紺碧を紡ぐ② 〜色めく塩田、析出する想い〜
太陽が容赦なく照りつける真昼の塩田は、白百合が平野を覆い尽くしたかのように真っ白な結晶が広がり、眩い光を反射していた。しかし、視線を引き寄せたのは析出した白い塩そのものではなく、緑や赤、桃色が水面に広がる異世界のような光景だった。静かにたたずむ塩田の風景でありながら、塩田の池ごとに異なる色彩は太陽の光を受けて刻一刻とその表情を変える。
緑の池は、湖畔の草が水底に静かに揺れるような穏やかさを湛え、赤い池面は秋の紅葉が風に舞い散るように鮮烈だった。池ごとに濃さの違う深緑や紅の池は、見えない命たちの活動が表現する、一種の祝祭のようにも見える。
一方で、奥に広がる桃炎色の池は、生物の存在を拒むかのような妖しい輝きを放っていた。滑らかで絹のような光沢と、ざらついた毒のような危うさを併せ持つその池は、現実感を失わせるほどの不思議な魅力を漂わせている。それは、自然の枠を超えた異形の風景として、遠目にも目を奪う存在だった。
ひときわ濃い桃炎色の池の中で、長い金髪をうなじ辺りで縛っている女性が物怖じすることもなく作業をしていた。名はコフリクタ。彼女は慣れた手つきで木製の櫂を使い、塩水をゆっくりと攪拌する。遠くの塩田では何人もの男が作業をしていたが、この塩田には彼女は1人だけだった。塩作りの仕上げに関しては、この塩田経営者である直系の一族が担うことが生業だった。彼女はまだ20代後半だったが、その熱心さゆえに重責を任されていた。
池の表面がかすかに波立ち、柔らかく混ぜ合わせることで、色味の異なる境界線をぼかしていく。その動きには無駄がなく、職人として積み重ねた経験が一つひとつの所作に刻まれていた。櫂を動かすたび、池面に細かく揺れる光と影が生まれ、塩水はかすかな音を立てて混ざり合う。静かでありながら、何かが確かに動き、変化し続ける――それはまるで、塩田そのものが息をし、生きているかのようだった。
遠くから少女の声が響き、コフリクタは作業を止めて顔を上げた。額の汗を腕で拭いながら振り向くと、栗色の髪を一つに束ねたカラベルナが籠を抱えて小走りで近づいてくる。その笑顔は日差しにも負けない輝きを放ち、この白い塩田の風景の中でひと際目立っていた。
「今日もお仕事おつかれさま!」
そう言って、カラベルナは歳の離れた姉に勢いよく抱きついた。
「まったく、汗だくだから近づかない方がいいって言ってるのに。」
言葉では苦笑してみせるものの、コフリクタの目には妹の無邪気な姿が微笑ましく映る。
「じゃーん!」
カラベルナが籠から取り出した包みを広げると、薄く桃色に染まったおにぎりが深緑のノリで包まれていた。他には、塩漬けの魚と、塩レモンの漬物が並んでいた。
「今日のお昼はこれ!全部、塩田の塩を使った特製料理だよ!」
「豪勢だな。よく一人でこんなに作ったな。」
「えっへん!朝から頑張ったんだから!」
得意げなカラベルナの表情に、コフリクタはつい頬を緩める。彼女の無邪気さと真っ直ぐさが、少し羨ましくもある。
『シオンダは元気にしているだろうか。』
18歳になり、最近ますます海の香りを纏うようになった妹を見て、年に一度しか会えなくなった親友の昔の面影とダブらせてしまう。――ふと、コフリクタは可憐な女性への昔からの憧れに気づき、小さくため息をつく。
「姉さん、どうしたの?アタシの顔にレモンでもくっついてた?」
「いや、なんでもない。大丈夫、キレイな顔のままさ。」
「よかった!レモンなんて付いてたら、また兄さんにバカにされちゃうもん。ねえ、一緒に食べよ。」
「ああ、そうだな。」
コフリクタは金髪を縛っている紐を無造作に外す。それを見たカラベルナは、自分も倣って栗色の髪を解放する。
