八. 毒
七時丁度に食堂に行くと、摩帆と摩奈の二人がすでに席に着いていた。テーブルの上には、美味しそうな料理がところせましと並べられていて、いつでも晩餐がはじめられるようになっていた。
しばらくの間、私たち三人は誰も会話を切り出そうとはしなかった。間の悪い空気があたりを充満していた。ただクラシックのBGMだけが、静かに空間を流れていった。
やがて、しびれを切らした摩奈が愚痴をこぼした。
「はやく、松川さん来ないかな。食事ができないよね」
摩奈の発言とほぼ時を同じくして、松川氏がようやく食堂に姿を現した。時刻は七時を五分ほど過ぎていた。
「申し訳ありません。少々遅れてしまいましたかな」と、松川氏が頭を下げた。例のごとく、あまり反省の色は顔に浮かべていないけれど。
この後、私たちは一斉に食事を開始したが、やはり遺言公開のしこりが残っているのであろうか、銘々が無言で食事に専念していた。
前菜の脇にはカクテルグラスが添えられていた。それは透き通ったピンク色の液体で満たされており、果実酒のようであった。匂いを嗅いでみると、山桃の香りがした。咽ることはなかったので、そんなに強くないお酒のようだ。もっとも食前酒なのだから、それも当然といえば当然であろう。
私たち三人は明日まではまだ未成年なんだけど、お酒を出してもいいのかな、と取るに足らないことを気にかけつつ、私はグラスに手を伸ばす。育ての母である西野須美代はアルコール類を一切飲まなかったし、私はこのように真面目一辺倒な性格なので、お酒を口にするのは実はこれが初めてだ。
私は正面に座っている摩奈にこっそりと目を向けたが、摩奈はカクテルグラスを真横からのぞき込みながらキョトンとしていた。
その姿を確認してから、私は魅惑的な芳香を放つグラスを手に取ると、口元にゆっくりと近づけていった。
とその時だ。
「何、この食前酒、腐ってない? とっても、苦いわよ」
左前に座っていた摩帆が、突然甲高い声を張り上げた。どうやら、摩帆はグラスに注がれたお酒を一気に飲み干したらしい。私はびっくりして、飲もうとしていたカクテルグラスをテーブルの上にそっと置いた。
「へー、そうなの。じゃあ、私は飲むのをやめとこうかな」
摩奈が横で薄笑いを浮かべていた。私は摩帆が怒り出すんじゃないかと思って、ハラハラしながら彼女のほうに目をやった。
摩帆の顔は青ざめていた。
突然、下顎がガクッと開いたかと思うと、舌がとび出てきた。手が小刻みに震えている。やがて、身体がビクッと大きく波打って、そのまま摩帆は椅子から転げ落ちた。
必死に立ち上がろうとしているが、身体が痙攣して、顔を起こすことすらままならなかった。苦しげに咽喉元をかきむしり、床の上を転げまわるように、摩帆は死の舞踏を踊っていた。
隣にいる車椅子の摩奈は、もちろん何もできない。反対側の席の松川氏と、傍で給仕をしていた大河原氏が、ほぼ同時に摩帆のところに駆け寄ったが、その時には彼女はすでに事切れていた。
「すみませんが、皆さん今のままで、動かないでください!」と、松川氏が叫んだ。「おそらく心筋梗塞でしょう。摩帆さんはたった今お亡くなりになりました」
無意識に私は大声を張り上げていた。
「お願い、誰か、この音楽を止めて!」
その時、食堂に流れていたのは、ラヴェル作曲の、亡き王女のためのパヴァーヌ、であった。
「毒殺なのですか」
咄嗟とはいえ、実に愚かな質問を口にしてしまった。
松川氏は私の顔をいぶかしげにしげしげと見つめてから、重々しい口調で答えた。
「毒殺かどうかは断言できませんが、症状から判断すると、アルカロイド系の強い毒、例えばトリカブト毒を、摩帆さんは摂取してしまったようですね」
「トリカブト?」私が問いかけると、
「そんなの、この敷地内にいくらでも生えているわよ」と、摩奈が平然と返した。
「ちょっと、失礼します」
松川氏が立ち上がって、テーブルの上に残された摩帆が口にした食前酒のカクテルグラスを手に取った。細心の注意を払って、その匂いを確認する。グラスの底にわずかに残された液体に小指をそっと浸して、それを用心深く舌の先でそっと舐めた。私と摩奈のカクテルグラスの中身についても、同様の作業を行った。
