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28歳限界OLな私、狐のお面を被って「人の子よ……」と近所の子に話しかける遊びにハマる

 超楽しい。

 通販で買った狐のお面を被って、近所の子たちに話しかけるのって。




 私、限界OL28歳! 独身一人暮らし!

 務めている会社はブラック企業で、平均勤続年数は約3年!


 ……うん、頑張ってるよ私。

 誰も褒めてくれる人が居ないから、自分で自分を褒めるね。



 正確には、私を褒めてくれる人はいたのだ。

 それが同棲していた私の彼氏。

 アパレル関係の仕事をしているって言っていた。



 だけどある日、私が帰ってきたとき、私の彼は消え失せていた。

 私が貯めていたお金ごと、ごっそりと。

 後から聞いた話では、彼は有名な恋愛詐欺師。私はカモられたのだ。



 私の生活って割と地獄。

 そして地獄だって分かっているのに仕事で手を抜けないところが、私のダメさなんだろうね。



 同僚の子なんかは見切りをつけてやめるか、仕事をサボって誰かを……取引先とか他の同僚とか……困らせている。


 そういうのを見ると、自然と「私が頑張ります」って口が勝手に喋ってしまう。

 で、余計なタスクを背負ってしまい、だけど誰も褒めてくれない。


 私がタスクを肩代わりした相手からも「今後ともよろしく」と軽く扱われる有様だ。こいつ「ありがとう」の五文字を知らないらしいな?



 というわけで、彼氏を失った私は、代わりにストレスと同衾しています。

 ストレスったら毎晩とっても激しくて、私を寝させてくれないの……♡


「疲れてるなぁ……」


 しょうもない下ネタに走る自分の姿から、精神的なギリギリさが推し量れた。

 こういう時はあれだね。ストレス発散が必要だ。

 でも、ストレス発散の手段は試し尽くしてしまった感覚がある。


 お酒は飲めない。

 お洒落をするお金もない。

 独学で学んだネイルも、職場の後輩から裏で「死神の爪」と仇名されていることを知って以来、やっていない。

 恋は……しばらくいいや。

 焦ると悲しいことになりそう。



 そんなこんなでストレスに苛まれていた私。

 そんな私に悪魔のようなひらめきが舞い降りたのだ。






 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆






「人の子よ……もしかして私が見えるのかい?」


 そう呼びかければ、通りかかった少年A(推定年齢5歳)は唖然としていた。


 ここは近所にある、人通りの乏しいT字路だ。

 休日の夕方のこと。

 西日を浴びながら、私はT字路の脇に立っている。


 地味な色合いのロングスカートに狐のお面を合わせるという出で立ちの今の私は、過酷な労働環境が生み出した悲しき現代怪異だ。


 そして、そんな現代怪異と出会ってしまった少年Aに、私はお面越しに語り掛けている。


「久しぶりだねぇ……私の姿を見れる子に出会えるのは。人の子よ、君には他の人とは違う力があるようだ」


 そう告げた時の、少年Aの顔と来たら!

