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砂の王国の宵② 〜黒胡椒の余韻〜

 カリフが目を開けると、ファティラが穏やかな笑みを浮かべていた。その微笑みには、どこか優しいいたずら心が滲んでいるようにも見えた。


 どうやら、眠っていたようだ。


 カリフは目線を下に落とすと、捲られていた袖も元に戻っていた。


「おつかれさまでした。」

 彼女は施術が終わってからその言葉をかけるまで、どれだけ待っていてくれたのだろうか。カリフは自身の眠気がなくなっていることから、小一時間は経過したと察する。


「待っていてくれたのか。起こしてくれればよかったのに。」

「お疲れのようでしたので。それに……あまりに安らかな寝顔でしたから、起こすのが惜しくなりまして。」

 ファティラはどこか楽しそうに、けれど慎ましやかに微笑んだ。

「そうか。」

 見惚れていたのは自分のほうであることを隠し、王族らしく振る舞う。




 カリフは一度目を伏せ、考えるように指を軽く組んだ。理性が「ここで別れるべきだ」と告げるのに、心はそれを拒んでいた。

「今日は……一緒に食事をしないか?」

 口にした瞬間、自分らしくない言葉だと自覚する。それでも、一度言ってしまえばもう引き返すつもりはなかった。

「そんな。私などが同じ食事をするなど、ふさわしくありません。」

「案ずるな、本当に、ただ隣で食事をしてほしいだけだ。」

「いえ、疑っているわけでは。」

「帰りは使者に送らせる。その際、ソナタの家族には、今日は臨時で王妃の施術も行ったので遅くなったと伝えさせる。」

「お気遣いありがとうございます。それでしたら、ご一緒させていただきます。」


 了承が取れたところで、普段はカリフが召使に囲まれながら1人で食事をする部屋に、カリフは彼女を案内した。






 カリフは立ち上がり、ゆったりとした歩調でファティラを食堂へと導いた。ファティラは少し緊張した面持ちだったが、無言のまま彼の後をついていく。


 普段、カリフが食事をとるのは、広く華美な食堂ではなく、簡素な木目調の壁をした部屋だった。黄金の燭台に灯された蝋燭の明かりが、深みのある木製の食卓を照らし、温かみのある雰囲気を作り出している。


 カリフは席に着くと、対面の椅子を示した。


「そこに座ってくれ。」


 ファティラは一瞬戸惑ったようだったが、静かに腰を下ろす。


 程なくして、料理が運ばれてきた。生ハムとクリームチーズを挟んだパンは、ほんのりと焼き上げられた表面が香ばしく、黒胡椒の効いたソーセージは脂の乗った豊かな香りを放っている。タマネギのサラダは照明を反射してみずみずしく光っている。



「どうぞ召し上がれ。」


 カリフがそう促すと、ファティラは戸惑いながらも手を伸ばし、控えめにパンを手に取った。指先が少しだけ震えているのが分かる。


「……いただきます。」

 ファティラは慎重にパンを手に取ると、ほんの少しだけ息を整え、それからそっと一口かじった。

 ふわりと広がるチーズのまろやかさ、生ハムの塩気、そして香ばしいパンの温もり。思わず瞳を見開く。

「……っ」

 けれど、それが表情に出たことに気づくと、すぐに背筋を伸ばし、落ち着いた仕草で次の一口を運ぶ。

 その一連の動きに、カリフは微かに口元を綻ばせた。



「気に入ったか?」

 ファティラは少し頬を赤らめながら、恭しく頷く。

「……とても、おいしゅうございます。」

「そうか。それはよかった。」

 カリフもパンを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。王族にとっては日常の食事であるはずなのに、今夜は格別においしく感じた。




 ファティラは次に、黒胡椒の効いたソーセージにそっと手を伸ばした。銀のナイフを入れると、じゅわっと肉汁が溢れ出し、湯気とともにスパイスの香りがふわりと立ち昇る。その様子に彼女は思わず息を呑んだ。


