【第一章】⑤二股
オフィスに戻ると、和美さんが次のカウンセリングがキャンセルになったことを伝えてきた。なんでも、お子さんが交通事故に巻き込まれて、救急病院に行かなければならなくなったらしい。
僕は自分のデスクに戻ってニノくんのノートの整理にとりかかった。片山君はNPO団体主催のグループワークのファシリテーターの依頼を受けていて、そちらに出張に出ていた。
和美さんはニノくんのことが非常に気になるらしく、今日のカウンセリングの様子を聞いてきた。僕はノートをめくりながら、概略を説明した。一通り聞くと和美さんはこう言った。
「彼女は他の人とセックスしていても、付き合っているわけじゃない、単にセックスするだけの関係だから安心してなんて言ってるけど、それ自体が私には全く理解できないの。一体、彼女にとって付き合っているというのはどういう状態のことをいうわけ?」
「通常、付き合っているという状態は、恋人同士が交際を行っている状態をいうよね。一緒にどこかにいったり、何かを体験したり。それからお互いの思いを、言葉やスキンシップなどでコミュニケーションをとったりする。付き合いが進めば、ボディタッチやキスといった肉体的接触もするようになるし、性交渉もそのひとつだと思う。前提として、相手が好きという感情が必須だし、同様にこの人を誰かに取られたくないという独占欲や、この人を幸せにしたい、大切にしたいとお互いに思っていることを言うと思う」
「ああ、それはよくわかる。確かにそれは付き合っていると言ってもいいわ」
「それで、実はニノくんと話していて、僕は昔のクライアントのことを思い出したんだ。その女性、以前は風俗従事者、セックスワーカーだったんだけど、ふとしたことで娘さんに自分の風俗勤務歴がばれた。それで母子関係がこじれたことで、僕のカウンセリングを受けに来たんだ。聞いたところによると、彼女の夫はもともと彼女の客で、信頼できるから付き合って結婚したそうなんだ。それでその時、気が付いたんだけど、普通男女の付き合いは、名前を知ることから始まって、相手と食事をしたり、どこかへ出かけたり、旅行をしてなどのプロセスを経て、相手の人となりを少しずつ理解する。その過程で住んでいるところや趣味や過去の経緯を知る、そして理解や信頼が深まっていって、お互いに様々な愛情表現を交わして、性行為に進むのが普通だと思うんだ。でも彼女が夫と結婚したプロセスはこれと全く逆なんだよね。まず店で客として出会って、すぐに性行為をした。勿論名前などのパーソナルデータはお互い全く知らない。それで何回か通うようになって、少しずつ相手への理解が進み、お店以外でも会うようになって、お互いに愛情表現を交わし、ついにお互いの家を行き来するように、そこで相手の名前や年齢といったパーソナルデータを知るという過程を経て結婚したらしい」
「多分、彼女の思考はこのセックスワーカーの人たちの考え方と酷似している。というか全く同じだ。彼女の付き合っていないという主張は多分、ここからきている。通常の人が一定のゴールだと考える性行為が、彼女の場合はスタートであり、それ以上を求めないのだから付き合ってはいない。ということなんじゃないだろうか」
「正直、分かったような、分からないようなモヤモヤした感じが残る話よね」
僕は話しながら、ニノくんの置かれた状況を自分に置き換えてみた。恋人が僕とのセックスに満足していなくて、他にセフレをつくる。そして、愛しているのは君だけで、セフレに恋愛感情は一切ないし、付き合ってもいない。だから安心してと、敏弘が告げる様子を想像してみた。ダメだ、到底受け入れらない。僕ならすぐに別れ話をするだろう。でもニノくんは別れるのならこの家から出ていけ。大学の授業料も払わないと言われ、自分の意思は押し殺されている。
多分、同じようなことを考えていたのだろう、和美さんが僕に訪ねてきた。
「その…、井坂君は浮気したことある?」
「ない。僕は何より人を裏切るのが嫌いだ。だからこれまで浮気をしたこともないし、パートナーに浮気されたこともない。他に好きな人が出来たなら、はっきり言って僕を切り捨てて欲しいってお願いをしていた」
「そう、井坂君らしいよね。私はあるの、過去に二人も。そして実は直くんも浮気未遂したことがあったの」
「えっ、片山君が!」僕は本当にびっくりした。片山君は正に実直そのもので、真面目を絵に描いたような人柄であり、絶対に人を裏切るような人ではない。僕はその人柄を信用して、彼から一緒に独立してカウンセリングオフィスの開業を持ち掛けられたときに即座に同意したのだった。
「直くんにとって、私は初めて付き合った異性で、そのまま誰とも付き合った経験もなく私と結婚したの。私は直くんより前に、高校生の時に一人、大学生になった時に一人とふたりの男性と付き合っていた。別れた理由は二人とも相手の浮気だったの」
