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あざみ館の三姉妹  作者: iris Gabe
第二幕
6/10

六. 塔

 翌朝、朝食の時刻より少しだけ早く目覚めた私は、顔を洗いに部屋を出た。私の部屋の真向かいにある食堂の扉は、相も変わらず無警戒に開いたままで、中の様子が丸見えだった。

 テーブルの上には料理がいくらか並べられていたが、まだ準備の途中らしく、そこには誰もいなかった。それにしても、館内の食事の準備や清掃などの大仕事が、大河原夫妻と守屋料理人のたったの三人だけでまかなわれているのだ。驚きと同時に、何もしていない私はちょっと肩身の狭い思いがした。

 自室に戻って窓を開けてみると、外には晴天コバルトブルーの空が広がっていた。さらに見下ろせば、あざみ館の玄関前のテラスと、車が転回するために造られたロータリーがあって、その向こうには広大な芝生の庭園と、あの美しい蓮池が見えた。そしてその先は、四方が常盤色パロットグリーンの森で取り囲まれていた。

 昨日まで暮らしていた暑苦しい街並みとは打って変って、避暑地とまではいかないけれども、空気が十分に乾燥しているし気温も五度は低いから、ここでは冷房空調機エアコンの必要は無さそうだ。

 鼻歌まじりに、昨日書けなかった日記を今の内に書いておこうと、私は机へ向かった。小学五年生の時から毎日欠かさず、私は日記を書き続けている。とはいってもその内容は全く適当で、毎日四、五行程度の短い文章で綴られた簡素な代物だ。

 でも、さすがに昨日はいつもと違って、書くのに困ることは無かった。特に熱を入れて書き込んだのは、やはり守屋料理人による驚愕の晩餐についてであった。

 ようやく日記を書き終えて、ふと机の横長の引き出しを開けてみると、中から昆虫の標本が入ったプラスティック製のケースが出てきた。縦横二十センチくらいのほぼ正方形をしたケースに、一匹の蝶が虫ピンで留められている。横に貼られたラベルによると、この蝶は、カラスアゲハ、という種であるらしい。

 一見、ただの黒い蝶のようであるが、よく見るとその羽の鱗粉にはマゼンタ、シアン、アップルグリーンなどの美しい色彩模様が組み込まれていて、見る角度によってその輝き方が変化していた。

 アオスジアゲハやキアゲハなどのような、見た瞬間に誰もが綺麗だと思う派手な模様も良いけれど、このカラスアゲハのように、全体に落ちつきがあって、細かな部分で趣きが感じられる模様の方が、どちらかといえば私の好みである。

 それにしても、部屋の装飾品のつもりだろうか。まさか蝶の標本が引き出しの中にしまってあるなんて。


 かれこれしている内に、時刻が七時になった。朝食の時刻だ。

 食堂に集まった私たち四人は、めい々が昨日の晩餐と同じところに着席した。どうやら暗黙の了解で、テーブル座席はそのように確定してしまったようだ。

 さあ、期待に胸を膨らませる朝食はというと、サワークリームが添えられた蜂蜜パンケーキに南瓜カボチャの冷製ポタージュスープ、メインの苦瓜ニガウリとベーコンの卵とじ炒めにはアボガドのスムージーソースがかかっていて、最後に出てきたデザートはクリームチーズのように濃厚で砂糖は入っていないのにほのかな甘さが感じられるプレーンヨーグルトであった。

 昨日の晩餐を同様、一つひとつの料理には私にはわからない隠し味が仕込んであるようで、その味は複雑に絡み合った深遠なものとなっていて、少なくともここに書き出した素材だけ作られた単純な料理ではなさそうだ。とにかく、至福の朝食であったことはいうまでもない。

 食事を済ませると、いよいよ私の決意は確固たるものとなった。午後に行われる遺言状の公開前に、あの謎に満ち溢れた尖塔に上ってみようと。


 大河原夫人が二階のピアノの部屋に掃除をしに入っていくのを、小さく開けたドアの透き間から見届けた私は、急ぎ足で大階段へ向かった。

 上り始めてみると、三階まではすぐなのだが、そこから先の屋根裏まで続く階段はすごく長く感じた。もう何年もの間掃除がなされていないようで、足元や手すりには薄っすらとほこりが積もっている。つま先立ちでそろそろと進んでいくと、ようやく目の前に屋根裏と思しき場所が広がっていた。