「……すごい」

 彼女は小さく呟くと、慎重にナイフで小さなひと切れを作り、フォークに刺して口へと運んだ。

 途端に、口の中で肉の旨みが弾ける。外側の香ばしい焼き目、ぎゅっと詰まった肉の弾力、そして黒胡椒の刺激的な辛さが後を引く。


「……っ!」

 軽く咳き込むようにして、ファティラは驚いた顔をした。けれど、それは不快なものではなく、初めて味わう刺激に目を見開いたものだった。


「辛かったか?」

 カリフが静かに問いかけると、ファティラは慌てて首を振る。

「いえ、違います。あまりにも……濃厚で、それで……」

 彼女はどこか困惑したような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべる。

「こんなに肉の味がしっかりしているなんて、思いませんでした……黒胡椒が、こんなにも力強い香りを持つとは……」

「ふっ。それはよかった。」

 カリフは満足そうに微笑むと、自らもソーセージを口に運んだ。




 ファティラは次に、タマネギのサラダに目を向けた。瑞々しい白さの生タマネギが薄くスライスされ、さっぱりとしたドレッシングと共に盛り付けられている。隣には、じっくりきつね色に炒められたタマネギのソテーが添えられていた。


 戸惑っているファティラに気づいたカリフが声をかける。

「タマネギは、生のサラダから味わうといいぞ。」

「ご助言、ありがとうございます。」

 恐る恐る口に運ぶと、シャキシャキとした食感が心地よく、ほどよい辛みと爽やかな甘みが広がる。


「……あっ、これは……」

「どうした?」

「タマネギって、こんなに爽やかなんですね……」

 ファティラの驚きに、カリフは静かに頷いた。

「新鮮なものを冷水にさらせば、辛味が抑えられ、甘みが引き立つ。庶民の食卓では、火を通すことが多いのか?」


「はい……炒めたり、煮たり。けれど、生のままで、こんなに美味しくいただけるなんて……」

 彼女は感嘆するようにもう一口味わう。


 サラダを食べ切ったファティラは、タマネギのソテーに目を移す。黄金色に輝くそれを口に含むと、とろりとした甘みが広がり、先ほどの生タマネギとはまるで違う味わいに思わず目を丸くする。

「同じタマネギなのに……こんなにも違うのですね……!」


 カリフはその反応を興味深そうに眺めながら、彼女が料理を心から楽しんでいることに、なぜか嬉しさを感じていた。



「食事とは、ただ空腹を満たすものではない。――時に、それは、世界を広げるものでもある。」

 カリフは静かに盃を持ち上げ、シナモンティーを口に含んだ。甘く、ほのかにスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。

「たとえば、お前にとって今日のこの料理がそうであったように。」

 彼の言葉に、ファティラはハッとしたように目を瞬かせる。

「本当に……そうですね。」

 彼女は少し恥ずかしそうに微笑むと、再びフォークを手に取った。




 こうして、誰かと食卓を囲むことが、これほどまでに心を満たすものだったとは。


 王族としての義務を果たす日々の中で、カリフは長らく忘れていた感覚だった。


 そして、この穏やかな時間が終われば、またいつもの関係に戻る。


 それでも――


 カリフは、目の前で料理に夢中になっているファティラの姿を眺めながら、そっと唇の端を綻ばせた。






 食事を終え、カリフは約束通り、使者を呼び、ファティラを家へ送らせた。彼女が礼を述べ、深々と頭を下げて去っていくのを見送った後、カリフは一人、窓辺に歩み寄った。


 夜の冷たい風が頬を撫でる。


 静寂の中、彼はただ月を見上げ、物思いに耽っていた。



 いつも食べているような料理のはずなのに、今日はいつまでも舌に残っている気がする。



 カリフは窓の外を見つめながら、薄く微笑んだ。




 明日になれば、再び日常が戻る。王族としての務め、冷静であるべき自分。



 月の光を浴びながら、カリフは静かに目を閉じた。ふと、夕食時の黒胡椒が奥歯に挟まっており、気づいて舐めるとピリリとしした。食堂で、ファティラが驚きながら料理を味わっていた姿が脳裏に浮かぶ。

 

軽く微笑むと、夜が明けるまでと己に誓い、ただその余韻に浸った。


 窓の外の広大な砂漠は、夜の闇に吸い込まれながら、ゆっくりとその熱を失っていく。

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