月に望んだ一夜
蒼黒の虚空に浮かぶ、月白の円環
夕焼けが沈んでからずっと幕を下ろしたままだった舞台に、雲に隠れていた月が姿を表し始めた。第二幕の主人公が登場すると、漏れ出たスポットライトの光で地上の脇役たちに再び色彩を与える。
無数に地面から伸びる棒の群れ。彼らが整列した柔らかな草むらは、まるで楽譜に並ぶ八分音符のように、顔は一斉に同じ方を向いているものの、それぞれのリズムで風に揺られている。月光がその戯れを映し出す。
どこまでも続くような平野は、空の淡い黒と地上の重い黒しかない。時折、地平線の上を凸凹と墨で縁取られている。遠くに見える、家屋の輪郭だった。
そのあとは足音と言う水滴だけが、畦道に沿って規則的に落ちる音の世界。
ボクは1人で秋の夜道を歩いていた。
初めて自分で見る夜の世界。暗闇の中に見える、たくさんの黒色。
昼間のくっきりと見えた色彩豊かな景色も好きだが、うっすらと見える何かからその正体を考える夜の今も楽しい。
宛もない散歩だが、気づいたら歩いていたままの進路に従うことにする。
チーーン、チーーン
遠くから規則的に響く澄んだ金属音で、考え事から再び現実の夜道に意識が戻る。
音のする方に導かれるように近づいていくと、大きなシルクハットを被った英国紳士風の男が見えてきた。
夜目でもはっきりと目立つ真っ白なハットに、真っ白なスーツを全身に着込んでいて、月明かりに照らされて、光源と同じ色に染まっていた。
涼しげな夜空の下でトライアングルを奏でる。そのクリアで繊細な音は、まるで星々に語りかけるようだ。
ボクはお互いの顔が見え始める距離まで近づくと立ち止まり、ただ、その音に聞き入っていた。
だが、だんだんこの不思議な紳士のことに興味が湧いてきたので、勇気を出してもう少し近づくことにした。
「こんにちは」
返事がわりに、紳士は無表情だった顔の口元と目元を少し緩ませて笑顔返してきた。
「夜は寒くなってきましたね。」
話しを振ってみても、紳士はまた、にっこりと微笑むだけだった。
「こんな夜に、どうしてトライアングルを鳴らしているんですか。」
音色が少しリズミカルに変わった。ただ、音楽の素養がないボクは、その“言葉”を読み取ることができない。
「演奏会が近いんですか?」
うなずくことも、首を振ることもなく、ただ同じ微笑みを返してくる。
「あの、何か話してもらえませんか。」
彼はそれにも応える事はなく、ボクに背を向けて歩き始めた。ボクも意地になって、紳士と歩幅を合わせながらただついていく。
どれだけ歩いただろうか。さっきまでは見渡してもススキが散らばっているだけだったのに、今は目の前に黒い要塞が現れていた。
それは森のようだった。紳士は、平坦な道と同じ速度で、その森へ入っていく。ボクも無意識にその後を追い、森の中へと足を進める。
月明かりが木々の間から漏れ、暗い森の中でも全身白装束の彼の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。
ボクの隣に樹木が並ぶ頃には、紳士の姿も、トライアングルの音も聞こえなくなっていた。月明かりのおかげでうっすらと見える森の隙間を、耳に残る余韻だけをBGMにして歩いていく。
さすがに、独りで心細くなってきた頃、森の奥から、軽やかで滑らかな音が響いてくる。明らかにトライアングルではない、もっと優しく、包みこまれるような音。それ以外に、何の手がかりもないが、これ以上森の奥に行くのも不安だ。だが、ボクの足はその音に導かれるように歩みを止めなかった。
少し開けた場所に到着して見えてきたのは、紳士ではなく、女性の姿だった。彼女の腰ほどの高さに置かれた横長に広がっているテーブルのようなものを、両手に持った棒で規則的に叩いている。
