【第一章】①始まり=起承転結の「起」
始まりは4月の上旬にかかってきた1本の電話だった。僕がスクールカウンセラーとして勤務していた中学校でカウンセリングをした不登校の男子学生からだった。
「井坂先生、お久しぶりです」
「久しぶりでしたね。元気にしていましたか? 今、どうしているんですか?」
「高校を卒業した後、予備校に通って、今は東洋大学で経済学を勉強しています。元気にやっています」
「そうですか、それは何よりです。それでなんで急に電話をくれたんですか?」
「実は大学の友人でカウンセリングを受けたいと言っている奴がいて、いいカウンセラーいないかなって相談を受けたんです。だから『大学にもカウンセリングルームがあるだろう』と言ったんですが、『いや内容が内容なんで、できれば民間のカウンセリングを受けたい』って言うんです。大学のカウンセリングではどうも話したくない内容らしくて、『できれば心理カウンセラーが良い』って言っているんです」
「そうですか。確かに僕は臨床心理士の資格を持っていますから、心理カウンセリングは専門です。まあその方の希望には叶っていますね」
「それでこの電話で井坂先生が受けてくれるというのなら、紹介しようかなって」
「わかりました。お受けしましょう。ではその方について、お聞きしますね」
「はい、名前は岡田遼輔といいます。僕の一つ下の20歳。この4月から大学2年生です。嵐の二宮に似ているので、僕らはニノって呼んでいます」
「岡田遼輔君、ニノくん、20歳ですね。どちらにお住まいですか」
「田園都市線の青葉台駅の近くのマンションに親と住んでいるっていってました。そこから電車で大学に通っています。それで先生、ちょっと聞きにくいことなんですが…」
「なんですか?」
「先生のところのカウンセリング料金って高いですよね?」
「はい、うちは一回85分で13,000円が基本になっています」
「やっぱり高いですよね。僕ら貧乏学生が何回も受けられる金額じゃないです」
「そういうことでしたら、初回はお試しカウンセリングということで30分5,000円でいいですよ。もし30分過ぎても超過分は請求しません」
「いいんですか」
「ほかならぬ吉沢君のご紹介ですから」
「ありがとうございます。でも、なんでカウンセリングの料金ってそんなに高いんですか?」
「都心の青山のオフィスビルに、狭いとはいえ開業しているんですから、家賃も高額です。他にもそれなりの経費がかかります。電気代やガス代、水道代など。うちもカウンセリング収入だけでは赤字です。とてもやってはいけないんです」
「えっ、じゃあどうやって経営してるんですか?」
「主な収入は企業や官公庁、学校や医療機関や介護施設、各種支援団体、NPO向けの研修料や講演料です。これは共同経営者の友人が主に行っています。金にならないカウンセリングは僕が担当することが多いですね」
「へえ、じゃあそんなにぼったくりという訳ではないんですね」
「そうなんです。わかっていただけましたか? ではニノくんに伝えてください。初回カウンセリングは、一番早くて今度の土曜日、4月13日の午後1時からになります。都合を聞いてみてください」
「じゃあ、ニノには僕から予約時間を伝えます」
「もしその日の都合が悪かったら、連絡をください。都合がよければ連絡なしできてくれて構いませんからね」
実は予約を入れたその日は土曜日だったので、基本的にオフィスはやっていない。初めてのカウンセリングは予想外に時間がかかることがある。大学の学生向けのカウンセリングは基本無料なのに、アルバイト収入しかないであろう大学生が、わざわざ高額なカウンセリングを受けたいというのがちょっと引っかかった。正式なオフィスへの依頼という形ではなく、休日に気が向いたから、学生の話を聞きたかったという形にすれば料金や時間はなんとでもなる。
僕はその日の午前中にアップルストアにiPadを買いに行くつもりだったので、都内に出る予定があった。渋谷のアップルストアから、僕のオフィスまでは徒歩圏内。午前中に予定は終わるだろうから、その日の午後にニノくんのカウンセリングを入れたのだった。
