本日のスープ 〜庭で育くんだ清涼感〜
その部屋には大きな窓があった。窓の外には、庭らしきものが見える。ただ、ほとんど緑一色だった。春になって花は咲いているのだが好き勝手生えている雑草に埋もれてしまっていた。まだ昼ごろのはずだが、灰色の雲で覆われていて、空全体がくすんで見える。
小川にかかった橋も薄緑の塗装は所々剥がれて、こげ茶色の金属が悪目立ちしている。
部屋の中はテーブルの上以外は片付いていた。窓際に木製の椅子が置かれており、老人が気持ちよさそうな顔して座っている。
「お昼ご飯ができたわよ!」
部屋の外から女性の声がした。
「もう、ひなたぼっこが気持ちいいからっていつまで寝てるの?」
何の呼びかけもないことに、女性の声に怒気が含まれる。
老人がうたた寝している大きな窓のある部屋に、エプロンをつけた老婆が入ってきた。
「クロード起きて!」
いつもなら目を覚ますほどの大きな声をかけても、体を大きく揺らしてもピクリとも反応しない。どうやら息をしていないようだ。まさかと思いすぐに家を飛び出した。
「お亡くなりになっています。」
「そうですか。」
ひと通りの遺体の確認が終わり、3日後の葬式に向けての処置も終えた。医者は故人の顔を見ながらつぶやいた。
「それにしても、すごく幸せそうな顔しています。素敵な人生だったんですね。」
「全くいい気なもんですよ。数年前から目が見えないから、私が一生懸命にフォローしてたんですよ!それに頭もボケちゃって、いつも30年前の話しをされるし。」
「奥様、長い間介護生活お疲れ様でした。」
「あ、そうだ聞いてくださいよ!この前も息子が遊びにきたんだけど不審者扱いしちゃって。まぁ慣れたもんでうまく合わせてくれましたけど。孫のことは小さい頃の息子の愛称で呼ぶもんだから、本人はキョトンとしちゃってね。」
太陽が家路に着いた頃、医者の腹の虫が鳴った。
「すいません、こんな時に。」
老婆が慌てて目線を窓の外に移すと、無数の緑の線で埋め尽くされていた庭は、すでに真っ黒な絵の具で塗りつぶされていた。
「あらもうこんな時間!すいません、お医者さまに死んだ人間の症状を長々と話してしまって。」
「いえ、ご夫婦の楽しそうな様子が浮かんできて、こちらも幸せな気分になりました。」
「でも命を助けるお医者さまに、死人の話でこんな夜遅くまで付き合せてしまって。」
「いえいえ。もちろんこの仕事は人の命がかかっているので、助かる命を全力で助けます。しかし、私は医者である前に『人間』でありたいと思っております。ご家族の心には寄り添ってあげたいと思っているので。」
「心を癒すのも一流なんてすごいわ。でもすいませんね、つまらない思い出話を聞かせちゃったせいでこんな時間になってしまって。せめて罪滅ぼしじゃないですけれども、夜も遅いし、ご馳走させていただけるかしら。あら、でも奥さんが心配されるかしら?」
「いえ、まだ独身です。」
「じゃあちょうどよかったわ。食べて行って!」
「でもいろいろお疲れの奥様に、医者として負担はかけたくありませんのでもう帰ります。」
「そんなカタイこと言わずにさ!主人のために多めに作っちゃったから、むしろ食べていってもらえると助かるのよね。それに、あなたは『医者である前に人間』なんでしょう?」
「、、、そうでしたね。ではお言葉に甘えて。」
「ご馳走さまでした。大変においしいスープでした。でも食べたことない食材があって。上にかかってた、薄くスライスした黒いモノはなんですか?」
「あぁ、それトリュフなんですよ。」
「へー!たしか高級食材なんですよね?」
「そうなの、あの人の大好物でね。もう本人は食べれないのに、ついクセでさっきふりかけてしまったわ。」
「トリュフのおかげですごく香りが高く、味も一段と深みが増しますね。」
「アナタがおいしかったなら良かったわ。でもアタシはその匂いが昔は苦手でね。主人が好きで絶対に入れろとウルサイからよく作らされてたの。おかげで今はさすがに慣れたけど。」
「こんなおいしいスープを頻繁に食べてたなんて、ご主人は本当に幸せ者でしたね。」
「ありがとう。でも明日は、何十年ぶりにトリュフが入っていないスープを食べようかしら。」
「明日は私もいないので、ご自分のために作ったスープを味わってご自愛ください。」
「そっか、明日は1人で食事することになるのね。作った料理に、誰も感想言ってくれないのは寂しくなるわ。」
半分独り言のようなセリフの内容に少し恥ずかしくなったので、奥さんは窓を開けて夜風を入れた。すると、そのスキマを狙ったようにちょうど突風が吹き抜けた。
その風に運ばれて、どこからか1枚の紙が飛んできて、医者の足元に落ちた。
そこには鉛筆で描かれた、美味しそうにスープを飲んでいる女性の絵だった。医者が見る限り、モデルはたぶん奥さんだ。しかもかなり若い頃の。
「これって旦那さんが描かれた絵ですかね?」
「あら、あの人が人物画描くなんて珍しいわ。しかもコレ、若い頃の私だわ!」
「やはりそうでしたか。」
「せっかく絵がうまいのに、私の肖像画だって若い頃に1枚描いただけなのよ!」
「では、これは貴重な2枚目の絵なんですね。」
「しかも、その時も描いた理由がひどいの!白いドレスを着て、日傘をさしてたんだけどね。ちょうど風が強い日で、その靡いてる様子に光が当たって『ドレスが』すごくキレイだっていうのよ!
私のこと『キレイ』なんて1回も言ってくれたことないのに!もうあの人の頭の中は『光』ばっかり!あの人によく描かれてた、庭の雑草の気持ちがよくわかるわ。」
「でも、このスープを飲んでいる奥様の目はすごく光っていてキレイですね。それに、すごく素敵な笑顔に描かれていますよ。こんな細かい表情は、たとえ一流の画家でも被写体をよく見ていないと描けないと思います。」
「たしかに、若い頃の私にそっくりだわ。ちょっと美人に描きすぎてはいるけれど。あの人には私がこう見えてたのかしら。」
「そういえば、このスープにはトリュフが入ってないですね。代わりに何か葉っぱみたいなものが真ん中に浮かんでますね。」
「それはミントね。私が大好物だったんだけど、トリュフと香りがぶつかるからって入れさせてくれなかったの。家の庭からも、たくさん採れるのにね。」
「なるほど、ミントも香りが強いですからね。」
「私はこっちが好きだってずっと言ってたのに、ホントわがままな人!生きてる間は全然食べさせてくれなかったのに、絵に描いたって食べれないじゃないの。
、、、あぁ、また長話になってしまうわ。アタシが洗い物してるうちにお帰りになって。」
「そうですか、では失礼させていただきます。美味しいスープと素敵なご夫婦の思い出をありがとうございました。」
3日後の葬式の日。住人のいないリビングのテーブルには、例のスープをすする女性の絵が置かれていた。白黒だった絵には、絵の具で色が塗られていた。
いかにも素人のベタ塗りだが、緻密な鉛筆の下書きに沿ってほとんど忠実に塗られていた。ミントも、葉の形に沿って丁寧に塗られている。
ただ、ミントを囲むように、スープいっぱいに薄くて黒いモノが加筆されていた。