然立ち止まって、突然こちらを向いた。
「思い出したぞ。どこかで見たことあるような気がしていたのじゃが……その紋章、ルートギルドの者じゃな」
ルアは俺の胸に縫い付けられていた紋章を指さして、そう言った。
ルートギルド……やはり、ここは俺の知っている世界じゃない。化け物が出てきた時点で確信はしていたが。
「そう、なんですか……」
ルアはやはり訝しげな目で俺を見る。
無理もないし、ごく当たり前だ。自分でもこんなやつ意味が分からない。
「いや、まぁ良い。人それぞれ、話せぬ事情もあろうて。とりあえず、1番近くのルートギルドの支部まで送ってやる」
ルアは再び前を向いて歩き始めた。
やはりよく分からない。なぜ彼女はここまで親切にしてくれるのだろうか。見ず知らず、まして素性も明かさない俺に。
「あの、どうして……あなたは……」
彼女は俺の言わんことが分かっているかのように、手で制止した。
「それは主と同じ。妾とて、話せぬことの一つや二つある」
それは文字通り詮索するなということ。
***
「ほれ、ついたぞ。ルートギルドじゃ」
昔の遺跡のような所から出て、深い森を出たところにそのルートギルドの支部という大きな建物に辿り着いた。
「あ、ありがとう……ございます。それと、あの……」
ここで名乗っておかないと俺は、彼女に本当に何も……信じてもらえなくても良い。これは自己満足ってやつだ。
「私の名前は望月綜です。その、特にお礼は……できませんが、とにかく感謝しています」
ルアは少し驚いた顔をしてから、すぐに元に戻し言った。
「そうか。礼には及ばぬ。その名、再び聞く日を待っておるぞ」
これが彼女、ルア・イスト・アシュタルトという少女との、忘れられない最初の出会いになった。
俺は結局、彼女に本名を明かした。
彼女は何も言わずに、異質であろうそれを受け入れてくれた。
俺は小さくなっていく彼女の背に、大きな何かを背負う小さな背に、深く頭を下げた。
これは、きっとこの物語の序章に過ぎない。
この出会いが、彼女の存在が、これから先の未来を大きく変えていくことを――俺はまだ知る由もないのだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
次回、01話は6月11日(水)21時頃を予定してます