狸顔のその女性は、自然と調和するように優雅に木琴を奏でていた。
「こんにちは」と声をかけると、彼女は音を止め、柔らかな笑顔を向けた。
「ようこそ、私たちの森へ。」
彼女は誰かさんと違って、一旦手で刻む音を止めて、自分の声で音を返してくれた。
「今日は特別な演奏会。楽しんでいって。」
「それは木琴ですか?」
「マリンバよ、見た目は似てるけど、音はそんなことないの。」
そう言うと、彼女は一音一音聴こえるように、右手だけでゆっくりと音階を上げながら鳴らす。
「たしかに、ボクが知ってる木琴の音より柔らかくて包まれるようですね。」
「そうなの!違いを感じてくれて嬉しいわ。私も初めて弾けるようになった時、感動したもの。」
彼女の声はまるで、マリンバの音と一体になっているかのように心地よかった。「夜は長いわ、みんなも喜ぶから朝まで楽しんで」と言い残し、彼女は再び演奏を再開した。
彼女の演奏を後にして、ボクは再び森の奥へ進む。なぜか心が落ち着いていくのを感じた。ボクは歩きながら、自分の足音がマリンバの軽快なリズムに合わせていることに気づく。
彼女の姿が見えなくなっても、ボクの背中を見守るようにマリンバの音が変わらず鳴り響いていた。紳士を見失ってから心細くなっていたボクの足音も、今はポンポンポンと軽やかに鳴っていた。
突然、ピンと張りつめた鋭い音が他の音をかき消す。ボクは驚いて立ち止まり、音の方を振り返る。そこには、派手な服をまとった若い男が、自信満々にバイオリンをかき鳴らしていた。音は高く、力強く、そしてどこか攻撃的だった。
一小節終わってバイオリンから弦を離したタイミングを見計らって、声をかける。
「すいません、少し音を下げてもらえませんか?」
「何だよ、オマエもオレがヘタだって言いたいのか?」
彼は挑発的に笑った。
「いえ、そういう意味ではなくて、情熱的ですごく素敵だと思います!」
『オマエも』って、過去にも同じようなことを言われたんだろうか?
「おう、わかってるじゃねえか。」
「ただ、他の楽器の音が潰れちゃってる気がして。」
「はぁ〜〜。どいつもこいつも『調和』とか『融和』とかうるせえなぁ!オレはオレの好きなようにコイツの弦を弾きたいんだよ!」
難しいことはわからないが、他の演奏者たちから何か言われたことがあるらしい。
「オレは上手いんだろ?何がダメなんだ?」
「ただ…その、少し音が強くて。心に刺さります。」
「そりゃ、心にビンビンに刺しにいってるからな。俺の音は、何年もかけて研ぎ澄ましてんだよ!」
彼の言葉には、音楽へのストイックな愛情が込められていた。
「でも、ビンビンというより、チクチクとします。」
「そうか、チクチクと聴こえるのか。」
先ほどまでの突き放すような物言いではなく、彼は独り言をつぶやくように言った。
「そうなんですよ。上手なはずなのに、もったいない感じがして。すいません、音楽は素人なので曖昧なことしか言えず。」
彼は聴こえない音量で、また何かぶつぶつと呟いている。ボクとの会話を通じて、彼の心にほんの少しの変化が生まれたのだろうか。
「あの、部外者なのに生意気言ってすいませんでした。」
ボクのチクチクという言葉がよほどひっかかったのか、彼はバイオリンを止めてしまったし、返答もしないままだ。ボクはその沈黙に戸惑いながらも、心の中で彼の音楽に共鳴したいと思った。
「素人意見ですけど演奏技術は素晴らしいと思いますし、アナタの音楽に対する情熱はすごく伝わってきました。それじゃあ、ボクは失礼します。」
彼に一礼だけすると再び森に入る。
何本もの木で彼との間を埋めた頃、深くため息をつくと、バイオリンの音が再び鳴り出した。彼の演奏が少し変わっている気がする。以前の攻撃的な音色は和らぎ、どこか優雅な響きを帯びてきた。ほんの少しだけ、周りの音に寄り添っているように見えた。
