だって私は、初めてお会いした日からずっとあなたのものだったのですから。
「悪く思うなよ、お嬢さま」
寝台ですらない、おざなりに布を敷いただけの粗末な床に押し倒された。けれどソフィアは悲鳴を上げもせず、ただ静かに四肢の力を抜く。
「いい子だ。大人しくしていたら、ちゃんとよくしてやる」
下卑た笑いを向けられているはずなのに、うろたえることはなかった。むしろ当然と言わんばかりに、穏やかに微笑んでみせる。
「もちろんです。だって私は、初めてお会いした日からずっとあなたのものだったのですから」
「ずいぶんなことを言ってくれる。上等だ。泣いても途中で止めてやることはできんからな」
荒々しく首筋に噛みつかれたが、彼女の微笑みが消えることはない。押し倒している男の手のほうが、いつの間にか小刻みに震えていた。
***
かつてソフィアはとある地方領主の娘だった。世が世なら、伯爵令嬢として何不自由ない生活をしていたかもしれない。そんな幸せな未来が訪れなかったのは、領内で魔物の大量発生が起き、ちょうど出かけていた家族もろとも巻き込まれてしまったから。
ソフィア以外の家族はみな命を落とし、一命をとりとめた彼女もまた重傷を負った。それでもソフィアは伯爵家の跡取り娘だ。しっかりとした身分の婚約者もいたから、彼の実家が後ろ盾となり、早めに結婚式を挙げれば何の問題もない人生を歩めるはずだった。ところがソフィアは心身を癒す間もなく、さらなる地獄へと突き落とされる。なんと、代理人を名乗る遠縁の親戚と婚約者だった男に伯爵家を乗っ取られてしまったのだ。
「命こそ助かったとはいえ、目が見えなくなった令嬢が家を継げるはずがなかろう。安心するがいい。儂らがこの家と領地を発展させてやる。お人好しのお前の父親などよりもずっと有効活用してやるからな」
「そうだ、誰が好き好んで社交に差しさわりが出るような女と結婚するか。まったく、本当に迷惑な女だ。お前の代わりは、彼の娘に果たしてもらう。どうせ結婚するなら、見目麗しく健康な女がいいに決まっているだろう? その白く濁った気持ち悪い瞳をこちらに向けるな」
そう言いながら、遠縁の親戚と元婚約者はソフィアのことを嘲笑っていた。自分たちよりも爵位の高い人間が不幸になっていく様子は、見ていて面白いものだったに違いない。彼らは共謀して、ソフィアが受け継ぐべきものを奪っていった。
もしかしたらソフィアの財産を守るために何かしらの手段があったのかもしれない。けれど目も見えず、家族も失い、婚約者にも裏切られてしまった小娘には何をどうして良いか見当もつかなかった。逃げ出そうという気力さえ失くしてしまったのである。
家族ぐるみで仲良くしていたはずの領民たちにもなすすべはなかった。何せソフィアの両親のような気さくな貴族のほうが珍しいのだ。新しく領地を治めるという彼女の親戚や隣の領を治めている元婚約者たちを敵に回せば、簡単に首をはねられてしまうかもしれない。誰もがソフィアの苦境を知りながら、見て見ぬ振りをした。
「お嬢さま、本当に申し訳ありません」
「何卒、どうかお許しを!」
床に這いつくばるようにして許しを乞うたのは、屋敷の使用人たちだ。彼らの前で、ソフィアはドレスや母親の形見となる宝石を取り上げられた。下女ですら身に着けないようなぼろきれを身にまとい、棒で散々に小突き回されたあげく、彼女は屋敷の裏庭に追い出された。
「今日から、そこがお前の家だ。自分の置かれた立場をわきまえて暮らすように」
「平民として外に放り出されないだけありがたく思え。口ごたえするようなら娼館に売り払ってやるからな」
それ以来ソフィアは、打ち捨てられた庭師小屋でただひとり生活するようになった。
***
もともとかしずかれる生活をしていた伯爵令嬢が、自分ひとりで生活するのは困難を伴う。目も見えないのであればなおのこと。それでも少しずつ真っ黒で静かな世界にも慣れていく。悲しいことではあったけれど、ひとりでいれば無駄に傷つかずに済むことを彼女は痛感していた。
「喜べ、役立たずのお前に仕事ができたぞ」
