紺碧を紡ぐ③ 〜入江に瞬く星明かり〜
モデルの入江:Cala d'en Serra(スペインのイビサ島)
シィードはいつものように荷下ろしや道具の整理を終えると、喧騒を離れるように入江へと向かった。島の南端にひっそりと隠れたその場所は、まるで時が止まったかのように静かだった。
緑の草原にぽっかりと開いた窪地は、巨大なサメがそのまま陸地に食らいついたかのように鋭く抉られている。三方を囲む崖は岩肌が露出し、年月に磨かれた縦の筋が幾重にも刻まれていた。海風と潮騒に削られたその表面は、まるで大自然の彫刻のように荘厳だった。
崖下には緩やかに弧を描く砂浜が広がり、夕陽を浴びた砂粒が細かなガラス片のように輝いている。波打ち際には、穏やかな波が何度も寄せては返し、その音は心の奥底まで染み渡るほどに静かだった。
入江に満ちる海水は驚くほど透明で、外側に向かうにつれてその色は美しい層をなして変わっていく。手前の浅瀬はエメラルドグリーンに輝き、その先は深いインディゴブルー、さらに外界へと続く水面はスカイブルーに染まり、遠くには陽炎のようにゆらめく別の島影が浮かんでいる。
今夜は島中が大漁祭りで賑わっているからこそ、ここは一層静かだった。シィードは足元の砂を踏みしめながら、ゆっくりと波打ち際へと降りていった。その時、不意に視界に飛び込んできたのは、少し離れた岩場にぽつんと座る人影だった。
夕陽に照らされたその人は、長い栗色の髪を風に遊ばせ、琥珀のような輝きを放っていた。初めは誰か分からなかったが、よく見ればそれは同級生のカラベルナだった。彼女の傍らには、学校ではいつも被っている黒い毛糸の帽子が無造作に置かれている。
シィードは思わず足を止め、その姿に見惚れてしまった。学校ではいつも明るく元気なカラベルナが、今は別人のように儚い存在に見える。まるで入江の一部のように溶け込んでいて、一枚の絵画のようだった。
波の音だけが静かに響き、普段の漁や学校とは切り離された時間が流れていた。シィードは迷いを振り払うように少しだけ息を整え、ゆっくりと声をかけた。
「やぁ、カラベルナ。君が帽子を外しているの、初めて見たよ。」
カラベルナは驚いたように顔を上げ、シィードを見つめた。その目には一瞬怯えたような色が浮かんだが、すぐに笑顔を作った。
「たまにはね。風が気持ちいいんだもの。」
その笑顔は、どこかぎこちなく、普段の彼女とは違う――儚げな美しさを湛えていた。シィードは戸惑いながらも、彼女の隣に腰を下ろし、波の向こうに目をやる。
「その髪、とても不思議で綺麗な色だね。どうしていつも学校では隠しているの?」
カラベルナは風に揺れる髪を無言で指に絡め、少しだけ俯いた。静寂が2人の間を包む。
「…それ、褒めてくれてるの?」
「もちろんだよ。とても綺麗だと思う。」
シィードが真剣にそう言うと、カラベルナの頬がかすかに赤く染まった。しかし彼女は再び海へと目を向け、少しだけ声を落とした。
「アタシね、ポシドニャ族とのハーフなの。」
彼女はそれだけ告げると、海を見守る。
「そうだったんだ。」
それ以上続ける言葉が見つからずに、シィードは黙ってしまう。ポシドニャ族にとって、自分達の黒髪は誇りのひとつであることを、彼もよく知っているからだ。
「この髪のせいで嫌われることも多いんだ。『ポシドニャ族の誇りを穢している』って言われたりさ。」
シィードは驚きながらも、彼女の言葉の裏に潜む痛みを感じ取った。
「…僕も似たようなものだよ。体が弱くて海に潜れないせいで、自分がこの一族に必要なのか分からなくなることがある。」
カラベルナは少しだけ笑い、皮肉っぽく呟いた。
「ふ〜ん。ポシドニャ族らしい真っ黒な髪なのに、そんな悩みがあるんだね。」
「髪の色なんて関係ないさ!この島の海がキレイなのは、ポシドニャ族だけが使える魔法道具で浄化しているからだ。だから、ポシドニャの男は海に潜れるかどうか、それが全てだ。」
「ポシドニャ族って、考えが古いよね。海に潜るだけが全てじゃない。陸に上がって酒を飲んで騒ぐだけの人たちより、いつも黙々と荷物を運搬してるシィードのほうがずっとカッコいいと思うよ。」
