紺碧を紡ぐ⑤ 〜短くて長い冬〜
〜漁師の冬〜
頬を抜ける風が冷たく、潮風なのに乾いている。
南国の島にも、短い冬の到来を告げていた。
2人の男が海草を仕分けていた。細身のシィードは海草を一瞥して小綺麗な箱に振り分ける一方で、筋骨隆々のネトは海草を手にしては首をかしげている。
「なぁシィード、お前が選んだ海草、効果がすごいらしいな!どうやって見分けてるんだ?」
ネトが、隣でじっくりと海草を見分けているシィードに声をかける。
「海草の表面に、デコボコが多いのを選ぶんですよ。祈りの儀式を受けて海中に広がった時に、泥をよく吸着するんです。」
「へー。そんなこと、気にしたことすらなかったぜ!」
「ほら、これとか。」
そう言って選別した海草を渡す。
「一緒じゃね?他のと違いがわかんないんだけど。」
「注意して見れば、ネトさんもだんだんと違いがわかってきますよ。」
「いーや、こんなのオレにはムリだな!きっと、シィードは目がいいんだな。」
「そんなことないです。」
「そんな謙遜すんなって!すげー才能だと思うぜ?」
返事の代わりに、曖昧な笑顔で返す。
本当にそんなことはない。ただ、人よりも何倍も時間をかけて、何倍も真剣に選んできたからだ。
どうしても役に立ちたくて、せめて自分ができる海草の選別を磨くために何でもした。気難しい長老にしつこく秘訣を聞いたこともある。
そのうち、飽きて海に泳ぎに行ってしまったネトに気づくこともなく、シィードは目の前の作業に集中していた。
シィードの選別作業が終わる頃には、空はオレンジに染まり始めていた。
夕日が波に反射して光る光景は、どんなに疲れていてもシィードの胸に染み入る。だが、その美しさに心を奪われる余裕はほとんどない。
ちゃっかり海から戻ってきていたネトと一緒に彼は黙々と道具を片付け、船に積み込む。今日も完璧な仕事ができた。だが、何かが満たされない。
「おつかれ、シィード。仕分け、大変だったでしょ?」
突然耳に届いた甘い声に、シィードは振り返った。そこには、ネトの妹であるエリメントが立っていた。繊細な装飾が施されたコートをさらりと羽織り、黒髪をきっちりと編み込んだ姿はどこか洗練されている。それでいて、その唇に浮かぶ笑みは、どこか猫のようだった。
「おつかれ、エリメント。」
「おいおい、おんなじように疲れてる兄さんのほうには、なんの挨拶もなしかよ?」
シィードが返事をした瞬間、ネトが不満げに声を上げた。
「だって、兄さん別に疲れてないでしょ?海草の仕分けみたいな繊細な仕事、ネト兄さんには無理だもの。」
「失礼な!俺だってちゃんとこの時間まで残ってるだろ!」
「それで髪が濡れてるのはナニ?今日は漁なんてなかったはずだけど。」
「そ、それは、溺れてた女の子を助けたからだ!」
「へえ。でも私、ずっと見てたけど、そんな子いなかったよ。」
「見てたのかよ!相変わらず性格悪いな!」
エリメントは満足げに肩をすくめると、にっこり笑った。
「そんなことより、お母さんが今晩はムール貝とカニのシチューだって言ってたわよ。」
「よっしゃ!ありがとな、かわいい妹よ!」
ネトは嬉々としてその場を走り去り、屋敷に向かっていった。
残された二人は、ネトが消えた方角をしばらく黙って見つめていた。
「騒がしい兄さんでごめんなさいね。」
「ううん。ネトさんみたいに、作業中に話してくれる人がいると助かるよ。」
「そんな見方もあるのね。」
エリメントはその場でクルリと振り返ると、組んでいた手を背中に隠したまま、わずかに首を傾げた。
「シィード、卒業してから久しぶりだね。」
「うん、久しぶり。」
「お仕事は…ずっと漁師で続けていくつもり?」
「そうだね。でも僕は潜れないから、みんなの手伝いばっかりだけど。」