前日の金曜日の夜は10時までひとりオフィスに残って記録の整理をした。翌日はいつもの出勤時間よりゆっくり出かければ良かった。
当日、9時前に僕は狛江のアパートを出て、小田急線狛江駅に向かって歩いた。この日は小雨模様だった。傘をさすほどじゃなかったが、念のためリュックには折り畳み傘を入れておいた。土曜日だというのに小田急線は混んでいた。車窓から時折、複々線工事の様子が伺える。これが完成しない限り、この混雑はどうにもならないんだろうなと思っているのは、多分僕だけではないだろう。
下北沢で乗り換えて渋谷に向かう。大学生のとき、吉祥寺の実家から青山のキャンパスに通っていた僕にとって下北沢はおなじみの駅だ。今も通勤時、下北沢で乗り換えるともうすぐ着くなという実感がわく。
渋谷駅からアップルストアに向かう。雨はまあまあ降っていたので傘をさして店に向かう。店はそれほど混んではいなかった。10時過ぎに入店したのだが、11時前にはストアを出て、オフィスに向かうことができた。雨は止んでいた。予報では午後から晴れるとのことだったが、空には春特有の薄い雲が残っていた。
途中サブウェイによって、BLTのレギュラーサイズを買う。オフィスでコーヒーを淹れて、昼食にしよう。オフィスまでの雨上がりの道のりをゆっくりと歩いていった。
青山のビルの2階に僕らのオフィス兼カウンセリングルームがある。ふと見ると、オフィスの電気がついていた。誰か来ている? もしかしたら、昨夜電気を消し忘れたのかもしれない。もし誰かが来ているとしたら、共同経営者の片山君だろう。階段を昇りオフィスのドアのバーを引っ張ったが、鍵がかかっていた。セキュリティランプはグリーンだったので、中に人がいるのは間違いなかった。昨日の退勤時に電気を消し忘れていた不安は杞憂だとわかり、安心した。
鍵を回してドアを開ける。中にいたのは、予想に反して片山君ではなく、妻の和美さんだった。
「あれ、どうしたの井坂君?」
「そういう和ちゃんこそ、どうしたの?」
大学の同期だった僕たちは、第三者がいないとき、基本的に学生時代と変わらずに君付け、ちゃん付けでお互いを呼んでいる。
「明後日の月曜日に、直くんが行く予定の高校の研修会の予定が変わりそうだという連絡が携帯に入ったの。研修の内容に変更はないんだけれど、細々とした変更があるんでそれが出来るのかどうか、確認しなきゃならなくなったのよ」
「えっ、でもそれは片山君の仕事だろ?」
「実は今日、片山の実家に行くことになっていて、行かないとお義母さんの機嫌が悪くなるから、娘と直くんにはそっちに行ってもらったの。それに同居をやめてから、お義母さんと私の関係も更に悪化しちゃって、私の顔を見ると露骨に嫌な顔をするの」
「でもマンションを買って、実家を出るというのは片山君の以前からの希望だっただろ?」
「そうなんだけど、愛理が生まれたことでお義母さんの意識が変わちゃって。私はおばあちゃんから孫を引き離した冷酷な嫁という捉え方をするようになったみたい」
「それは同情を禁じ得ない話だな」
「いいの、いいの。今は別居しているし、私が行かない方がお義母さんの機嫌も良いだろうし。逆に私だけで愛理を実家に連れていってもお義母さんの機嫌は損ねるし、私も気まずいだけだからね。ところで井坂君こそどうしたの?」
僕は吉沢君から依頼された一件を話した。
「うちのカウンセリングを学生さんが受けるのは余りないよね」
「うん、数えるほどしか。吉沢君は中学校時代にいじめにあって、不登校になったんだけれど、高校で立ち直って、無事卒業できた。一浪して東洋大学に通っているらしい。僕にとってはちょっと思い入れのある生徒だったんだ。その子の依頼だから、無下に断るのも悪いと思ってね」
スクールカウンセラーをしているとき、悩みを抱えた、沢山の保護者や生徒たちの相手をした。その多くが行き渋りや不登校だった。そして不登校の多くは、高校に進学してもそれを引きずる子が多い。一番多いのが通信制の学校に通ったり、大検を経て進学するというケースが目立つ。そのまま引きこもりの生活を送っている生徒の報告を何件も受けていた。吉沢君のように全日制の高校に通い、浪人してまで大学に進学するというケースは少ない。