庭師小屋に押し込められ放置されていたソフィアが屋敷に呼び出されたのは、それからしばらくしてのことだった。事情を聞く暇もなく、あれよあれよという間に身体中を磨き上げられる。久方ぶりの風呂のため、何度も水を変えねばならないほどの汚れだったが、おかげさまで見た目だけはそれなりの令嬢に仕上がった。
「今日は、これからお客さまが来る。お前は、そのお客さまのお相手をするように」
「これから、ですか?」
もう日はすっかり落ちてしまっている。客人が到着するのは、夜になるだろう。そんな時間に妙齢の女をあてがえば、期待されているもてなしというのはただの話し相手ではないことは未婚のソフィアであっても容易に想像がつく。
「それは」
「余計なことは話すな。お前はただその身を任せていれば、それでいいんだ。なに、目をつぶっていればすぐに終わる。ああ、そういえばもともとお前は目が見えないのであったな!」
どっと周囲で笑いが起きる。あまりの惨めさに唇を噛みしめながら、ソフィアは「その時」を待った。
***
ソフィアが向かわされたのは、まだ年若い青年の元だった。彼は、ソフィアが部屋を訪れるとぎょっとしたように後ずさった。
「失礼。先ほど部屋に届け物をすると聞いていたが、これは一体?」
「申し訳ございません。ご存じかもしれませんが、こちらはとりたてて価値のある名産品などがある土地ではございません。そのため、少しでも客人をもてなすために私を差し出したのでしょう」
年若いソフィアは元手のかからない贈り物だ。受け入れてもらえれば御の字、拒まれたとしても誰も困りはしない。まあ受け入れられたその時は、ソフィアは傷物として令嬢の価値を失い、今後も使い勝手の良い贈り物としてたびたび客人たちに共有されることになるだろうし、拒まれれば一夜の相手にすらなれなかった価値のない女として嘲笑われることになる。結局どちらに転んでも、損をするのはソフィアだけ。
「……これは困ったな」
「そうでしょうとも。お断りしていただいても問題ありません。むしろ、お断りするべきだと思います。彼らは、あなたをどうにかして味方に引き入れたいのです。何やらきな臭い話も耳にしております。可能ならば、この土地から早く離れる方が賢明でしょう」
ここまで言えば、察しの悪い人間でもかかわってはいけないと理解できるはずだ。ところが、男はソフィアが想像していたよりもまっすぐで、善良な人間だった。
「賢いお嬢さん。なぜ、君は見ず知らずの俺に親切にしてくれる? 俺が逃げ出せば、君に迷惑がかかるのでは?」
「私のことを聞いてはいけません。知れば、心優しい方ほど心を痛めるでしょう。どうしようもないことだというのに、きっと罪悪感にさいなまれるようになる。私はどうせこれから、さらに落ちていくだけ。他の方を巻き込みたくはないのです」
「それは、君の目が見えないことと関係があるのか?」
「……本当に困った方ですこと」
「俺は騎士だからな。不正を見逃すことはできない」
男の生真面目さは、ひとり傷ついていたソフィアの心をじんわりと温めていく。その夜、肌を重ねることはなかったけれど、彼はソフィアを気に入ったと屋敷の人間に告げ、彼女が今後不自由しないように取り計らってからこの土地を後にした。
***
それから騎士からは、定期的に手紙と贈り物が届くようになった。その中には野草を使ったお茶や香の作り方まで載っていて、ソフィアはそれを特に喜んだ。
「庭の草花を使うなど、お前にぴったりだな」
そう言って彼女を虐げる者たちは高価な贈り物はすべて取り上げてしまったが、手紙だけは彼女に残してくれた。返事を書かずにいて、金づるが消えてしまうことを厭うたらしい。目の見えない彼女の代わりに、使用人たちは周りの目を盗み、手紙に書かれた野草を探す手伝いをしてくれるようになった。
だが、騎士からの手紙はある日突然来なくなった。
「捨てられたのだ、この役立たずめ!」
ソフィアの家を乗っ取った親戚はそう叫んでいたが、おそらく事情は異なるだろうと彼女は考えていた。彼はソフィアの苦境を知ると、彼女が本来の権利を取り戻せるように働きかけてみると言い切っていたのだ。
『大丈夫だ。俺には、それなりに伝手がある。きっと君を救い出してみせる』
『どうして初めて会っただけの他人に、そこまで心を砕いてくださるのですか?』