2人は並んで塩田を見下ろしながら食事を始めた。
周囲は静かで、時折カモメの声が遠くから聞こえるだけだ。潮風が吹くと、艶やかな栗色と、塩気でパサついた金色が揃って左に流される。
「ねぇ、姉さん。」
「ん?」
「いつも思ってたけど、この塩田のピンクって海とは全然違う色でキレイだね。」
カラベルナの素朴な疑問に、コフリクタは少し驚きつつも、口元に笑みを浮かべた。
「……きれいだと思うか?」
「思うよ。だって、『塩田』なのに白くなくて、ピンクや赤や緑の色がついてるじゃん。なんだか魔法みたいだよね。」
「魔法、か。」
「今日はちょっと、塩田の勉強をしに来たんだ。塩田がこんなにきれいな秘密を教えてもらえないかな?」
カラベルナの問いに、コフリクタは櫂を指差して答えた。
「秘密は、職人の手間と、自然の力だ。塩田は、蒸発具合や中で生きている生物によって色が変わるから。」
「へ〜。姉さんが作業してた池は、なんでそんなに濃いピンク色になの?」
「このピンク色は、ドナリエラ・サリナっていう微細藻類が塩分濃度の高い池で繁殖して、カロテノイドっていう色素を出してるんだ。それに、ハロバクテリアが合わさると、こんな濃いピンクになるんだよ。」
コフリクタは少し誇らしげに言った。その横顔に、カラベルナは憧れを滲ませたまま、まっすぐ見つめる。
「なるほど!秘密はドナリエラとハロバクテリアの黄金コンビなんだね!」
カラベルナが目を輝かせて言うのを見て、コフリクタは誇らしげに微笑む。
「あっちの緑の池は?」
「塩分濃度がまだ低い池だ。緑藻が生息してるんだよ。」
「こっちのピンクの池とは、雰囲気が全然違うよね。」
「塩分濃度が上がると、ほとんどの生物は姿を消してしまう。――このピンク色は、そんな過酷な環境を示す証拠なんだ。」
「色が違うのは、住んでる生き物が違うんだね。でも、ピンクの濃さも全部バラバラなのはなんで?」
「池ごとに塩分濃度を高めていくんだ。最初は薄い色だけど、蒸発が進むにつれて濃いピンクや白に変わる。それは、微生物たちが濃度に応じて変化するからなんだ。」
「え!?『海水入れて、その塩田を乾かして、はい完成』じゃないんだ!?」
「そんな単純なら、『職人』なんて必要ないさ。」
「じゃあ姉さんがいないと、塩田の塩は全部ダメになっちゃうってことだね!」
「いや、ウチには他にもイイ職人がいるから、そんなことないさ。」
口では否定しているが、妹の素直な賞賛の言葉責めにコフリクタの口元は籠絡されてしまっていた。
「蒸発するにつれて水が抜け、塩が結晶になる。そして、陽の光や風がその速度を決めるんだ。だから、アタシたちは天気を読み、風を感じながら動く。塩田は、生き物みたいなものだな。」
「……すごいね、塩作りがこんなに奥が深いなんて!」
カラベルナの瞳が輝く。彼女はまるで新しい宝物を見つけた子供のように、無邪気な声で感想を述べる。
「職人さんて、どんなことしてるの?」
「まずは、池の水位調整だな。これによって、蒸発の様子が全然変わるからな。」
「水の高さなんて、人の手で変えられるの?」
「そのためには、木製の水門を手で開けたり閉じたりして、池の水の流れを調整するんだ。職人が毎日天気を見ながら、水をどこまで流すか決めるんだよ。」
「だからみんな天気の話を毎日しているんだね!」
「そうさ、天気の予測が塩田の生命線だからね。アソコの白い池は、もう塩が析出しているだろ?あれは自然の力で蒸発が進んで、水分がほとんど抜けた証拠だ。最後に、あの結晶を木の櫂で丁寧に集めていくんだ。ほら、ちょうどウチらの叔父さんが立ってるとこ!」