 目をまんまるにして、口は半開き。

 瞳の中に見える感情を分析すると、恐怖が半分で、好奇心が半分くらいかな。


「あの、おねえさんは、おばけなんですか」


 非日常に出会った恐怖と興奮から、震える声で少年Aが聞いてくる。


「おばけ、か。そんな風に言ってくれる子も昔はいたね。まだこの辺りが田んぼだらけで、君が生れるずうっと前のことさ……」


 なお、この姿の私に特に設定のようなものはない。

 口から垂れ流しているのはライブ感の産物。

 しばらく会話を続ければ、前のセリフとの整合がとれなくなるのは必至だ。


「おねえさんは、なにをしているんです?」


 少年Aが真っすぐな瞳で聞いてくる。


「何も。ただ、こうして世の中を見ているだけさ……今までも、これからも……」


 そう言って私は「君はそろそろお帰り」と告げる。


「縁があれば、また会うこともあるだろう。いずれどこかで……ね」


 そう言って私が場を離れる。

 少年Aは、縫い付けられたようにその場から動かず、呆然としたまま私を見送ってくれた。




 うん、超楽しかった。

 狐のお面を被っての「あやかしごっこ」は実にストレス解消になる。


 子ども特有のキラキラした大きな瞳が驚きに満ちるのを見るのはたまらない。

 このアイデアを授けてくれた私の頭脳に、大きな称賛を送りたい。


 頭脳のためのご褒美にはケーキが良いだろう。

 だから私は駅前の超有名店のケーキ……が買えるお金もないので、深夜のコンビニの割引ケーキを買って食べた。

 おいしかった。





 次の日。

 私が素顔のままでT字路に行くと、少年Aの姿が見えた。

 少年Aはキョロキョロと周囲を見渡したあと、私が昨日立っていたあたりに、何かを置いて駆け出していった。


 近寄ってみてみれば、少年Aが置いたのはうまい棒だった。

 おそらく私を地域の守り神か何かだと考えたのだろう。

 そしてお供え物として、お小遣いを工面し、うまい棒を買ってくれたのだ。


 私は道端に置かれたうまい棒を拾った。

 そして近くのガードレールに、鞄の中から取り出した口紅で小さく「ありがとう」と書いた。



 帰ってから食べたうまい棒は、昨日のケーキよりもおいしく感じられた。








 それ以来、「あやかしごっこ」は私の生き甲斐になった。

 私という悲しい現代怪異は、場所を変えて出現する。




 私を見て泣き出してしまう子もいた。

 私に「友だちになってあげる」と言ってくれる子もいた。


 子どもたちが見せてくれる様々な反応が、ブラック企業でのサビ残に疲れ果て乾きひび割れて不毛の大地と化した私の心に、慈雨のように降り注ぐ。


 こういう活動をやっていて、お巡りさんと鉢合わせをしたこともあった。


 当然、不審者として質問を受けたのだが、私が「椎名林檎リスペクトです」と言うと、お巡りさんは「ああ、だからそんなお面を」と納得し、放免となった。



 椎名林檎って凄い。

 改めてそう思った。







 そんなある日。

 私は、とある少年と出会う。


「人の子よ……もしかして私が見えるのかい?」


 今日も「あやかしごっこ」をしていた私は、お面の下で目を見開いた。


 眼前の少年はボロボロの服を着ていた。

 破れた服の合間から覗く肌には青あざのようなものがあった。


 私を見上げるその目は、色素が乏しい。

 透明な眼――そう思えた。

 澄んでいて、儚げで、ふと目を離した隙に消えてしまいそうな、そんな雰囲気を宿す少年は、私を見て言う。


「神さまですか?」


 思いもよらぬ言葉に、私が返答の言葉を探していると、少年は私に拝み手を作って言葉を継ぐ。


「お父さんの病気をなおしてください」


 父親が病気なのだろうか。

 自身も酷い格好だというのに、目の前の子は父親の病気の平癒を祈っている。


 どうする?


 どう答える?