 屋根裏部屋――。そこは何もないほこり臭くて空虚な空間であった。き出しの床面に、採光のための小さな天窓があるだけで、白くて殺風景な塗り壁が淋しく四方を覆っていた。天井は私が背伸びをしても届かないくらいには高くなっているが、明らかに下の階とは様子が異なり、とても居住に適しているとはいえなかった。

 摩奈の話に出てきた、開かずの扉、らしきものは、どこを探しても見つからなかった。七年も昔の話だから、ひょっとしたら摩奈は何か別のことと記憶が混同しているのかもしれない。

 大階段はここで途切れていたが、対面の壁に近づいてみると、回廊を歩いている時にはわからなかったが、右手に曲がったところに小スペースができていて、そこに大きな梯子はしごがさらに上へ伸びていた。天井にポッカリと開けられた穴を梯子は貫いており、その先は闇で見えなかったが、おそらく尖塔へ続いているのであろう。


挿絵(By みてみん)


 躊躇とまどうことなく、私は梯子をつかんだ。上ってみると梯子は全部で五つあって、それぞれの梯子と梯子の繋ぎ目には、辛うじて転回ができるほどの簡素な踊り場が造られている。まるで狭いトンネルの中を移動する土竜もぐらのような心地で、私は上っていった。ようやくてっぺんに辿り着くと、そこは四畳半ほどの狭いスペースで、腰の高さほどしかない低いフェンスが周囲を取り囲んでいた。頭上高くに銀色に輝く大きな鐘が釣り下がっていたが、表面が少しさび付いていた。

 高いところはそんなに苦手ではないので、私は平然とフェンスまで乗り出した。すると、そこに広がっていたのは、言葉に表せないほど美しくて壮大な景観であった。

 摩奈がいっていたとおり、ここからは上栗村の中心集落が眺望できる。門から屋敷まで、あれだけ長かったあの小道も、上から眺めるとその形状が手に取るようによくわかった。大河原氏がいっていた敷地内の森も一望できた。森にはところどころには樹木の切れ間ができているが、その中で、あざみ館の先にある別館からさらに奥深く入り込んだところにある樹木の切れ間に、煙突が付いた黒い屋根のこぢんまりとした小屋が見えた。

 微風そよかぜが心地よくほおを撫でていく。時を忘れて私は座りこんでいた。ふと下を眺めて、あらためて母が転落した事故のむごさを実感した。もしここから足を滑らせようものなら、間違いなく生命いのちは無いであろう。眼下の遥か先には固くて冷たいコンクリートの地面が露出していた。

 突然、見えている景色がフラッシュバックして、七年前の転落事故直後の光景を塔の上から眺めているような変な気持ちになった。セピア色をしたモノトーンの映像が無声サイレント映画のように私の脳裏に映し出されていく。

 私と同じ容姿の女性、いや、私自身が真下のテラスの真ん中で、頭部から血を撒き散らして横たわっていた。しばらくすると、音に驚いた大河原氏とそれに続いて守屋料理人が女性の傍に駆けつけてきた。少したってやって来た大河原夫人は、女性の遺体を見ると、気が狂ったようになって、意味の分からぬ大きな声を張りあげた。

 その後しばらく間をおいて、車椅子に乗った摩奈が玄関から出てきた。ここからはよくは見えないはずなのだが、摩奈の表情は氷のように感情が現れていなかったことが、なぜか私にはわかった。

 もちろんその女性は私ではなく、五月女摩由姫ということになるのだが、単なる私の想像の産物とはいえ、まるで本当リアルを見ていたかのような妙に生々しくて鮮明な映像でもあった。