「そんなことないよ。兄さんみたいな大雑把な漁師が多いから、シィードみたいな几帳面な人が必要だと思う。」
その言葉に感謝の笑みを返しながらも、シィードは少し目を伏せた。そんな彼を横目に、エリメントは砂浜に向かって数歩進む。
「ねえ、明日は休み?」
「そうだよ。」
「それなら、一緒に遊びに行かない?前にシィードたちが学校で話してた南の入江、気になってるんだ。」
言葉の端々から、期待が伝わってくる口調だった。
シィードは小さくため息をつくと、申し訳なさそうに首を横に振った。
「ごめん。あそこは…人を連れて行きたい場所じゃないんだ。」
エリメントの表情がわずかに曇るのが見えた。それでも彼女は、どこか無邪気な笑顔を残している。
「そうなんだ。でも、そういうところもシィードらしいよね。」
そう言いながら軽く肩をすくめると、いたずらな輝きが戻った目で彼を見上げた。
「まあいいや。また今度お願いするから、気が変わったら教えてね。」
そう言ってエリメントは振り返り、手をひらひらと振りながら去っていく。その姿が見えなくなるまで、シィードはただ立ち尽くしていた。
シィードはその夜、かつてカラベルナと訪れた南の入江に、一人で足を運んだ。
月明かりに照らされた静かな波が、記憶を掘り起こすように響く。
彼は無意識に、最後にこの入江で見たカラベルナの姿を思い出す。
『私は忘れないよ』
あの時の声が、波音に紛れて蘇る。忘れられないのは自分の方だ。それなのに、カラベルナのように強く歩き出すことができない自分がいる。
「…結局、僕は何も変われない。」
ぽつりと呟いた声は波にかき消される。
だが、同時に思い出す。カラベルナが去る間際に見せた微笑み。その微笑みには、彼女の中にある強さと覚悟が確かに宿っていた。今の自分に、彼女と、隣で語り合う資格はあるのだろうか。
ひときわ大きい波が起こり、うち寄せられた海草が足元まで流れてきた。シィードはそれを手に取る。
「僕は…自分ができることを極めよう。」
静かに、そう決意を新たにする。
翌朝、頬をかすめる冷たい潮風を、シィードは昨日よりも心地よく感じていた。顔を合わした人々がその変化に気づくことはなかったが、胸に宿った小さな光が冷えた冬の海をかすかに照らしているようだった。
今日も変わらず、儀式に向けた海草を選ぶ作業。シィードの手つきは相変わらず小慣れているのだが、その目だけは初めて作業を経験する子どものようだった。
〜塩田の冬〜
冬の風が吹き抜ける塩田は、白い結晶が地平線の陽光を反射して、凍てついた美しさを湛えていた。職人の男たちが塩を耕す音が一定のリズムを刻み、冷たい空気に鋭く響いている。けれど、コフリクタにとってその音は、遠い別世界のもののようだった。
窓辺に座るコフリクタは、木枠を通して塩田の光景をぼんやりと見つめていた。少し膨らんだお腹をそっと撫でながら、冬の重たい空気を吸い込む。凛とした景色に目を奪われるはずだったが、その胸の奥には虚しさが巣食っていた。
「カラベルナ、今、どうしてるんだろう。」
ふと漏れた呟きは、暖炉の薪が弾ける音でかき消された。巫女として選ばれた妹の名前を、人前で口に出すことは避けている。神聖な存在となって家族すらも会えなくなった。それを寂しがること自体が、不敬に感じてしまうからだ。それでも、こうして誰にも聞かれない静寂の中では、カラベルナへの想いが止めどなく溢れてくる。
結婚して半年が過ぎた。我が子を産むためなら、誇りに思っていた仕事を休んでいるのも受け入れたつもりだ。
夫のアセプトは遠い親戚で、自分と同じ金髪だった。婿としてハロバクテ家に入り、ウチの塩田で働き始めた。彼は優しく、よく働く夫で、不満を持つ理由など何もない。実際、妊娠中の身体を支える彼の温かさには感謝していた。だが、いつも懐いてくれていた妹が家にいない喪失感は、どうしても埋まらなかった。