 私の胸を焦燥が満たす。


「……おさい銭がいりますか?」


 私の無言を、少年は「願うなら金払え」というメッセージだと捉えたらしい。


 ズボンのポケットに手を入れた少年が取り出したのは、汚れた100円玉だった。


「これ、どうぞ」


 そう言って差し出してくる少年の、すがるような眼。

 私は差し出された100円玉を見て――その重みに恐怖した。


 単なる硬貨一枚というわけではない。

 この硬貨には、少年の切なる願いが込められている。


 これを受け取ったら、私は少年に何らかの約束をしてしまうことになる。

 私には少年の悩みを癒す力なんてない。

 ただの無力な限界OLだ。

 こんな私に、その硬貨に宿る重みを背負う力なんてない。


「あげます。どうぞ。だから、どうかお父さんを……」


 少年が、私に願いを再度言おうとしてくる。

 だけど私では無理だ。背負いきれない。背負わせないで。




 そんな思いが胸の中をぐるぐる渦巻いて。

 次の瞬間、私はその場から逃げ出してしまっていた。





 しばらく走った。だいぶ息が上がった。

 振り返って、少年が追ってきていないことを確認し、私はため息を吐く。



 窮する少年から逃げてしまったことへの後悔の念で胸が焼かれた。

 けれど、窮するのは私も同じだ。

 道路の向こうから小走りでやってくる、お巡りさんがいたからだ。



「あー、ちょっとそこの人。どうしてそんな恰好を?」


 このお巡りさんは、先日のお巡りさんとは別の人だった。

 若くて精悍な顔立ちのお巡りさんだ。

 凛々しい瞳で、私という現代怪異を見つめてくる。

 私は、咄嗟に「椎名林檎リスペクトなので」という嘘をついた。

 先だってもこの嘘で乗り切ったし、今回も大丈夫だろうと踏んでいた。


「椎名林檎リスペクト?」


 若いお巡りさんの声のトーンが、硬くなった。


「ならば答えてもらおう。アリーナツアー『(生)林檎博'24』の初回公演地はどこだ? 椎名林檎をリスペクトしているならば答えられるはずだ」


 ……困った。全く分からない。

 私のハリボテの設定は簡単に看破された。


 ふと、背筋にゾワリとした感覚。

 これは……悪寒?


「テメェ……『覚悟して来ている』不審者だよな……?」


 しどろもどろな私の眼前で、お巡りさんの威圧感が増していく。

 もしかして、いや、間違いない。そしてマズい!

 この人は警察官である前に、椎名林檎のガチ勢だ!


「テメェの不審行為のカモフラに椎名林檎を使うってことは……椎名林檎ファンに『始末される』かもしれないという危険を常に『覚悟して来ている不審者』ってわけだよな……」


 じり、じりと。

 お巡りさんが間合いを詰めてくる。

 彼の指がワナワナと震え、彼の眼は私に暗い眼差しを向けている。


「裁判なんてまどろっこしい……一介の椎名林檎ファンとして、俺がこの場で裁いてやる……」


 法治国家の住民にあるまじき発言をしてくる、お巡りさん。

 私が「もうダメだ!」と思った、その時。



「どろぼーっ!」



 急に、付近の建物から大声が上がった。

 続けて聞こえてきたのは、ガラスが割れる音。

 なんの偶然か、ちょうど近くで空き巣が犯行を行っていたらしい。

 その声は私の耳に届いたし、私にあと一歩に迫るお巡りさんにも届いていた。


「……ちっ」


 お巡りさんが舌打ちする。

 近くで現在進行形の犯罪が行われているとあっては、流石にそちらの方を優先することにしたらしい。


「忘れるなよ……」


 お巡りさんが獣の唸りのような声を私に向けてくる。



「俺は必ずお前を見つけ出す……どこに逃げようと捕まえてやる……それを心に刻むんだな、ジャン・バルシャン……」


 レ・ミゼラブルの登場人物の名で私を呼ぶ彼は、声が聞こえた方に駆けていく。

 その背中を見て、私はへたりと場に座り込んだ。


 ジャン・バルシャン。

 レ・ミゼラブルにおけるお尋ね者だ。

 そして彼を追うジャベール警部は、咎人を絶対に逃がさない男だ。


 ――私の人生、あのお巡りさんにロックオンされてしまったんだ。

 ――お巡りさんにいつか捕まってしまうんだ。全てを明らかにされてしまうんだ。


 子どもを狙う不審者。

 その烙印が押されるのが怖くなり、私は家へと逃げ出していった。








 あれ以来、私は「あやかしごっこ」をできていない。

 狐の面は、私の鞄の奥底に押し込められたまま出番がない。


 今日も今日とてブラック企業勤め。

 私は沢山のタスクをこなす。他の人のタスクも請け負った。

 自分の罪深さから逃避するには、仕事に没頭するのが一番だ。


 流石におかしいと思われたのだろう。

 数日後、上司から「有休を使うように」と指導があった。


 ……有給?