「一人目のときは、突然彼に『別れよう』と一方的に言われたの。理由も言ってくれないし、何がなんだか分からなかった。自分の悪いところがあったら、はっきり言って、ちゃんと直すからって言ったのに、『君に悪いところはない』とだけ言われて、それきりだった。でもすぐに分かったの、次の週には彼は1年下の後輩の子と一緒に下校しているのを見たの。ああ、そういうことか、私負けちゃったんだってその時は思った。でも違ったの、その子に告白したのは彼の方からだったって、後輩の子と知り合いの友人が教えてくれた。最初はその子もあなたには恋人がいるでしょうって断ったらしいんだけど、彼は大丈夫、もう別れたからって言ったらしくて、そのまま一ヶ月以上二股をかけていたみたい。私と別れていないことを知った彼女に迫られて、私の方を切ったというのが真相だったのよ」
「それは辛かったよね。むしろ知らなかった方がよかったのかもね」
「それで結構傷ついたし、同じ学校だから、その二人がそのあとも付き合いが続いているのも分かっちゃうし、滅茶苦茶落ち込んだ。友達は口を揃えて、新しい恋人をつくりなよって言ってくれた。でも一番の薬は時間だった。3年生になって、受験モードになって傷も少しずつ癒えて、大学に入ったら彼氏を作るぞって意気込んでた」
「それで二人目の浮気した彼氏というのは、大学生の時だった言っていたから、片山君と出会う前かい」
「そう、実はサークルの先輩の前田さんなの」
「えー、あの前田さん」
前田さんというのは、サークルの中心的存在で、性格は明るいし、コミュニケーションをとるのも抜群にうまい、トーク力も優れているので、人気者だった。ただ女癖が悪く、サークル内でもたびたびちょっとした問題(主に異性問題)を起こしていた。僕は軽薄な感じがして、ちょっと苦手な先輩だった。それにしても、和美さんと前田さんが恋人同士だったというのは、まったく知らなかった。
「知らなかったでしょう。前田さんとは入学したときのサークルの勧誘で、知り合ったんだけど、すぐにアタックしてきて、サークルに入らなくてもいいから付き合って欲しいといわれたの。私も大学に入ったら彼氏を作るんだと意気込んでいたし、まあまあイケメンだったし、これまでの交友関係で前田さんのようなタイプの人はいなかったからね。だからOKしたの。でもね、半年ぐらいで別れちゃった」
「どうして」
「その日、バイト先のイタリアンレストランの厨房機器が故障して臨時休業になってバイトが飛んだんだ。それで折角時間が空いたから、前田さんとデートしようと思ったんだけど、携帯に電話しても出ないし、メールしても返信がない。それで直接、アパートに行ったの。そう夜の8時くらいかな、偶然にも駅からアパートに帰る前田さんが先を歩いていたの、結構肌を露出した格好をした小柄な女の子と腕を組みながらね。私はふたりのあとをつけていったの」
「二人はなんの躊躇もなく、彼の部屋に入っていったの。私、終電がなくなるまでアパートの前にいたんだけれど、女の子は部屋から出てこなくて、本当は何回もピンポンを押したり、思い切りドアをノックしてやろうかと思ったんだけど、勇気がなくてできなかった。終電も近かったので、部屋のドアの前からメールしたの、今なにしてるのって。でも電車に乗ってても、家についてからも返信は来なかった。翌朝、ごめん友達と一晩中飲んでて、メールに気づかなかったっていう嘘の返信があったのね。なんか一気に冷めちゃって、電話する気も、返信する気もなくなっちゃって、放っておいた」
「で、それきり?」
「ううん、何度も電話がかかってきたり、メールが来てたりしたけど全部無視してた。そしたら、講義が終わったあと、直接本人が私の前に現れたの。『どうして電話にでてくれない』とか『返信してくれないんだ』って怒ってた。すごく勝手なことをいう人だなって呆れてきて、直接こう言ったの『嘘をつく人は嫌いです。そんな人とは付き合いたくないです』って」
「そうしたら、『俺がなんか嘘ついたって、どういうこと?』って聞き返すから、はっきりと何日か前に、今何してるのってメールしたよねって、私からの最後のメールっていったら、
『あの時は友達と飲んでたって』いうの。だから、そう何処でって聞いた。そしたら『渋谷の居酒屋で』って答えたの。誰とって聞いたら、『別の大学のサークル繋がりの人達と』って、何人でって聞いたら『3人で』って。その三人は男の人、女の人ってきいたら『全員男に決まってるだろう』って全部嘘で答えるの」
「だから一気にこう言ってやったの、いつからあんたの部屋は渋谷の居酒屋になったんだ、随分と小柄で露出の多い恰好をした背の低い男の子と腕を組んで歩くんだ。それと、あとの二人はいつあんたの部屋に行ったんだってね」
「彼は狼狽えながら何か言おうとしてたから、私、見たの。あんたが女の子を連れて部屋に入っていくのを、そして終電までずっとドアの前にいたのって言ってやった」