ボクの足音は今、ツンツンツンと、地面に触れるたび反発するように音を立てている。背中に当たる、力強くも優しい追い風に押されるように、さらに森の奥深くへと入っていく。
しばらく歩くと、今度は宝石のように輝く音が森に響き渡る。透明感のある音色に引き寄せられるように、ボクは音の源へと足を運んだ。その音色は、まだはっきりと聞こえるバイオリンの鋭さを和らげ、他の音と美しく調和していた。まるで森全体を包み込むかのように優しく響き、ボクの心に何か大切なことを思い出させるような気がした。
彼女は、先ほどの狸顔の女性と同じ形の楽器を叩いていた。大きく異なるのは、叩いている鍵盤が月明かりでキラキラと輝いているところ。たぶん、鉄琴だ。
こっちは狐顔の細身の女性が奏でていた。他の音楽を調和させようとする彼女の透明感のある音は、輝きを失わずに他の音と共存し、美しいバランスを生み出す。
「ステキな音色ですね。」
「ありがとう、嬉しいわ。」
「周りで色んな音が違うリズムで鳴っているのに、すごく心地いいことってあるんですね。」
彼女は下を向いたまま微笑みながら言った。
「音が混じり合うことで、世界は美しくなるのよ。」
「アナタ自身も、すごく美しい。」
ボクは彼女の顔にもひとめぼれしていて、ついナンパのような本音をこぼしてしまった。
「あら嬉しい。」
そう言って顔をあげた彼女から、優雅さが消える。
「ってあなたこそ、なんて白い顔なの!」
彼女はボクと目線が合うなり、そう言った。
「いえ、ボクなんかずっと顔は褐色ですよ。」
「その顔で、その発言は罪よ。」
全く会話が噛み合わない。月光でボクの顔は全部色が飛んで、白く見えているというのだろうか?それとも、彼女は本当に白くてキレイだと思うのだが、自分で自分を客観視できないタイプなんだろうか?
「私も美白に自信あったけど負けたわ。でも、グロッケンシュピールの音色は負けないわ!」
どうやら鉄琴らしいそれはそう言うらしい。うん、勉強になった。不協和な会話は忘れて、調和された言葉なき音に耳を傾ける。
うっとりして、ずっと彼女を凝視していた自分に気づく。気まずさを誤魔化すために、夢中になって叩いてる彼女に再び話しかけるのも忍びなく、ボクは黙ってそこを離れた。
その時、陽気なリズムが軽やかに割り込んできた。音のする方へ行ってみても、音源の主は見当たらない。周りをキョロキョロと見渡して聴き耳を立ててみても、やはりこの辺だ。
音がやんだかと思うと、木の上から何かが落ちてきた。
鼓を叩いてリズムを刻んでいた時よりも、大きなタンバリンの鈴だけが揺れる音がした。
「いててて、、、」
尻餅をついた小柄な男がそこにはいた。
彼はすっと立ち上がる。タンバリンを鳴らしながら、ボクの周りを軽やかに歩いていた。その音楽は、まるで風が草原を駆け抜けるように爽快で、聞く者を笑顔にさせる力があった。
「楽しんでるかい?」と彼は笑いながら声をかけた。
「ええ、すごく楽しいです。」
ボクは自然と笑みを返した。彼は左手でタンバリンを軽快に鳴らしながら、右手で森の奥を指差す。
「さぁ、この先には彼らが待ってる。慌てて転ばないようにね!」と言い残して、あっという間に風のように走り去っていった。残された軽やかなリズムは自然と一体となり、森全体を明るく照らしているかのようだった。
一瞬、森の中の全ての音色がやんだ。無音という時間が、日常に戻っただけの森に緊張感が満ちる。
突如、激しく空気を割る、ドラムロールが響く。その音は徐々に速くなり、夜の空気を引き締めていく。他の楽器たちも演奏を再開させていたが、そのリズムに釣られて演奏全体を加速していく。この森の空気を変えた人の正体が気になり、ボクの歩調も速まっていく。