 そんなものがこの会社にあったなんて初めて知った。

 概念上存在する、だが決して私がそこにたどり着くことはない、虹の根元のような存在だと思っていた。


 こうして私は有休を手に入れて、平日お休みしている。

 けれど気になってしまうのは、ボロボロの服を着たあの日の少年のこと。


 仕事のない一日の長さに、私は耐えられなくなった。

 私の足はあの少年と出会った場所へと向いた。





 少年と出会った場所に到着した。

 すると――いた。あの日の少年だ。

 私は急いで、近くの電柱に身を隠し、そっと少年の様子を探り見る。


 少年はあの日に出会ったときと同じような服装に見えた。

 遠目なのではっきりとはしないけれど、また青あざが増えている?


 少年は何かを探し求めるように周囲を見ている。

 それが「狐のお面の神様」――私がでっちあげた、存在しない虚像を探しているのだと分かった時、私は猛烈な吐き気に襲われた。


 そして少年はがっくりと肩を落として、トボトボと去っていく。

 私は彼に声を掛ける勇気はなく、だけど知らぬ存ぜぬを決め込む心の図太さの持ち合わせもなかった。

 宙ぶらりんな気持ちで、彼の後をただ追っていく。


 やがて少年は年季の入ったアパートの前まで来ると、一階の端にある扉へと向かっていった。どうやらあそこが少年の家らしい。


 あそこに病気の父親がいるのだろうか。

 母親はどうしているのだろうか。


 そんなことを考えた私の思考は、目の前で起きた事態によって中断される。


 バタン!


 少年がドアノブに手をかけるよりも早く、ドアが家の内側から開いた。

 そして大きな手が少年の首を掴んで、そのまま家に引きずり込んだのだ。



『どこ行ってやがったクソガキが!』


『テメェ、ふざけんじゃねぇぞ! 俺の気に食わねぇことばっかりしやがって!』




 閉ざされたドアの向こうから響いてきたのは男の怒声。

 そして少年の悲鳴だった。




「…………⁉」




 私は察した。察してしまった。

 虐待だ。あの家の中で虐待が行われている。

 私の勘違いじゃない。勘違いであってほしいけれど、そうじゃないことは私の耳がはっきり証明している。


「だ、誰かを呼ばないと……」


 そう呟いた私だけど、気付く。

 この声が私以外に聞こえていないはずがない。

 それなのに他の家の住民は、窓を開けて確認することもない。


 ――まさか近所の家の人たちは、あの虐待をスルーしているの?

 ――スルーしないといけないほど、あの家の住民は危険な人なの?


 ありえる。

 おそらく近所の人々は、あの家に住む男の仕返しを恐れているのだ。

 多分、以前あの男から子どもを守ろうとする試みがあったんだろう。

 だけどそれの代償として、何やら「思い知らされた」のだろう。

 だから皆が出てこない。それだけあの家の住民はヤバいらしい。


「じゃ、じゃあ警察を……」


 鞄の中からスマホを取り出そうとして――気付く。

 鞄の中に狐のお面があって、それが私をじっと見つめている気がした。


 ――本当にいいのかい?

 ――お前が警察を呼んだとして、警察が到着するまで、あの子は苦しむよ?


 狐のお面からそう言われた気がした。

 自分の妄想だって分かっている。だけど私の口は、自分の妄想に反論した。


「っ! じゃ、じゃあ警察を呼んで、そして私があの子を助ければ……」


 ――警察を呼んだらお前はそこで満足してしまうだろうよ。

 ――そうだろう? ブラック企業だって分かっているのに辞められない子よ。


 私の心の脆い部分に、狐のお面が放つ幻影の声が突き刺さる。




 ――彼氏だって、怪しいって気付いていたはず。だけど気付かぬフリしてた。

 ――見て見ぬ振りが達者だ。見て見ぬふりをする言い訳を探すのも上手だ。

 ――警察に通報したら、お前はそこで満足する。

 ――警察が到着するまであの子が嬲られても知らんぷりさ。


 そして、狐のお面は私に問うのだ。



 ――本当にそれでいいのかい?