「アタシのほうが、妹離れできてなかったんだ……。」
コフリクタは呟くと同時にため息をつき、窓の外を見やる。塩田が夕日で照らされて輝き始める頃、彼女の目にはかつてカラベルナと共に過ごした日々が浮かんでいた。去年、カラベルナが作ってくれたランチを食べながら、塩田の色彩が豊かな理由を語っていたのが、何十年も前に感じる。
コンコン、とドアを叩く音で、コフリクタは現実に引き戻された。居眠りしていたらしい。窓枠の内側は、いつの間にか真っ暗になっていた。
「コフリクタ、調子はどうだい?」
夫のアセプトが皿を乗せたお盆を両手で持ち、そっと部屋に入ってきた。
「ダルさはあるけど、大丈夫よ。」
「それならよかった。お義母さんが『スープなら飲みやすいから』ってレシピを教えてくれたんだ。」
差し出されたスープには、細かく刻まれたほうれん草が浮かんでいる。彼女はレンゲで一口掬い、口に運んだ。
「しょっぱいな。」
塩の強さに少し驚いて顔をしかめると、アセプトは申し訳なさそうに笑った。
「えっ、ウソっ?お義母さんの言われた通りに作ったつもりなんだけどなぁ。」
「大丈夫よ。美味しいわ。」
すぐに取り繕った返事をする。
普通の人なら気づかないくらい、ほんの些細な違いであると思う。職業柄、塩気には人一倍敏感なコフリクタだから気になっただけだ。昔、自分はこのくらいの濃さのほうが好みだと伝えたが、健康を考えて抑えているんだと母は言われた。母は多くを語らないタイプだ。だが、何か落ち込んでいる家族がいると、晩御飯にはその人の好物を作ってくれるような人だ。
もう一口味わい、慣れ親しんだウチの塩田の味であることを確かめる。
──馴染みのある塩味と舌に残る深いミネラルの余韻で、ふと過去の記憶が甦る。あの日、母が作ってくれたスープも、悲しみに沈むコフリクタを励ますためだったのだろう。
黒髪の親友が、カラベルナと同じく巫女に選ばれた日のことだ。あの時の彼女も、カラベルナの別れ際と同じだった。自身の不安を微塵も見せることなく、逆にこちらを照らすような笑顔で巫女修行へ向かったのを覚えている。
スプーンを置いて、腰まで伸びてきた自分の金髪を撫でる。ポシドニャ族の血が流れていない自分の身近で、2人も巫女に選ばれているなんて皮肉だ。コフリクタは心の奥底で、その運命を少し恨んでいたことに気づく。
「アタシの周りで、2人もエル・メディテラネオが出るなんて……呪われてるのかな。」
不謹慎な考えが口をつく。
夫は何も言わず、そっと肩に手を置いて包み込んでくれる。
それでも、コフリクタの卑下した考えは止まらなかった。
ポシドニャ族だけでなく島民全員がその恩恵を受けるので、本来は名誉なことなのだ。それでも、『寂しい』という感情が、彼女の本心だった。
突然、お腹の中から軽い蹴りを感じた。
「今、蹴ったよ。」
コフリクタは、はっと驚いて顔を上げる。向かい合ったアセプトも、破顔している。
「本当か!?元気でよかった……。」
「アタシより、この子はよっぽど前向きに生きてるんだ……。」
胎児の動きを感じるたび、コフリクタの胸に溢れるものがあった。カラベルナ不在の寂しさを抱えながらも、これから生まれてくる新しい命に向き合わなければならない。母親や夫だけでなく、まだ生まれる前の我が子が励ましてくれているのだから。
胸に想いが色々溢れてきたが、嗚咽で言葉が出てこなかった。
アセプトは何も言わず、優しく背中をさすってくれた。
明日から、この子に話しかけてみよう。生まれた日に、人見知りされないように。
月明かりが雲間から差し込み、暖かい部屋に柔らかい光を落としていた。
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