「彼は『あれは従妹で』とか、『たまたま偶然駅前で会ったから』とか、口から出まかせを連発してた。もうそんな姿を見ていたら、嫌悪感が湧いてきて、何も言わずに立ち去った。それから私の姿を見かけても、声をかけて来なくなったし、私も彼が卒業するまで極力サークルに顔を出さないようにしていた。覚えてる?」
「たしかに和ちゃんと親しくなったのは、2年生になってからだったね」
「そう、まあそのあと私は直くんや井坂君たちのグループと仲良くなって、そのうち直くんから好意を伝えられて付き合うようになった。それは井坂君も知ってるよね」
「うん、サークルみんなでお似合いだねって良く言っていたよ」
「特に直くんは、女性と初めて付き合ったのが私だから、サークルのみんなも私と前田さんが付き合っていたことを井坂君には言わないようにしてたと思う。だから井坂君もこのことを知らなくて当然だと思う」
「ところで、前田さんの浮気相手って誰?」
「実は元カノなの。違う大学のサークル繋がりの人で、前田さんが私にアタックしてきたときは別れた直後だったらしかったの。でもすぐに彼女からよりを戻したいって言われて、それで同時に付き合うようになったって言っていたと同じサークルの女の子が本人から聞き出した」
「つまり二股かけられていたってこと」
「そう、因みに前田さんはその時、すでに新しい彼女がいるって一回断ったらしいけど、それでも良いって彼女に言われて、二股で付き合うことにしたって言い訳してたらしい。つまり半年ぐらい私はずっと二股かけられていたわけね」
「全然知らなかった。僕は人間観察に関しては人よりは優れていると自惚れていたけど、自信を無くしてしなうような話だよ」
「まあ、前田さんが異性関係にだらしないのはサークルのみんなも知っていたから、この話はタブーになっていたっていうこともあったのね」
「でね、前田さんが卒業したからサークル活動にも復帰して、直くんや井坂君と友達付き合いを始めるようになって、グループ交際みたいになったよね」
「うん、なった。僕以外みんなカップルになっていたよね」
「そう、そして私は正直で、嘘を付けない、前田さんと正反対のような直くんのことが少しずつ気になっていた。2年生の終わりに付き合って欲しいって言われて、私たちは付き合った。ただ直くんは大学院に進学希望だし、私は就職を希望してたから、別れた方がいいかなって4年生の時に伝えたの。でも直くんは『絶対に別れない、僕は心理士になるという自分の夢を叶えて、和ちゃんを幸せにしたい。何年先になるかわからないけど、結婚して欲しい』ってプロポーズされた」
「だからその時に、こういったの、結婚するなら約束してちょうだい、絶対に浮気はしないとね。もし浮気をしたら、その時点で離婚。子供がいたら原則、浮気された側が引き取るって」
「それで、ちょうど愛理が産まれて一か月くらいたって、直くんの実家に戻った後なんだけれどホルモンバランスの崩れから、私は絶えずイライラしていて、しょっちゅう直くんにあたってたの」
「それ実は知ってる。片山君から、内緒で相談を受けていた。トイレットペーパーの話を聞いたときは、さすがに酷いなって思った。産後の嫁は肉食獣って聞いたことがあるけど、あれはないって片山君が言ってた」
「えー、直くんその話をしてたの?」
「うん、深夜にトイレットペーパーが切れていることに気づいた和ちゃんが、片山君に文句を言って、片山君がコンビニにトイレットペーパー買いに行かされた」
「そう、そのときダブルのペーパーを買ってきたことに私が更にキレたって言っていたでしょう」
「うん、ただキレたっていう次元ではなくてもっと酷いことを言われたって。『お前は我が家のトイレットペーパーがシングルなのを知らなかったのか?』とか『トイレットペーパーを前後反対につけたから、取りづらかった』とか『そんなことも知らなかった奴と一緒に生活はできない』とか罵倒されたって言っていたよ」
「そう、一時期本当にストレスが酷くて、ことごとく直くんに八つ当たりしてた。まあ、それで義母との関係もギクシャクするようになったんだけどね」
「片山君は今では笑い話にしているから大丈夫だよ」
「えっ、なに? 直くんは私を鬼嫁のように周りにしゃべっているの?」
「大丈夫、片山君は細かなニュアンスを伝えるのが上手だから、決して和ちゃんを鬼嫁だなんて思わないよ」
「実はね、理不尽なことで私に責められていたこともあったんだとは思うんだけど、そのとき直くんが勤めていたカウンセリングオフィスに実習に来ていた女子大生と二人だけであう約束をしていたんだ」
「あの頃、私もいっぱいいっぱいで多分産後うつだったんだと思う。でそんな私に対して直くんもおろおろ、びくびくしていたのは分かった。分かっていたけど、どうしようもできなかった。でもその日、直くんがほんの少しだけ様子が違っていたの」