『それは俺が騎士だからだ……と言いたいところだが、ただの一目惚れだ。だからもしも君がこの状況を脱出できたなら、その時は』
『その時は?』
『それは、その時が来たら話す』
『ふふふ、楽しみにしております』
あの日の約束を守るために彼は動き、その結果、大変なことになってしまったのではないか。自分にかかわったばかりに、あんな素敵なひとの未来を台無しにしてしまった。そのことが、ソフィアは何よりも辛かった。
屋敷には、怪しげな人々が出入りするようになる。騎士がソフィアとやり取りをしていた間には見かけなかった類の人間たちの出現に、彼女はますます騎士が何らかの苦境に陥ったのだと確信していた。
「ソフィア、彼らのお相手はお前が務めるように」
かつて騎士への相手を迫られたように、再びソフィアは夜の贈り物として部屋に届けられるようになった。だがそのたびに彼女は、騎士が教えてくれたお茶と香を持参し、危険を回避した。お茶と香には、眠気を催す作用が入っていたのだ。おかげで彼女は、貞操を守り続けることができたのである。
そのような客人の中には、時々風変わりな者も現れた。火傷を負った傭兵に、手の不自由な商人。耳を削がれた職人に、足の悪い薬師。彼らは自分たちと同じように身体の不自由なソフィアを憐れんだのか、彼女に手を出すことはなく夜明けまでおしゃべりを楽しんでいった。その上、彼女がお茶と香を使うのをためらっているとみずからお茶を所望して、浴びるように飲んでいくのだ。
だが、ソフィアの家を乗っ取った親戚と元婚約者は相当危ない橋を渡っていたらしい。ある日、屋敷は夜盗に襲撃された。そして、そのうちのひとりにさらわれてしまったのである。
***
「悪く思うなよ、お嬢さま」
寝台ですらない、おざなりに布を敷いただけの粗末な床に押し倒された。けれどソフィアは悲鳴を上げることもなく、ただ静かに四肢の力を抜く。
「いい子だ。大人しくしていたら、ちゃんとよくしてやる」
下卑た笑いを向けられているはずなのに、うろたえることはなかった。むしろ当然と言わんばかりに、穏やかに微笑んでみせる。
「もちろんです。だって私は、初めてお会いした日からずっとあなたのものだったのですから」
「ずいぶんなことを言ってくれる。上等だ。泣いても途中で止めてやることはできんからな」
荒々しく首筋に噛みつかれたが、彼女の微笑みが消えることはない。押し倒している男の手のほうが、いつの間にか小刻みに震えていた。
「この時を待っておりましたわ。私の騎士さま」
「……何を言って」
「あの日交わしたあなたとの約束が、私の心の支えでした。もちろん、あなたが届けてくださったドレスも宝石も、嬉しかった。家人に取り上げられ例え私の手元には届かなくても、あなたが私を忘れないでいてくれた。それだけで十分だったのです」
「……やめろ。そんなもの、俺は知らない」
「いいえ。やめません。それからしばらく手紙が来ない時期が続き、再びあなたが私の元へいらっしゃった時は、もちろん驚きました。たくさんの傷を負い、さまざまな姿に身をやつして……」
「気が付いていたのか」
「もちろん。ですから、お茶や香を使うつもりはなかったのですけれど。騎士さまは毎回お茶を無理に用意させて浴びるように飲んでしまわれるし、事情がおありのようでしたから」
「まさか」
「毎回違うご職業で現れるのでどうして良いか困りました。気づかない振りをするのは、骨が折れましたわ。だって大切な方が目の前にいるのに、触れることさえ叶わないのですから」
私はこんなにあなたに会いたかったのに。
「あなたが届けてくれていたのは、光であり、世界でした。あなたが、私の希望そのものだったんです」
そう言って、ソフィアは彼の背中に両腕を絡めた。
***
騎士はソフィアの元を離れた後、彼女を窮地から救い出すためにかなり手を尽くしていたそうだ。だが、その途中で下手を打ったのだという。
「信じられるか。二回も失敗したんだ」
「まあ。でも、人間、生きていれば失敗を犯すものです」
「だがその失敗が致命的なものならば、それで一巻の終わりだ」