「多分、間違いはないでしょう。あなた方三人の食前酒には、いずれも猛毒のトリカブトエキスが混入されているみたいです」と、松川氏が断言した。
「殺人事件ならば、すぐに警察に連絡しなきゃ」
怯えきった私はしかるべき提案を申し出たつもりであったが、それに対して松川氏が返した言葉は、全く意外なものであった。
「それは、故母上のご意思に反するでしょう。警察には連絡いたしません。摩帆さんのご遺体は、敷地内にある火葬場で極秘に処理いたします」
私は耳を疑ったが、松川氏はあくまでも沈着であった。
「ここにいらっしゃる皆さんにあらためてお願い申し上げます。
五月女摩帆という女性は、元々この世にいなかったものとして、今後一切の事を隠密に進めていただきたい」
「ちょっと待ってください。摩帆姉さんは現役の大学生なんですよ。大学へは、いったい何て説明するのですか」
食い入るように私が問いただしたが、
「じゃあ、行方不明か何かにしておけばいいんじゃないの」と、落ち着き払った様子で、摩奈が松川氏を代弁した。
私はぞっとした。ここにいる人たちはみんな狂っている。
母の次は姉。成人女性が二人も死んだというのに、端からその人物が存在していなかったかの如く、事を内密に処理しようとしている。
もしも私がここで死ぬような羽目になれば、私には身内が一人もいないのだから、私の存在を抹消するのはいとも簡単なことなのだ。
私は摩奈を凝視した。一見、大人しそうで従順な摩奈。常時車椅子に頼り、一人では生活もままならない、か弱い少女の摩奈。まさか、彼女が今回の毒殺事件の実行犯なのか。
結果的に、私たち三姉妹の食前酒の全てに毒は盛られていた。毒を仕込むこと自体は誰でもできる。なぜなら、この食堂は、食卓の準備中なら、テーブルに並べられた料理に誰にも見られずに近づくことができるからだ。人手不足のあざみ館では、食堂が無人となるのは茶飯事であり、しかもそのことは周知の事実なのだから。
三人全てのグラスに毒を盛ったのは、おそらくカムフラージュであろう。あらかじめ毒が入っていることを知っていれば、それを飲まなければ良いだけのことだ。
だとすると、摩帆より早く食前酒に手をつけていれば、この私が殺されていたということか。
事件のごたごたから開放されたのは八時過ぎだった。食堂を出ると、車椅子の摩奈が後ろから追いかけてきたので、私はビクリとした。
摩奈は全く悪びれる様子もなく、のうのうと話しかけてきた。
「どうやら、私たちは運がよかったみたいね、摩耶姉さん。
あら、そんな目で見ないで頂戴。もちろん、やったのは私じゃありませんよ」
「あなたこそ、私を疑わないの」
敢えて目を合わさないようにしながら、私は摩奈に逆に訊き返した。
「そんなの疑ってもしかたがないじゃない。
もっとも、私の気持ちなんて摩耶姉さんには筒ぬけなんでしょうけど。だって、私たちは一卵性の三つ子だもんね。あっ、正確には四つ子だったっけ」
「お互いにね!」
私は語気を荒げたが、そんな威嚇にちっとも臆することなく、摩奈は淡々としていた。
「私だって、命は失いたくないわ。でも、私、摩帆姉さんのことは嫌いだったから、正直なところ清々しているの。
あっ、摩耶姉さんとは仲良くしたいと思っているのよ。本当に」
「それじゃあ、私たちはいっしょにいないほうがいいのでしょうね。
明日にも私はここを発つわ。もし、私を殺したいんだったら、今晩しかチャンスはないからね!」
「まあ、摩耶姉さんったら、怖いことを」
摩奈が無邪気にくすくすと笑った。「でもね、摩耶姉さん。私が犯人だと簡単に決めつけないほうがいいと思うけど」
摩奈のあどけない瞳がきらりと光った。
「どういう意味よ」
「だって、ここにはほかにも使用人がいるのよ。彼らを信用しても大丈夫なの」
「彼らには、私たちが死んだところで何の利益もありはしないわ」
私は即座に反論したが、
