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紺碧を紡ぐ① 〜黒髪と海草〜

モデルの島:イビサ島 (スペイン)

 朝日が静かに海を染め始めるころ、穏やかな沖合に船は浮かんでいた。海水は透き通り、海底の砂模様がそのまま覗けるほどだった。その透明度は、まるで空中に浮かぶ船のようだ。

 広大な紺碧の海が、静かに波を立てながらどこまでも続いている。水面は光を受けて宝石が散りばめられたようにきらめき、風が吹くたびに色が微妙に変化する。空も雲ひとつない快晴であり、船の前方から見る視界には、青のグラデーションだけが広がっていた。

 船の後方、遠くには白い砂浜が広がり、緑豊かな丘陵地がその背後を彩っていた。砂浜の透き通った水は浅瀬を光の絨毯のように見せ、小さな波が絶え間なく打ち寄せていた。波の音は静かで、時間が止まったように感じられる。


 船の甲板には、一様に黒髪をしたポシドニャ族の男たちが立っている。各々網と道具を抱えながら、海面を鋭い目で見つめている。漁の準備が進む中、比較的線の細い青年シィードは船の端に腰掛けていた。『黒髪』といってもその多くは焦茶色に近いポシドニャ族の中でも、潮風に揺れる彼の髪は漆黒だった。少しでも目立たなくしようと、広がりやすい癖っ毛を撫でつける。


「よう、シィード。」

 短く刈り込まれた黒髪に、筋骨隆々な太い腕の青年が声をかけてきた

「なぁ、今日はガジョ・サン・ペドロが食べたいなぁ。」

彼が言ったのは、鯛の一種だ。水産資源が豊富なこの辺りでも、なかなか獲れない。

「ネトさん、いつもそれ言ってるじゃないですか。」

「ウマイもんは、何回喰ってもいいモンだろ?」

「それは間違いないです。」


「行くぞ!」

 長老格の男が声を上げると、漁の開始を告げる鐘が甲板で鳴り響く。網が次々と投げ込まれ、男たちは力強く引き上げていった。ムール貝や小魚が水面から姿を現すたびに、甲板がざわつき、歓声が上がる。

 シィードも網を支え、収穫物を丁寧に回収していく。彼の手は慣れたもので、必要なものと不要なものを手早く仕分けていく。



 漁がひと通り終わると、男たちは次の準備に取りかかる。先ほどまでは海の恵みを享受する時間だったが、今度は海を守る時間だ。


「シィード、《リゾーム》を頼む。」

「エスタ・ビエン」

 少し眉間に皺を寄せたネトから声をかけられ、漁師の仲間内では『了解』の意味を持つ定型文だけを返す。シィードは海草である《リゾーム》を紐で器用に結び、一掴みの束にして差し出した。


 男たちが次々と《リゾーム》を握りしめて海に飛び込んでいった。海面が泡立ち、瞬間だけ白い飛沫が舞う。男たちは海中で直立し、両手を握って祈りを込める。手のひらを広げると、海中で《リゾーム》は細い帯のように太くなり、網目状に広がっていった。ゆっくりと沈みながら、周りの細かい砂を絡め取っていく。その様子を横から見ると、まるで透明な絵筆で海底に清めの線を引いているようだった。《リゾーム》が泥や砂を巻き込むことで生まれる『透明度の境界線』は、ゆっくりと海底まで沈んでいく。




 シィードは船の上でそれを見送るだけだった。


 シィードは昔から肺が弱かった。漁で潜ることを許される15才になった時、それでもポシドニャ族の男として役に立ちたいと無理をして潜った。海中で突然気を失ってしまったのを、先ほども会話をしていたネトに助けられたのだ。それ以来、ネトはシィードを気にかけてくれて声をかけてくれるし、人見知りなシィードも心を開く数少ない人物だった。


 船の揺れに身を任せながら、シィードは手元の《リゾーム》を見つめた。湿った海草の束から伝わるひんやりとした感触が、どうしようもないやるせなさを感じさせる。『これが、僕にできるすべてなのか?』心の中の問いは、海風に溶けて消えた。

 男たちが海中で働く間、彼は船の上で道具を整理したり、次の準備をするだけだ。それが役立っていることはわかっているはずなのに、どうしても自分の存在が小さく感じられてしまう。病弱で潜ることができない自分を誰も非難しないが、周囲の無言の受容がかえって胸を締めつける。




 やがて、男たちが次々と海面に顔を出した。彼らは甲板には上がらず手だけを伸ばすと、シィードは船べりから顔を出して、表裏が白黒になった大きな楕円形の貝殻を渡す。《ムールシェル》と呼ばれるその貝殻を受け取った者から、深呼吸をひとつだけしてすぐに海へ沈んでいく。


 船上に戻された《ムールシェル》は、濡れた表面が朝日の光を受けてきらめく。白と青、そして金色の斑点が交じり合い、その模様はまるで海を貝殻に閉じ込めたようだった。

 海中に目をやると、《リゾーム》の網に捕らえられて泥が沈んでいた海が、ますます澄んでいた。

「シィード、《ムールシェル》をしまっておいてくれ。」

「エスタ・ビエン」

 濡れた《ムールシェル》を差し出され、シィードは受け取った。手の中にあるそれは、自分の影を強調するように、海中から顔を出した時と変わらずに光り輝いていた。


 《リゾーム》を海中で大きく広がると、砂粒や汚れを絡め取って海底に沈めることで、海の濁りを取り除く。《ムールシェル》を海中で開くと、半径数十メートルのミネラル分を吸収し、海の生態系を整える。ポシドニャ族だけが使用できる不思議な道具によって、島の近海では美しく透き通る海が維持されていた。




 船が港に戻る頃には、漁が成功した喜びの声があちこちから聞こえて、酒盛りを始める者までいた。だがシィードは深いため息を一つだけつくと、荷物を下ろす作業を黙々と続ける。

 ふと見上げた空には、いつの間にか雲が広がり始めていた。その動きは遅く、どこか重たく感じられた。潮風はまだ彼の頬を撫でていたが、その心の奥底には、どこか取り残された影が漂っていた。


ポシドニア:イビサ島に多く生息する海草。泥と砂の沈降やミネラルの吸収で海の透明度を保ち、波や潮の緩和で、白い砂浜を守る。

seed:種。(ポシドニアは海藻ではなく、種子植物の海草)

rhizome:地下の浅い所に横方向に伸びる根茎

Está bien:スペイン語で「了解」


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