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紺碧を紡ぐ④ 〜日常の切れ目〜

 簡素なイスと机が並べられただけの部屋に、10代後半の男女が同じ方向を向いて座っている。

 視線の先には、初老の男性が本を片手に説明していた。

「我が島に住むポシドニャ族は、大体は漁業を生業としている。だが、それとは別に、海を守るという役割も持っている。そのためには魔力が込められた、一族だけが使える道具を使う。」

 流暢だが平坦な調子で眠気を誘うその声に、何人かはすでに眠りかけていた。

「まず、リゾームと呼ばれる海草の束を持って海に入る。祈りを込めるとリゾームは海中で大きな網となり、泥や砂を捕らえて海底に沈める。

 また、ムールシェルと呼ばれる特殊な貝殻も使う。海中のミネラルや有機物をムールシェルに閉じ込めて持ち帰る。おかげで、海は透明度を保っている。ムールシェルに閉じ込めた中身は農地で放出され、農作物の栄養源となる。」


「ねえねえ。明日、またあの入江に行かない?」

 1番後ろの席のカラベルナは、隣のシィードに小声で話しかける。

「いいよ。朝8時でいい?」

「え〜、朝弱いからムリ!12時にしてよ〜」

「それじゃ、会える時間短くなるじゃん。オレ、次の日漁に出る準備があるから昼過ぎには帰るけど。」


 生徒の様子など気にもしていない教師は、変わらず授業を続けている。

「リゾームもムールシェルも、普通の海草や貝殻にエル・メディテラネオが舞の儀式で祈りを込めることで生まれる。エル・メディテラネオとは、島中のポシドニャ族の女性の中から、1人だけ選ばれる巫女である。今のエル・メディテラネオは何年も務めているほど優秀であり、」


「しょうがないなぁ、頑張って早起きするよ。」

『しょうがない』と言いつつ、どこか嬉しそうな顔をするカラベルナ。

「よし、決まりだね。じゃあ8時に集合で!」

彼女の気持ちが変わらないうちに、すぐに約束の時間を確定させようとするシィード。

 クラスの中でも数少ないポシドニャ族の血が流れる2人は、次に2人きりで会う約束で頭がいっぱいで、自分たちのルーツや役割など耳に入ることはなかった。





 それから数週間後、島中を揺るがす知らせが入った――新しいエル・メディテラネオが選ばれたというのだ。


 その日、舞の儀式が開かれる砂浜には、島中の人々が集まっていた。普段は穏やかな波音と肌色一色の砂が広がる場所が、今日は異様なほどの熱気と色彩に包まれていた。ポシドニャ族特有の黒髪、他の部族のカラフルな髪や衣装が目に鮮やかに映り、それぞれの声が入り混じって波に飲まれていく。


 先代のエル・メディテラネオが姿を現すと、ざわつく群衆は一瞬にして静まり返った。彼女は18歳で選ばれて以来、何年にもわたり儀式を司ってきた象徴のような存在だ。ウェーブのかかった長い黒髪と日差しをあまり知らぬ白い肌――その肌には微かな皺が刻まれ、十年という重みを語っている。舞の修行で鍛え上げられた筋肉と整った輪郭は、気品と威厳に満ちていた。


 彼女がゆっくりと足を進め、群衆の中央に立つ。その静けさの中で、ただ波の音だけが鼓動のように響いた。そして彼女は、厳かに宣言する。


「海の精霊の名の下に告げる――カラベルナ・ハロバクテ。彼女を次期エル・メディテラネオに任命する!」


 一瞬、時間が止まったかのようだった。だが、すぐにその静寂は破られ、砂浜に驚きと戸惑いの声が広がっていく。


「なぜ彼女が…?」「ハロバクテの血が混ざっているんだぞ!」

「エル・メディテラネオは、純粋なポシドニャ族の中から選ばれるべきだ!」

 その言葉は次々に波のように押し寄せ、砂浜に響き渡る。しかし同時に、彼女を支持する声もまた力強く上がった。

「選ぶのは海の精霊だ。人間が口を挟むことではない!」

「きっと彼女には、選ばれるだけの理由があるはずだ。」


 人々の思惑や感情が入り乱れる中、シィードは息を呑んで隣に立つ彼女を見つめる。カラベルナの表情は、いつものように明るく軽やかなものではない代わりに、その瞳には何か強い光が宿っていた。だが、その光の意味はシィードにはわからなかった。


「カラベルナ…」シィードは思わず彼女の名を呟くが、その声は喧騒にかき消されていく。


 カラベルナは周囲の視線を浴びつつも、ただ立ち尽くしていた。喧騒が巻き起こっても、彼女は一歩も動かない。その姿勢は、波に砕かれても崩れない岩のように揺るぎなかった。だがその内心では、胸の奥で燃えるような熱と、冷たい海風が吹き抜けるような孤独がせめぎ合っていた。



 その夜、初めて二人きりで話した入江にシィードは立っていた。月明かりに照らされた静かな波が、まるで心を揺らすように足元で音を立てている。空は雲ひとつなく、満天の星が輝いていた。海面に映る月の光が揺れ、その帯が彼の胸に切なさを残していた。


 カラベルナは、遅れてやってくるいつもとは違い、既にそこにいた。彼女のシルエットが波打ち際の岩場に浮かび上がり、長い栗色の髪が夜風にそよぐたびに、月光を受けてまるで輝いているかのようだった。


 シィードは息を飲むように見惚れていた。そんな彼に気づいたカラベルナは、何も言わずに近づいてきた。その足取りは静かで、まるでこの瞬間を壊さないように慎重だった。


「ごめんね、シィード。」

 そう告げた彼女の声は、普段の陽気な調子ではなく、どこか遠く響く波の音のようだった。

「しばらく会えなくなる。」


 シィードの胸が大きく締め付けられるような感覚に襲われる。月明かりに照らされる彼女の表情は優しく、それが余計に心を掻き立てた。


「そんな…まだ、ちゃんと伝えていないのに。」


 彼の声は、内側から溢れ出る何かを押し殺すように震えていた。これから一緒に過ごしたかった気持ちも、彼女への純真な想いも、言葉にするのが怖かった。

 だが、カラベルナは何も問い返さない。ただ静かに、けれど力強く微笑んだ。その笑顔には、別れを受け入れる強さと、それでも心に何かを秘めた儚さが同居していた。


 彼女の長い栗色の髪が風に揺れるたび、シィードは意を決して口を開く。けれど言葉は何も出てこない。これから彼女が背負う重責を少しでも和らいであげたいと思う反面、心の中は彼女と離れることへの恐れにとりつかれていた。胸の中で渦巻く感情をどう表現していいのかわからないまま、ただその場に立ち尽くすしかできなかった。


「私は忘れないよ。またね。」

 その言葉は砂浜に到達した波のように、柔らかく泡となって溶けていく。


 月明かりの下、カラベルナはそっと身を翻し、波打ち際から離れていく。彼女の足跡が砂に刻まれ、それが夜の波にさらわれる様をシィードは茫然と見つめていた。その背中は小さくなりながらも、どこか揺るぎない決意を帯びているように見えた。


 風が冷たく頬を撫で、波の音が静かに響く。その全てが、今の彼には痛いほど鮮明に感じられる。


 カラベルナの影が見えなくなった頃、シィードはようやく口を開いた。けれど、彼女にはもう届かない。


「忘れるわけないだろ…。」


 呟きながら握りしめた拳は震えていた。彼女が残した言葉と、最後に見た栗色の髪を揺らす後ろ姿だけが頭の中で繰り返し浮かんでいた。


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