コフリクタが指差した先には、一族らしい金髪を短く刈り込んだ筋肉質な男性が、周りに指示を出して結晶化した塩を集めさせてるところだった。
「ホントだ、おいしいとこどりが好きな叔父さんにピッタリだね!」
「いや、まぁな。」
妹の鋭いツッコミのほうに共感してしまい、ちゃんと必要な工程だとおじさんのフォローを忘れてしまった。
カラベルナは少し声を落とし、真剣な眼差しでコフリクタを見つめた。
「アタシも、姉さんみたいに塩田を守れる人になれるかな。来年、学校を卒業したら、弟子入りしてもいい?」
その瞳には、まっすぐな憧れが宿っている。
コフリクタは一瞬言葉を探したが、視線をそらし、静かに答えた。
「お前にはお前の道があるさ。」
さっきまで塩田について意気揚々と説明していた時とは違う、冷ややかな響きだった。
「でも……」
カラベルナが何かを言いかけたが、その言葉は空気に溶けた。
コフリクタはそれに気づかないふりをして、立ち上がる。
「さて、午後も仕事だ。お前は帰って、勉強でもしてな。」
「うん、わかった。」
彼女の声はどこか寂しげだったが、すぐに笑顔で包み込んだ。
「夜、いつもの砂浜でね!」
全力で手を振るカラベルナに、コフリクタは小さく胸の前で振り返すだけだった。
塩田の中で再び訪れた静けさの中で、一人になったコフリクタは、自分の手をじっと見つめていた。
ひび割れた掌は、塩の結晶にまみれて白く乾き、指には硬い豆がいくつも刻まれている。
「……あの子は何も分かってない。」
塩田を守ることが、どれだけ重い責任か。どれだけの汗と犠牲を伴うかも。低く呟いた声は、潮風に流されていく。
彼女が自分に憧れてくれていることは、嬉しかった。だが、同時に、もっと女の子らしい人生を歩んでほしいとも思う。それに、彼女の生い立ちゆえ、この家で塩田を継ぐことがどれほど過酷な道になるのかは、容易に想像できた。
コフリクタは、迷いを振り払うように木の櫂を手に取り、池の水面を均し始めた。力を込めて、ただ黙々と。
夕陽は海と空を結び、燃えるような橙色に砂浜を染め上げていた。柔らかな光が波打ち際に輝きを与え、寄せては返す波は黄金色に縁取られた白い泡を残していく。遠くの雲は薄紅に染まり、絵筆で撫でたように空へ広がっていた。
波打ち際に立つコフリクタは、夕陽に照らされ、一層際立っていた。潮風が彼女の髪を揺らし、橙色の光が肌に淡い輝きを与える。その姿は、この壮大な景色に溶け込みながらも、確かな存在感を放っている。目を閉じた彼女は深く息を吸い込み、静かに歌い始めた。
その歌声は透明で澄みわたり、風に乗って砂浜を撫で、海へと溶けていく。太陽が水面に映す光の道を揺らめかせ、歌声は波の音と調和しながら、時間が静かに滲むように流れていた。
少し離れた場所では、カラベルナが手足を軽やかに動かし、踊っていた。ぎこちなさを感じさせる踊りだが、その笑顔は夕陽のように明るく、心からの楽しさに満ちていた。足元の砂に残る足跡は、すぐに波にさらわれ、消えていく。それでも彼女の存在は、消えることなく、この瞬間に鮮やかに刻まれているようだった。
歌と踊りが一つになり、太陽はゆっくりと海の向こうへと沈んでいく。最後の光が水面を染める頃、波の音は次第に静かに、優しく2人を包み込んだ。
コフリクタは歌を止め、こちらに駆けてくるカラベルナに視線を向ける。橙と金の光に包まれた妹の姿は、世界に溶け込みながら、それでも鮮やかに浮かび上がっていた。風に揺れる髪、潮風に運ばれる笑い声――その姿は、どこまでも自由で、果てしない海から生まれた精霊のように美しかった。
コフリクタは、今度は夜の静けさを讃える曲を歌い始める。両手で抱きしめた妹の笑顔が、これからも守られるように願いを込めて。
conflict:矛盾、対立