騎士にとっての一つ目の失敗は、ソフィアの目を治すために手に入れた魔女の万能薬の存在を他人に知られてしまったことだった。この世界には不思議な力を持つ魔女がいる。だが、誰もが魔女に会えるというわけではない。魔女は気まぐれでわがままな生き物。彼女たちに気に入られなければ、願いを叶えるどころか会うことだって難しい。そんな魔女にお目通りが叶い、その上、不可思議な薬を手に入れた彼のことを周囲は羨み、そして妬んだ。
特に予想外だったのは、彼の主君と彼の従者が騎士を裏切ったことだろう。彼は万能薬を守る代わりに、騎士としての地位を失った。
もうひとつの失敗は、この国の人間が思ったよりも愚かだったことだ。ソフィアの家を乗っ取った親戚と元婚約者たちは、この領地でよく育つ植物の栽培に手を出した。小麦の栽培には適さない土地だったが、その特殊な植物の生育には驚くほど適した場所だったのだ。だが、それは人体に悪影響をもたらす薬物の原料だった。
作れば作るほどよく売れる。だがそれは最終的に国を損なうことになる。だから彼は、主君と従者に裏切られたあとも、必死で有力貴族たちに働きかけた。この国の未来を信じて。その結果、彼は自身の手足に致命的な欠陥を得ることになる。すでに薬物は、この国の上層部までむしばんでいたのだ。
「騎士でもなく、傭兵としても働けなくなった俺は、最後の手段に出ることにした。夜盗として、この土地を襲うことにしたんだ。すでに例の畑には火がかけられている」
「おひとりで仲間を集められたのですか?」
「いいや。隣国の、国境沿いの領主に取引を持ちかけた。この土地を焼き払う汚れ役は、俺が担うことで承諾してもらった」
「だから、夜盗にしては動きが統率されていたのですね」
「そんなことまでわかるのか」
「目が見えない分、耳や鼻が敏感になるのです。私が名乗らなかったあなたに気が付いたのも、声や歩き方の癖、そして身にまとう香りが同じだったからですよ。足を悪くされてからは、その癖もずいぶん変わってしまいましたけれど」
労わるように、愛おしむように、ソフィアは騎士の身体を撫でた。
***
ひとつだけ教えてくださいと、ソフィアは騎士の頬に手を添えた。
「どうして無理に手籠めにしようとしたのですか? ああ、責めているわけではないのです。ただ、あなたが意味もなくそんなことをするとは思えなくて」
騎士は、苦しげに顔をゆがませた。懐から、小瓶を取り出してみせる。虹色の薬がとぷんと揺れた。
「魔女の万能薬には、使用条件がある。魔力を馴染ませた相手でないと使用できない。そして万能薬は、真の意味での万能薬ではない」
「どういう意味ですか?」
「すべてを完全に元の形にはできないそうだ。それは魔女曰く、理に反することらしい。だが、相手のために自分の持つものを差し出すことはできると言われたからな」
「まさか」
「俺は、君に俺の瞳を差し出す予定だった。だから、何を失っても目だけは守り抜いた。騎士としてはまともに生きられない不自由な身体だ。君が光を取り戻せるなら、それでいいと思っていた」
「それならば、名乗ってくだされば良かったではありませんか。こんな無体な真似をわざわざせずとも」
「先のない男に執着されては、君も困るだろう? 火傷で顔も醜くなり、騎士として働くこともできない。それに引き換え、目が見えるようになれば君は求婚者に困ることはなくなる。俺は縛り首にでもなって、この世からおさらばするつもりだったんだ」
騎士の決意を面白がった魔女が、彼が死んだらソフィアの記憶から彼の勇気も蛮行もすべて消してくれる予定だったらしい。ソフィアが涙をこぼした。
「ひどいひと」
「ああ、そうだな」
「ようやっと結ばれたというのに、勝手に私の幸せを決めつけられた挙げ句、いなくなられてはたまったものではありませんわ。申し訳ありませんが、魔女の万能薬は必要ありません。私は今のままで十分です」
「だが!」
「もしも魔女の万能薬を使うと言うのであれば、私の手足をあなたに差し上げますよ。そうすれば、あなたは五体満足でまた騎士としてやり直せるのでしょう?」
「馬鹿を言うな。俺は十分に生きた。君は、これから幸せに生きるべきだ」
「あなたのいない世界でどうやって幸せに生きろと言うのです」
