砂の王国の宵① 〜琥珀の帳〜
モデルの街:ダマスカス(シリア)
茶系統の柔らかな色彩が広がる王子専用の居室。その壁は太陽に焼かれた大地のような温もりを湛え、天井には金の刺繍が施された薄絹の天蓋が揺れている。部屋の奥には深い藍色の帷が垂れ、格式のある空間を生み出す。窓の外に広がる砂漠に吹き荒ぶ夜風とは対照的に、部屋の中は心地よい温度に保たれていた。
その向こうから微かに聞こえてくるのは、専属の楽師たちが奏でる伝統の調べ。笛の切ない旋律に、太鼓の低く響く音が重なり、その音色は、静かに夜の空気と混ざり合い、部屋を包んでいた。
カリフは、豪奢なソファに深く身を預けていた。肘掛けに腕を置き、額に手を当てる。その指先には日々の政務の痕跡が刻まれている。文書を捲り、印を押し、時には握り拳を作る。国民の生活を考え、熟慮を重ねることに費やされる日々。静かに目を閉じると、知らず知らずのうちに指の節々がこわばり、肩には重い疲れが宿っているのがわかった。
彼のすぐそばにはファティラが膝を立てて控えていた。亜麻色の灯りに照らされた彼女の肌は、滑らかな琥珀のような艶を帯びている。黒髪は高く結い上げられ、彼女自身からほのかに香る甘い香りが漂っていた。
「ファティラ、今日も頼む。」
「承知しました。足を拭かせていただきます」
カリフの短い言葉に反応し、ファティラの妖艶な声が静かに響く。余計な言葉を加えることはない。ただ、いつものように、淡々と、けれど確かな手つきで彼の疲れを取り除いていく。
彼女が持っていた布は、湯で温められていた。そっと足元に布をあてがうと、心地よい温もりがじんわりと広がる。指の間や足の甲、踵に至るまで、丁寧に拭いながら、ファティラは静かに手を動かし続けた。彼女の指先が触れるたび、カリフの体は次第に硬さを失っていく。
次に、彼の足がそっと、温かな湯へと沈められた。香草とウードの香りが立ち昇り、夜の空気と混ざり合う。湯は心地よく、ふくらはぎまで包み込むように広がる。熱すぎず、ぬるすぎず、ただちょうどいい温度が、彼の神経を穏やかに解いていく。
十数分ほど経つと、ファティラは湯から足を引き上げ、柔らかな布で丁寧に水気を拭った。まるで砂漠の月が水面を撫でるような優雅な動きだった。
「次は、手を」
カリフは静かに片手を差し出した。ファティラは掌をそっと両手で包み込み、温もりを伝えるように優しく押し広げる。次に、ウードの香りがする特製のクリームを手に取り、指の付け根からゆっくりと塗り込んでいった。
親指の腹で、掌の中央をぐっと押し込む。じわりと響くような心地よい刺激が広がる。円を描くように力を加えながら、掌から手首、そして肘へと進んでいく。ファティラの指は滑らかで、決して焦ることなく、まるで水の流れのように淀みなく動いていた。
カリフは目を閉じたまま、ただその感触を受け入れていた。肩の力が抜けていく。まるで、彼の中に滞っていたものが、波にさらわれるように消えていくようだった。ファティラの手が指の一本一本を包み込み、関節をゆっくりと回していくたび、彼は夢と現実の狭間をたゆたうような感覚に陥っていた。
――ふっと、深い吐息が漏れる。
それを聞いたファティラは、微かに目を細めたが、特に言葉を発することはなかった。彼女はただ静かに、カリフの疲れをほぐしていく。
外では、波のように続く旋律が流れ、香が静かに揺らめいている。
この一刻だけは、何も考えなくてもよい――カリフにとって、それが何よりの癒しだった。
ファティラの指先が、ゆっくりとカリフの手をなぞる。指の一本一本をほぐされるたび、力が抜けていく。掌の皺をたどるように、わずかに圧をかけながら滑らせるその動きは、迷いがなく、それでいて慈しむような優しさがあった。
――心地よい。
自分の手が誰かにこうして揉まれ、癒されることが、こんなにも安らぐものだとは。カリフは既に、せわしない自身の日常のことなど忘れていた。
ファティラの手が掌を押し広げるたび、血が巡り、硬さが解けていくのを感じた。
いつの間にか曲が変わったのか、笛の妖艶な調べでカリフは意識が戻り、薄く目を開ける。
目の前のファティラの顔は伏せられ、長い睫毛が蝋燭の灯りに影を落としている。その横顔はどこか静謐で、彼の意識が深く沈んでいくのを許してくれるようだった。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
「……」
カリフは息を飲んだ。
――これではまるで、甘えているようではないか。
ほんのわずかに背徳感がよぎる。彼は王子であり、ファティラは侍女にすぎない。本来であれば、こうして触れられること自体、許されるべきではないのかもしれない。
だが、ファティラの手は変わらず穏やかに、彼の手を包み込んでいる。その指先の圧に、わずかに身を委ねるだけで、張り詰めた心が解けていく。
――もう少しだけ、この時間に浸ってもいいだろうか。
「痛みはありませんか?」
少し力んでしまった右手に反応し、ファティラが低く問いかける。
カリフは静かに首を横に振った。
「……大丈夫だ」
短く答えながらも、その声は普段よりも落ち着いていた。
ファティラはわずかに微笑むと、再び指を滑らせる。オイルの馥郁たる香りがふわりと立ち昇り、彼の意識をさらに遠くへと誘った。
楽師の奏でる旋律が、夜の帳に溶け込んでいく。
このぬくもりと、香りと、静寂が満ちる時間が、ずっと続けばいいのに――
……そんな願いを抱いたことに、気づかぬふりをして、カリフは目を閉じた。




