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砂の王国の宵③ 〜芳醇な香り、金の刺繍〜

 午前の陽が、砂色の街並みに斜めから差し込んでいた。乾いた風が路地を抜け、スーク(市場)の空気を微かに揺らす。香草やスパイスの匂いが混じり合い、陽射しに照らされた乾物や果物が艶やかな色を帯びている。


 ファティラは、薄手の紺色の外套を肩にかけ、すれ違う人々の間を歩いていた。王族専属の仕事は昼からのことが多く、午前中はこうして市場へ出向き、食材や衣服を買い揃えるのが日課だった。


 「お嬢さん、今日もいい香草が入ってるよ!」


 馴染みの八百屋の老人が、陽に焼けた手で、束ねたコリアンダーを掲げる。葉は青々とし、瑞々しい香りが風に乗って届いた。


 「いいわね、いつもの半束ちょうだい。それからトマトも3つ」

 「へい、いつもありがとうよ!」

 手際よく布袋に包まれた食材を受け取り、ファティラは懐から銀貨を取り出す。王宮勤めで稼いでいる彼女にとって、庶民の市場での買い物はささやかな贅沢だった。

 


 次に向かったのは、香辛料を扱う屋台だった。山積みになったクミンやカルダモン、シナモンの香りが鼻をくすぐる。店主の女性が、手際よく香辛料を量りながら言った。

 「今日のファティラはどんな料理を作るの?」

 「ラム肉を煮込もうと思ってるの。だからシナモンとカルダモンを少し、それからクローブを3粒ほど。」

 「イイ選択ね。じっくり煮込めば、お肉がほろほろに崩れるわよ」




 布袋に詰められた香辛料を手にしながら、ファティラはふと、隣の屋台に目を向けた。そこには、幾何学模様の刺繍が施された長衣が並んでいる。


 ――今月は、そろそろ新しい服を買ってもいい頃かしら。


 指先でそっと布の感触を確かめる。細かな刺繍は見事なもので、砂漠の夜空を思わせる濃紺の生地に、金糸が星のように散りばめられている。


 「素敵な仕事ね。これを一着、いただくわ」


 支払いを済ませ、新しい衣服を腕に抱えて市場を後にした。





 家に帰り、買ってきた食材を台所に並べる。陽が高くなり、窓から入り込む光が、キッチンの土色の壁に柔らかな影を落としていた。


 まずはラム肉を適度な大きさに切り分け、軽く塩を振る。それを熱した土鍋に入れ、じっくりと炒めていく。肉が焼ける香ばしい匂いが立ち昇り、ファティラは小さく鼻を鳴らした。

 「いい匂い……」


 そこへ、刻んだ玉ねぎとニンニクを加え、さらに炒める。飴色になった頃合いで、スパイスを投入した。シナモン、カルダモン、クローブ――香り高い香辛料が鍋の中で油と混ざり合い、部屋いっぱいに異国の香りが広がる。

 

 やがて、トマトとスープを加え、鍋の蓋を閉じる。弱火にして、じっくりと時間をかけて煮込む間、ファティラは市場で買った刺繍の衣服を手に取った。



 布の手触りを確かめながら、細かな縫い目を指先でなぞる。この模様が刻まれた時間や技術を思うと、ただの衣服ではなく、一つの芸術品のように感じられた。

 「ふふ、早く着たいな。」


 そう呟いて鍋の蓋を開けると、ラム肉が柔らかくほぐれ、スープにとろみがついていた。味を整え、熱々の料理を木皿に盛る。


 日差しの差し込む窓辺に腰を下ろし、手作りの料理をひとくち。スパイスの奥深い香りが舌の上に広がり、ラムの旨味がじんわりと染み渡る。

 「うん、美味しい」

 このひとときが、ファティラにとって何よりの贅沢だった。





 夜になると、ファティラは小さな燭台に火を灯し、鏡の前に座った。


 王族のもとへ赴く日は、慎ましく整える程度だったが、今日は仕事もなく、一人の時間。だからこそ、好きなように装い、楽しむことができる。


 市場で買った腕輪を手に取り、そっと手首にはめる。金細工に埋め込まれた宝石が、ろうそくの光を受けて輝く。次に、耳飾りをつけた。細い鎖の先に、小さな月を模した装飾が揺れる。

 腕輪の輝きを確かめ、最後に新しい長衣を羽織る。柔らかく肌に馴染む濃紺の布は、金糸の刺繍が月の光を浴びて儚くきらめいていた。鏡の中の自分を見つめ、微かに笑う。


 香水を一振りすると、月明かりに照らされた外に出た。





 彼女が向かったのは、街の西端にある月の泉と呼ばれる場所だった。そこは古い隊商宿の跡地で、今は旅人や町の芸人たちが集い、夜ごと賑わいを見せる。琵琶の音色が響き、物語を語る者がいて、甘い果実酒が振る舞われる。


 ファティラはその場所が好きだった。どこからともなく現れる吟遊詩人が歌い、砂漠の商人が珍しい品を並べ、香炉から立ち昇る乳香が夜の空気をゆるやかに満たす。


 会場に入ると、果実を煮詰めた甘い酒の香りが漂い、カラフルな布を敷いた床に人々が腰を下ろしていた。ファティラは、馴染みの席に座り、店主に目配せする。


 「今夜は、どんな話が聞けるのかしら?」

 杯を受け取りながら、遠くの星が瞬く夜空を見上げた。今宵の宴が、どんな物語を紡ぐのか、彼女はゆっくりと耳を澄ませた——。

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