「それでそのニノくんでしたっけ、何時にくるの?」
「1時に約束をしているよ」
「じゃあ終わるのは、2時半くらいになるわね。私、2時にはここを出たいんだけど」
「一応、お試しカウンセリングで30分5000円でってことにしているんで、2時には終わるでしょう。終わらなくても先に帰っても構わないよ。僕が後始末して帰るから」
「じゃあ、その時はお願いね。でね、井坂センセイ」
僕はドキッとした。和美さんが僕のことをセンセイと呼ぶときは、大抵耳の痛いことを言われるときだからだ。
「うちのカウンセリングの単位は85分13,000円です。お試しカウンセリングを5,000円で受けて、通常のカウンセリングと同じことをやらないようにしてくださいと前にお話ししていますよね」と釘を刺された。すっかりお見通しである。和美さんのこのお小言を避けるために、誰もいない土曜日にカウンセリングを入れたのに、まさか土曜日に彼女がオフィスにいるのは想定外だった。
自分の席に着き、カバンを開けて買ったばっかりのiPadを取り出す。BLTを紙袋から取り出し、コーヒーを淹れようと席をたったところで和美さんが声をかけた。
「コーヒーならもう淹れてあるから、そのまま席で待ってて。今持っていくから」
「悪いね」
僕はiPadの包装フィルムをはがし、ふたを開けた。アップル社の製品を買うのは初めてだった僕には、その箱を開けるとき、小学校時代に習字箱を開けたときを思い出した。そして本体を取り出し、操作マニュアルを探した。ふつうは本体の下に入っているはずのマニュアルがない。上箱にも入っていない。どこをどうひっくり返しても、マニュアルは入っていなかった。
電気製品を新しく手にした時の人間の反応は2つに分かれる。とりあえず何も見ずに製品に触れて、操作していって分からない時にマニュアルなり他人に聞くなりして操作方法を知るタイプ。
触る前にじっくりとマニュアルを見て、それを見ながらひとつひとつステップを踏まえて、操作を始めるタイプ。世の中は前者が多いというアンケート結果を見たことがあるが、僕は明らかに後者だ。因みに相棒の片山君もどちらかという後者だろう。
マニュアルを入れ忘れた製品を掴まされたのかと思ったところに、僕のスターバックスのタンブラーにコーヒーを淹れて持ってきてくれた和美さんが声をかけた。
「あらiPad買ったの?」
「うん、そうなんだけどさ、マニュアルがどこにもないんだよ。店員さんが入れ忘れたのかな?」
「マニュアルは初めから入っていないよ」
「えっ、そうなの?」
「直くんがこのあいだiPhone5を買った時、同じことを言っていて、アップルストアに苦情の電話をいれたら、マニュアル本は初めからありませんて言われてた」
「えっ、じゃあどうやって操作方法を知るのさ?」
「そういうのはネットにあるんだって。初期の設定もマニュアル無しでできるそうなんで、直くんもそういうのは無しでやってた。別に不都合はなかったみたい。少し時間はかかるけど」
「そうなんだ。このあとのカウンセリングで早速使いたいから、ちょっとやってみるよ」
「ところでせっかくの休みなのに、カレのことはほっといていいの? 警察官でも本庁勤務なら土日は基本休みでしょう?」
「ああ、敏弘ならこの4月に警部に昇進して今は府中の警察大学校に行っている。だから今は会えないんだ」
「えっ、中山さんてまだ30歳にもなっていないでしょう。もう警部まで昇進しているの」
「まだ29歳で、今年度で30歳。確かに同期の中では出世は早い方かな。本人は特別早いわけじゃないって言っていたけど」
「私の父親なんて、警部補で退職したのに、30歳前の若者にもう抜かれちゃったのね。やはり準キャリアは出世が早よね」
「敏弘の父親はキャリアじゃないって不満を言っていたらしいけどね。ただ本庁勤務になってからは、現場の方が楽しかったって言っているよ」
そんな話をしながら、BLTを食べ、iPadの設定を進めていった。和美さんは受付デスクに戻って、片山君の研修会資料の確認を続きを始めていた。そんなこんなで一時間以上経っていた。