「……良くない」



 ――じゃあやるべきことはひとつさね。



「でも怖いよ。私、死んじゃうかもしれない」



 ――お前は死なないさ。あやかしがそう簡単に死んでたまるものか。


 ……あやかし。

 そうだ。私は現代怪異だ。お面をつけているあいだはあやかしなんだ。

 失恋とサビ残が生み出した悲しい怪物。それが私だ。


 私の手がスマホではなく、鞄の中の狐のお面を掴んだ。

 私の魂が、お面を付けろと私に命じる。お面をつけると、視野は不明瞭になるけれど、自分のやるべきことは明瞭になる。


「待ってて、助けるから……っ!」


 私はスマホの非常通話に繋ぎ、だけど電話には出ず、通話状態のまま鞄の中に放り込んだ。

 そして意を決して、少年の悲鳴が聞こえてくる家の中に入る。

 施錠はされていなかった。




 土足のまま奥に進むと――いた。

 血走った眼をした男と、男に殴られている少年がいる。

 本当に酷い殴られ方だ。一分後には取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。私は、ここに入り込んだ己の蛮勇を褒める。


 見渡せばゴミだらけの家。全体的に不快な空気が満ちている。

 そしてゴミの中に何本も注射器が落ちていること。

 また、少年をつい今まで殴っていたのであろう男の腕に幾つもの注射の痕が見えたことが、私に一つの結論をもたらした。


「誰だテメェ……」


 血走った眼が私を向く。


「君、今すぐこの場から離れるんだ。そしてもう二度と、戻ってきてはいけないよ」


 私は「あやかし」として少年に呼びかける。少年は涙を流している。


「……お父さんは病気だから、なぐるんです。でも薬を使えば良くなるんです。病気がかんぜんになおったら……」


「君のお父さんは治せない。ここにいる間は、治らない」


 私はピシャリと、結論を述べた。

 その薬こそが害悪なのだと、この少年はまだ分からないらしい。

 もしかしたら察しているのかもしれない。

 だけど気付いてしまった真実は、少年にとっては救いにならないもの。




 信じたいものを信じるしかない。

 大切なことから目を逸らして生きるしかない。

 少年の姿は私そっくりだ。

 だけど変わらなきゃいけない。

 そうじゃないと、前には進めないんだ。




「シカトしてんじゃねぇ! テメェは誰だって言ってんだよ‼」


 男が少年を放り出して、私に掴みかかってきた。


「クソが! 勝手に家に入り込んだ挙句、好き勝手言いやがって! 俺を舐めたらどうなるかってこと、体に教えてやる!」


 拳が一発、私のお腹に打ち込まれた。

 強烈な吐き気がした。

 だけど私はお面の下から相手を睨み続ける。


「お前はこの子から離れるべきだ……離れなくてはいけない……っ! お前にあの子への情が少しでも残っているのなら……あの子の人生を解放しろ……」


「このアマ……そのバカみてぇな仮面が、テメェの死に装束だ!」



 男が大きく拳を振りかぶった。


「やめて!」――そんな少年の叫びがした。


 とても危険な一撃が来る。

 私はそれを覚悟して、目を瞑る。

 その時だった。




「今、そのお面のこと『バカみてぇ』って言ったか?」




 若く、そして途方もない悪寒をもたらす声がした。

 興奮した男ですら、そのゾッとする声音に思わず拳を止めている。


 そして声がした方を見れば、そこには私以外の侵入者がいた。

 あの日のお巡りさんだった。



「そのお面は椎名林檎の世界観に実にマッチしている……それは俺も認めるところ。そのお面を、お前は『バカみてぇ』と評したな? これは許し難い現行犯だ……」



 お巡りさんはぶつぶつ呟きながら、ふと足元に散らばる注射器を見て「あと、違法薬物の所持と使用の疑い」と付け加える。

 彼にとって違法薬物の罪は、椎名林檎に関する罪に劣後するものらしい。


「おい、ジャン・バルシャン」


 彼がふいに私に呼びかけてきた。


「……頑張ったみたいじゃねぇか」


 労うような一言があって、次の瞬間。