「そうかしら。私たちが二人とも死んじゃえば、誰にも知られずに私たちを埋葬できるのよ」と、摩奈がさり気なく応じる。
なるほど。あまりに突拍子無くて、にわかには信じられないことだけど、摩奈の意見も十分にあり得る話だ。摩帆を殺したいという動機は、私たち姉妹だけでなく、案外ここにいる全員にあったのかもしれない。
「まあ、摩耶姉さんが明日にもここを出ていく、というのはとても賢明な考えだと思うわ。でも、今晩のご自分の身はどう守るおつもりかしら。
私は、鍵のかかる自室にこもってしまえば安全だけど、摩耶姉さんもご一緒に私の部屋に泊まるのかな」と、摩奈はとても嬉しそうだった。
この子、いったい何がいいたいのかしら。私は一瞬混乱を来たした。すると、摩奈は私の行く手を塞ぐようにすっと車椅子を走らせ、くるりと向きを変えて、私と正面から対峙した。
「そうだ、いい事を思いついたわ。摩耶姉さんも、私も、二人の今夜の身の安全が完全に保証できる方法が」
「方法?」
摩奈は得意げになっていた。
「まず、私が自分の部屋に入って、中から鍵をかけます。これで、私の身は安全です。
次に、使用人と松川氏を全員、この建物から外に出します。彼らには離れの建物に泊まってもらえばいいものね。
そして最後に、摩耶姉さんがこの建物の玄関の錠を下ろしてしまえば、建物の外にいる彼らが私たちを襲うことはできなくなるわ。
どう、いい考えでしょう」
私はすぐさま異議を唱えた。
「それでは、まだ不十分よ。この建物の中で、あなたが私を襲ってくるかもしれないじゃない」
待っていましたとばかりに、摩奈が椅子から身を乗り出す。
「そう来ると思っていたわ。でも、大丈夫。
摩耶姉さんは、玄関を閉めた後で三階の摩帆姉さんの部屋までいって、そこで寝ればいいのよ。ご存知のとおり、私は一人では二階までしか行くことができないんだから」
いわれてみれば、たしかにそのとおりだ。摩奈の提案は論理的で非の打ちどころがなかった。これで私たち姉妹双方の身の安全が、文句無しに保証されたことになる。
私は摩奈の提案に賛同した。使用人と松川氏にはその旨を話し、承諾を得ることができた。
時刻が午後十時を少しまわってから、まず車椅子に乗った摩奈が自室に入り、ガチャリと中から鍵をかけた。次に、使用人全員と松川氏に建物の外へ出てもらい、私がしっかりと玄関に鍵を下ろした。もう一度一階全ての窓の鍵がきちんと閉まっているのを確認してから、私は大階段をそろそろと上り始めた。
真夜中にこんな大きなお屋敷を一人切りで歩くのも、何だか不思議な気分だ。私はこれまでの出来事をはじめから思い返していた。現時点ではっきりしている事実といえば、あざみ館には摩帆を手にかけた毒殺魔がいること。そして、その人物にとって私を殺すチャンスは今宵しかない、ということだ。
もしもこの物語が創作されたミステリー小説であるならば、この時点を持って『出題編』が完了し、以後が『解決編』となることだろう。
今にして思えば、その時の私の眼前には、あざみ館で展開されている一連の不可解な出来事を説明する全ての手がかりが、はっきりと提示されていたのだ。それら一つ一つは些細な現象に過ぎないが、よく考えて、ジグソーパズルのようにあるべき場所にきちんと当てはめれば、よこしまな一大絵図が浮かび上がる。すなわち、この時点で私は気づかなければならなかった。この屋敷にはびこっている邪悪の根幹を。これから我が身に降りかかろうとしている忌まわしい災いを。私があざみ館に導かれた真の目的を。そして、摩帆を毒殺した恐ろしい真犯人の正体を。
階段の踊り場の五月女摩由姫の肖像画が、私がやって来るのを静かに待ち構えていた。いつものように慈しむようなまなざしが前方を見つめている。
急に笑いがこみあげてきて、私は肖像画に語りかけずにはいられなくなった。
「全ては、あなたの思惑どおりに事が運んでいるみたいね。
ねえ、お母さん――」
物語はいよいよ佳境へ入ります。果たして、誰が怖ろしい毒殺魔なのでしょう?
この先へ進む前に、あなたの聡明な頭脳を回転させて、謎を解明してみてください。
(作者)