そこにはアロハシャツを着た、2人の男が立っていた。片方はこの辺の聴覚を支配している筋骨たくましい男。盛り上がった両肩から紐が垂れドラムをお腹に沿わせて、バチの形がわからないくらいに振り続ける。
対照的に、隣の長身の男は直立して微動だにしない。彼の棒のような上半身が隠れそうな大きな円盤を両手に持ちながら、顔だけ明後日の方角を眺めている。
「よう、オレはさすらいのドラマーだ。隣にいるのはオレの兄ちゃん。」
「ドラマーさん、こんばんは。お兄さんも、こんばんは。」
「おう、よろしくな!白くて小さな少年!」
また言われた。今日はやはり月明かりが強いようだ。
『お兄さん』からは返事がない。
対して『弟さん』のドラマーは、ドラムロールのデクレッションドになると、自己紹介が挟まれる。
「南の国から来たんだけどさ、ちょっと帰るのが遅くなっちまって。」
「へ〜、南の国はどんなところな」
ドルルルルルルルル
ドラマーは自分が言いたいことだけ言うと、ボクの返事を待たずにボリュームを上げてしまう。
弟のドラムロールは次第に速さを増し、緊張感を高めていく。彼の表情は集中しており、まるでこの瞬間にすべてを懸けているようだった。
さっきのバイオリンの鋭い刃とは比較にならないほどの爆音のはずなのに、もっと聴いていたいと思わせる音の機関銃。
段々と見える景色も色を失っていく。弟の気迫で雲が呼び寄せられ、月が隠れたようだった。
「そろそろフィナーレだ。」と弟は静かに言った。
弟の演奏は徐々にスピードを増し、ボクの心臓もそれに合わせて鼓動を速めた。音が盛り上がることで、何か大きなことが起こる予感がボクを包み込んだ。
「最後頼むよ、兄ちゃん!」
「ああ。」
弟の呼びかけに応じて兄は初めて喋ると同時に、両手を大きく広げる。
兄の両手が目一杯開かれたところで、弟の手が止まる。
その休符が合図かのように、兄の両手が一気に引き寄せられる。
シンバルを強くぶつけて生まれた金属音の反響音。その長いサスティーンは、ガラスを鋭い針で突くように、夜の闇を四方八方に切り裂くように広がり、すべての音を包み込む。彼の一音で、ドラムロールの余韻も含め、森中から聴こえる全ての音が一つの大きな調和となる。
サスティーンは熱いスープのように、すべての音の具材を一つに溶け合わせていく。
その長い余韻の中、ボクは一瞬、すべての時間が止まったかのように感じた。そして、音が再び鍋から溢れ出した時、匂いに誘われた月も雲の切れ間から姿を現す。
再び明るくなった目の前の光景には相変わらず無数の樹木が立ち並んで見えていたたが、2人の姿だけが消えてしまっていた。
ボクは森の中を再び歩くことにした。ドラムロールとシンバルの音とは出会えなかったが、出会った他の楽器たちはそこかしらから聴こえてくる。
コンサートホールで楽団の演奏中に、演壇に勝手に上がってその中を抜けていくように、場所を変えるたびに楽器の強弱が変わる。同じ時間、同じ場所では、絶対に自分以外が立てないように、2度と同じ音を聴くことはできない。ボクは、時に立ち止まり、時にぐるぐると歩き回ながら、夜が明けるまで一夜限りのライブを楽しんだ。
空が白み始めた頃、少しずつだが、音が小さく、楽器も減っていく。ボクは音の一粒一粒を最後まで見届ける。ああ、これで思い残すことはないな。
地平線から陽光が直接差したのを合図に、魔法は完全に解けてしまった。
朝になると、鎌を持った人たちが家屋から溢れ出し、米の収穫が始まった。
お昼には、昨日精米したばかりのおにぎりを皆、口一杯に頬張る。
日が沈むと、入れ替わるように今夜も月が顔を出す。
少し欠けた月も、14日後には鎌に刈り取られる運命。
それを知りつつも、今はただ、昨日と同じように優しく秋の虫達を照らし出す。