「えっ。」
『カッコいい』という言葉だけが、シィードの耳の中で反響した。
「見ててくれたんだ。」
「そりゃね。漁が島の人にとって一番の恵みだから、アタシもちゃんと出迎えに行ってるもの。今日はサボっちゃったけどね。」
静かな海、夜の潮風、そして2人だけの時間――。
「でも、『髪色なんて関係ない』って、それ、アタシのために言ってくれた?」
「も、もちろん!」
シィードの慌てた声色で、さっきの髪色に関する言葉は自虐であり、カラベルナに向けたわけではないというのはばれてしまっているだろう。だが、カラベルナはふっと笑みを漏らした。
「…嬉しいな。」
星が瞬き始めても、入江は静かさに包まれたままだった。潮が満ちる音が遠く聞こえ、波が砂浜を柔らかく撫でるように寄せては返す。その音がまるで、2人の語りを優しく包み込んでいるようだった。
2人は崖下の小さな岩場に並んで座っていた。カラベルナは星空を見上げたまま、話し始めた。
「ねえ、漁師の仕事って何が好き?」
シィードは考え込んでから、ポツリと答えた。
「《リゾーム》にするための、海草の選別かな。」
「それって、海をキレイにする魔法道具のこと?」
「そうだよ。儀式で魔力を宿すんだけど、効果は元の海草で大きく変わるからね。」
「ふ〜ん、そんなお仕事もあるんだ。」
「地味でめんどくさいってミンナはよく言うけど……僕は意外と好きなんだ。」
シィードがぼそっと口にすると、カラベルナは驚いたように目を見開き、すぐに笑みを浮かべた。
「それってシィードらしいね。几帳面に、一つ一つの海草の模様とか見てそう。」
「……なんでわかったの?」
「う〜ん、なんとなく?」
シィードが照れ臭そうに頭を掻くと、カラベルナは風に揺れる髪を抑えながら続けた。
「アタシには姉さんがいるんだ。母親は違うんだけどね。」
シィードは彼女の横顔を見つめ、少し意外そうな表情を浮かべた。
「でも……すごく尊敬してる。姉さんは、強くて優しい人だから。アタシも将来、同じ塩田職人になりたいんだ。」
「そうだったんだ。カラベルナ、お姉さんのことなんて一度も話したことなかったから。」
「だって……こんな髪の色のせいで、家族のことを話すのも怖かったんだよ。ポシドニャ族は混血を嫌がる人も多いし。」
その言葉に、シィードはそっと海の方へ視線を落とす。広がる夜の海は、星空を映す鏡のように、静かに光を湛えていた。
「……僕も、ポシドニャ族なのに海に潜れない自分が恥ずかしかったから、誰にも言えなかったんだ。」
2人の声は波音に溶けていき、それでも確かに互いの耳に届いていた。
非日常的な空間がそうさせるのか、気づけば家族にも話せなかった心の奥底に沈めていた想いを吐き出していた。その後は、堰を切ったように言葉が次々と溢れ出した。学校の同級生への好き嫌いや、誰にも話せなかった小さな悩み、くだらない手遊びのクセまで。今まで学校での会話量を超えるほど、一夜で言葉を交わしていた。
「ほら、あそこの崖……あれ、昔登ろうとして落ちかけたんだよ。」
「何してるのよ、それ!アタシがそこにいたら笑い転げてたわ。」
「笑い事じゃないって……ほんとに死ぬかと思ったんだから。」
「でも今、生きてるじゃん。」
カラベルナがあっけらかんと笑うと、シィードもつられて笑い声を上げた。その笑い声は夜の入江にふわりと舞い上がり、星空へと吸い込まれていくようだった。
見上げれば、頭上には無数の星々が広がり、空の青さはいつの間にか海よりも濃くなっていた。星の光は2人を見守るように瞬き、入江の穏やかな波間にも淡く映っていた。
「なんか、夜の海って……空と繋がってるみたいだね。」
シィードが呟くと、カラベルナも星空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「うん。どっちも広くて、どこまでも続いてる感じ。」
それぞれが抱えていた孤独や迷いは、まるでこの星明かりに照らされて少しずつ薄れていくようだった。
静かな波音と星空だけが、2人の心が溶け合っていくのを見守っていた。




