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デュアル・クレセント② 〜ノミと皿〜

 夜明け前の空はまだ薄暗く、灰色の雲が低く垂れ込めていた。宮殿の外れ、職人たちの棟には、かすかな灯りが一つだけ灯っていた。


 モニングローはすでに目を覚まし、作業台の前に座っていた。金槌の音も、ノミの音も立てず、ただ仮面の木型を指先で撫でている。朝の湿気が、削り出した楓の木に静かに滲んでいくようだった。


 仮面職人という仕事は、派手さとは無縁だ。作っては渡され、時には捨てられることもある。それでも彼にとっては、ひとつひとつの仮面がかけがえのない“想いの容れ物”だった。

 依頼主の希望する「理想の顔」をなぞるたび、モニングローの指先には、言葉にされない感情のざらつきが伝わってくる。嫉妬、虚栄、切望、滑稽さ……人が隠したがる仮面の奥底にあるそれらの感情を、木の温もりに封じ込めることが、彼の誇りだった。


 カリカリ、と乾いた音が小さく響いた。ノミの先端が、眉のあたりにほんのわずかなくぼみを刻んだ。意図せず生まれたその線が、ふと涙の跡に見えて、モニングローは手を止める。


 ──昨夜の道化師。


 「……デュアル・クレセント」


 初めて見たその仮面は、奇妙なほどに整っていた。笑顔と涙、星と夜。仮面の一部すべてが意図されたようでいて、無意識に心をざわつかせる。それは装飾品ではなく、“語っている”仮面だった。

 「いつか、話してみたいな……仮面の向こうのことを」


 ぼそりと独りごちると、近くから扉の音が聞こえた。隣室の職人が起きたのだろう。宮殿の職人寮では、朝が早いのは珍しいことではない。


 モニングローは立ち上がり、湯を沸かすために部屋を出た。


 


* * * 


 正午を告げる鐘の音で、クレイタは目を覚ました。

 「もう昼か。腹減ったな。」

 独り言で自分の役職を思い出し、慌てて身支度を済ませる。



 昼過ぎの宮殿の東の廊下では、クレイタがまだ少し重たい足取りで歩いていた。その理由は、料理長に遅刻を注意されただけでは無かった。


 仮面を外した顔はどこか緊張していて、舞踏会で見せていたあの朗らかな仕草は微塵もなかった。道化師としての“衣装”は脱ぎ、今は給仕用の質素な制服を身にまとっている。



「……素顔だと、やっぱり気まずいよな」

クレイタはつぶやいた。舞踏会で親しくした貴族の娘たちが、笑い声を立てながら廊下をこちらへと歩いてくる。昨日の舞踏会で会話を交わした貴族の娘たち――エウロパもその中にいた。


 クレイタは目を伏せ、すれ違いざまに小さく頭を下げる。エウロパは一瞬だけこちらを見たが、口元に浮かべた笑みは、舞踏会で交わした親密さとは違い、どこかよそよそしいものだった。


 「あ……給仕の方? そちらにカフェはあるかしら?」


 彼女の友人の一人が訊ねる。クレイタはとっさに指を差して説明したが、それだけだった。彼女たちは礼もそこそこに、また笑い合いながら去っていった。


 昨夜の自分は、まるで仮面に助けられた他人だった。素のままでは、誰も近づいてはこない。



クレイタは、昨日の舞踏会での、仮面で隠した自分の笑みを思い返していた。

だがそれは、喜びからではなく、ほんのひとときだけ自分を“誰か”として受け入れてくれるこの場に、逃れるように寄り添っている笑みだった。


 仮面がなければ誰とも話せない。けれど仮面があれば、誰とでも話せる。


 彼は知っていた。


 舞踏会は、彼にとってただの“仕事”ではない。自分自身になれる、唯一の夜だったのだと。



 ……それでも、あの人だけは。

 クレイタは、曲がり角の先、静まり返った廊下に目をやる。

 その先に、たった一人、立ち止まっている男がいた。


壁に飾られた、埃を被った仮面を熱心に見ている。


 「やぁ、モニングロー。」

 「おう、クレイタ。おはよう。」

 「そんなに一生懸命仮面を観察するなんて、今日も仕事熱心だね。」

 「いや、逆だ。自分の職人としての下手さに嫌気が差して、過去の傑作たちで現実逃避しているところだ。」

 「そうなんだ。」

 クレイタも仮面に目をやると、モニングローと初めて出会った時のことを思い出していた。

  


* * * 


──それは、1週間ほど前のことだ。


 その時は早朝で、クレイタがこの壁の前で1人で立っていた。

 

 彼は、壁に飾られた仮面には目もくれず、左右の道を交互に見合って、昨日の記憶と必死に照合しようとしていた。どちらの道に行けば、昨日初めて案内された食堂に向かえるのかを。


 明らかに迷っている様子に、モニングローは思わず、駆け足でその背中に近づいた。

 「……おはようございます。もしかして、迷われました?」


 クレイタがゆっくり振り返る。その表情は驚きに少しだけほころび、そして、どこか安堵したような気配があった。


 「ああ……ええ、少しだけ。実は。」

 「あの……給仕の方?」

 「はい。」

 「どこに向かいたいんですか?」

 「6時から、朝食の準備をしに行かないといけなくて」

 「もう過ぎてるじゃないですか!たまたま休憩中で通りがかりだったんで、案内しましょうか?」

 「……助かります」


 2人の歩みは静かだったが、どこか自然だった。


 クレイタは、気づかれないようにほんの少しだけ笑った。誰も知らない彼の“素顔”を、真正面から見てくれる人がいる。それだけで、今日という朝が、少しだけまぶしく思えた。



 * * * 

 

「なんで笑ってるんだ?」

ふと、今隣にいる本人から声をかけられて現実に引き戻される。


「いや、ここで僕が迷ってた時、モニングローが声かけてくれたじゃん。なんかその時の声が変だったなぁと思って。」

咄嗟に誤魔化そうとして、自分こそ変な言葉で、口を滑らせてしまう。口下手な彼にはよくあることだった。

「俺だって慣れないことして緊張してたんだぞ?そんな言い方すんなら、2度と助けないからな。」

「ごめんて、明日、残り物のクイニーアマン持ってくるからさ。」

「わかればよろしい。」

そんな他愛無い“取引き“を済ませると、モニングローは昨日の興奮を思い出す。

「なあ、昨日の道化師の仮面、見たか?」

「、、、ああ、一応。すごい社交的で踊りが上手いよな。」

「いや、そこじゃねえよ。あの仮面さ!シンプルなのに、実際の人間の顔なんかよりよっぽど、色こく感情を表現しているんだ。ぱっと見は笑ってるように見えるけど、哀愁も感じられてさ。文字通り仮面で隠した、誰にも言えない葛藤を表現しているように感じるんだよなぁ。俺もいつか、あんな仮面を作れたら……って思うよ。」


「……そ、そうなんだ。」

「うし、そうと決まったらまた作業戻るわ。クレイタも夕食の準備がんばれよ!」

「あぁ。じゃあな。」

いつものように別れの挨拶を済ませると、2人はそれぞれの職場へと戻る。


 ──モニングローはまだ気づいていなかった。

 その給仕の青年こそ、昨夜、自分が心を奪われた仮面の道化師、デュアル・クレセントであることを。



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