ふたりが言い争いをするうちに、男が握りしめていた万能薬は薬瓶の中で淡く光り始めていた。目が見えないソフィアはもちろん、彼女のことにしか頭にない騎士はそれに気が付かない。
「うまい具合に代償と効果を分散できればよいのに」
「それはどういう意味だ?」
「例えば、私の片手とあなたの片目を交換してくださるとか」
「そんな都合よくいくものでもないだろう。それに、こんな醜い姿をさらすのは、やはり心苦しい」
「おかしなひと。私のために命をかけてくれたあなたを、私が捨てるとでも?」
「そう思えないからこそ、自分の醜さを恥じている」
「どんな結果になったとしても、私は二度とあなたから離れる気はありませんから。私の、騎士さま」
「……参ったな。これでは使うに使えない」
困ったような顔で逡巡していた男は、降参だと言うように両手を挙げて、小瓶を床に置く。ソフィアはそんな男とそっと唇を重ね合わせると、離れていた時間を埋めるかのようにただお互いを貪り続けた。
***
国境では検問が行われていた。日頃はかなり緩やかなものらしいが、近隣の伯爵領で夜盗が出たとあって、珍しく物々しい雰囲気だ。
「長くかかりそうですか?」
若い夫婦が、堅物そうな検問の男に声をかけた。綺麗な身なりをしている夫婦は、新婚だろうか。心配そうに周囲を眺めている。
「ああ、例の屋敷には目の不自由な先代領主のお嬢さんがいたんだが、見つかっていないそうだ」
「目の不自由なお嬢さま?」
「そうさ。王命でお嬢さんが成人するまでの間の代理人が立てられていたらしいんだが、元婚約者が共謀して屋敷も何もかも乗っ取っちまったって話さ。早くに家族を亡くし、目も見えなくなり、ろくに世話もされず、最後は夜盗にさらわれちまうなんてお気の毒な方だよ。聞けば聞くほど可哀想な話さ。貴族ってのは、不自由な生き物なんだなあ。すべてを放って逃げ出すこともできないんだから。世界はこんなに広いっていうのによ」
やりきれなさからだろうか、男が頭をかきむしる。彼は人情に厚いがゆえに、上に睨まれてここ最近僻地に飛ばされてきたばかりだったのだ。
「ところで、そのお嬢さまを虐げていた代理人一家や元婚約者というのはどうなったのです?」
「それが、天罰がくだったようでね。なんともむごいありさまだったらしい。目が見えなくなったり、重い火傷に苦しむことになったり、手足が動かなくなったり、耳や鼻を削がれた者もいたらしい」
「そう、ですか」
「ああ、すまねえ。若い女の人の前でする話じゃなかったな」
「いいえ。どうぞお気になさらず」
そのまま黙って考え込んでいた若夫婦の奥方が、ゆっくりと口を開いた。
「意外と、そのお嬢さまも幸せに暮らしているかもしれませんよ」
「まあ、野盗に気に入ってもらえれば売り払われずに女房になれるかもしれんが。自分をさらった相手と結婚する気になんてなれるもんかね」
「それは……。でも、ひとの縁というのは奇妙なものですから」
「うら若きお嬢さんが不幸せになる想像よりかは、ましだな。万に一つの可能性を信じようじゃねえか。それで、あんたたちはこれから隣国かい?」
「はい。ここからほど近い隣国の領地で暮らしております。生活基盤が整ったので妻を迎えに来たのですが、まさかこんなことになるとは」
「おお、いいねえ。旦那さんはいい身体をしている。騎士か何かなのか?」
「実は、功績をあげてようやく騎士になれる予定でして」
「まったく、ふたりして幸せそうで羨ましいねえ。野盗は王都から来た偉そうな奴らがなんとかしているらしいが、あんたたちも気を付けな。特に奥さんは綺麗だからな。変な貴族に目をつけられないようにしないと」
「まあ」
青空のように光り輝く瞳を持った奥方は嫌でも人目を引く。厄介な貴族に見つかれば、一夜の相手として召し上げられてしまうかもしれない。
「ほら、順番を繰り上げといてやる。さっさと行きな」
「ありがとうございます」
お似合いの美男美女夫婦は、足早に国境を通り過ぎていく。ふたり手を繋ぎ、光の射す方に向かって。
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