 椎名林檎ファンのお巡りさんが、私を殴ろうとしていた男との距離を素早く詰めて、リンゴのように大きな拳で男を殴り飛ばした。

 男は呻いて意識を失った。








 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆








 こうしてあの男は逮捕されて、少年は保護されることになった。

 お巡りさんからはお説教を受けた。

 素人が単身で現場に踏み込むのは危ないこと。

 椎名林檎リスペクトと称して不審行為を働くのは絶対にダメであること。

 私はシュンとして、謝った。


 だけど彼はこうも言った。

 あのタイミングで私が踏み込んだことが、少年の命を救ったかもしれないと。

 そして少年は私に感謝していたと聞かされた。

 その言葉で「あやかし」な私は報われた。



 ところで。

 お巡りさんが助けに来てくれたタイミングが早すぎた件について。


 理由を聞いてみたところ、彼はここしばらく「狐の面の女」を処……逮捕するため町を捜索しており、そこで狐のお面を被った私を遠目で見つけたのだとか。



 必ず地獄に落とすべき対象がアパートに入っていったので、後を追ったら、暴行現場に出くわしたということらしい。


 その話を聞かされた私は身震いした。

 とんだジャベール警部である。

 二度とお目にかかりたくない。

 ……とまぁ、そう思っていたはずなのに。





 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆






「私、退職します」


 ブラック企業に私は退職届を突きつけた。

 上司は色々と私を引き留めようとしたが、無駄だ。


 だってこの会社にいたんじゃ、有休がとれない。給料も安い。


 だからもっとお給料が良くて休みも取れる会社に移ることにしたのだ。

 あの事件があって以降、私は変わった。

 変わってしまえば一歩を踏み出すことは容易だった。




 退職届を提出して、私は家に帰る。

 玄関を開けると、玄関で靴を磨いている姿があった。


「ただいま~、熱心だね」

「おうお帰り。いや、非番だからって、いつ出動があるかも分かんねぇから」


 私が帰る場所で待っていたのは、お巡りさんだ。

 お巡りさんは私に目線で問うてくる――どうだった?

 私はVサインで返した――バッチリ!


 そう。

 あの一件以来、私とお巡りさんの間に繋がりができた。

 一緒に椎名林檎のステージにも行くようになった。


 お巡りさんである彼と、事件の当事者になってしまった私との交際について、本当は色々と問題があることらしいんだけど……まぁ愛があれば大丈夫。






 そして。

 ある日のこと。

 私は久しぶりに狐のお面をつけて、ソファに座っている彼の前に姿を現した。


「人の子よ」

「おい、まだそれ捨ててなかったのかよ?」


 彼が呆れたような顔をしている。

 いいもん。私はこの流れに乗って語り続ける。


「人の子よ、供物を捧げよ」

「供物?」

「お前が隠している、私への供物だ」

「…………!」


 彼がぎょっとしたような表情になり、それから気まずそうに顔を伏せる。

 あっ、かわいい。


「……いつから気付いていたんだよ?」

「供物を捧げよ」

「…………まさか、だいぶ前から? だとしたら恥っずい……」

「くもつ! くもつ! くもつ!」


 パジェロコールのノリで供物を要求する現代怪異を前に、彼は観念したようにため息をついた。


 そして自分の鞄を持ち出して来て、鞄のなかから四角い箱を取り出す。

 箱を開けば、眩い金剛石を宿した指輪が顔をのぞかせた。


 彼は私の左手を取って、指輪をそっと私の薬指にはめる。


 彼が私のお面を外す。

 茹で蛸のようになってしまった私の顔が露わになって。

 彼もまた顔を真っ赤にして、そっと私に唇を近づけてきたのだった。

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