 塔から下りてくると三階に摩帆が歩いていたので、さっそく訊いてみた。

「摩帆姉さん、森にある黒い屋根の建物は、何なの」

「あら、もうあんなところまで行ってきたの」

 摩帆は少し驚いたような表情をした。「あれはね、火葬場よ」

「火葬場?」

「うふふ、この敷地内で人が亡くなっても、外部の人間には知られずに遺体が処理できるのよ。便利でしょ」

 半分冗談なのか本気なのか、とにかく摩帆は薄気味の悪い笑みを浮かべていた。

「あ、そうだ。摩耶さん。もし良かったら、今から私の部屋へ来ない」

 いきなり、摩帆が誘ってきたので、

「ええ、喜んで」と、私は一も二もなく申し入れを承諾した。

 

 前にも述べたように、三階の廊下には白い扉の小部屋が二つと同じく白い扉の大部屋が一つある。

「ここが、私の部屋よ」

 摩帆が大階段の一番近くにある小部屋の白い扉に手をかけた。この扉にも鍵は付いていなかった。

 摩帆の部屋――、そこはベッドにテーブル、それに本棚にクローゼットという、極めてシンプルな内装だった。本棚には、流行はやりの小説や、理工学の専門書が並んでいた。

「とても、難しそうな本がたくさんありますね」と、私は思ったままのことをそのまま口に出した。

「ああ、ここにいると何もできなくなるからね。だから勉強道具を持ってきたのよ」

 そうなのか、と感心しながら本棚を見回していた私は、下の段に立てかけてある蝶の標本を見て、ぎくりとした。

 それは私の部屋にあったのと同じ黒いプラスティックケースに入っていて、中にはアゲハチョウよりは少し小さめの緋色の蝶が三匹、虫ピンで留められていた。

 ケースの脇にはやはり蝶の名前が記されていて、それによると、どうやらこの蝶は、アカタテハ、と呼ばれる種であるらしい。

 やはり何か意図的なものを感じる。私の部屋にはカラスアゲハの標本が、そして、摩帆の部屋にはアカタテハの標本が置いてあるのだ。おそらく摩奈の部屋にも蝶の標本が置かれているはずだ。

 私はケースをあった場所にそっと戻した。

「摩帆姉さんは大学生ですか」

「そうよ、今月の末には大学院入試の一次試験があるから、本当はこんな片田舎で遺産問題になんてかかわっていたくないんだけどね」

 摩帆はうんざりしているように両手を上に向けて首を傾げた。

「大学院入試って、摩帆姉さんはまだ二十歳はたちじゃないですか」

 聞き間違いかなと思った私が、問い返すと、

「ああ、私、学年を二つとび越しているから」と、摩帆はあっさりと答えた。

 母が帝都大学の博士なら、長女は弱冠二十歳で大学院に進学しようとする秀才だ。それに引きかえ……、と私は同じ一族である自分が情けなくなってきた。

「摩奈さんはずっとここに住んでいるの」

 私は話題を変えてみた。

「そうね、摩奈は生まれてから今までずっとここにいるわね。十七の時に私が大学に合格して上京するまでは、私たちはずっと一緒にここで暮らしていたわ」

 摩帆は椅子を跨いで背もたれに向けて腰を下ろし、背もたれに肘をついてその上に顔を乗せたまま、じっとこちらを見つめていた。

 時と場所を同じくして生まれた三つ子なのに、母の摩由姫は、なぜか私一人だけを他人の家族へ預けた。何か、やむを得ない事情があったのだろうか。詳細はわからないけれど、私は一抹のやるせなさを感じていた。

「三階の、ほかの部屋はどうなっているのかしら」と、私が訊ねると、

「隣の小部屋は空き部屋ね。掃除を全くしていないから、寝る場所もない始末よ」と、摩帆が答えた。

「向かいの広い部屋は、何の部屋なの」

「そうね、じゃあ、ついていらっしゃい」


 摩帆は部屋を出ると、まず隣部屋の白い扉の真鍮のドアノブをひねった。いわれたとおり、中は埃だらけで何の調度品も置いてなかった。次に、私たちは向かいの広い部屋の前にやって来た。扉を開けると、そこは背の高い本棚がぎっしりと並んだ蔵書室であった。

「この本はね、全部母の所持品なの。私が小さい頃からここにあったのよ。鍵はないから、読みたい本があれば、何時いつでも自由に持っていっていいわ。もっとも、ほとんどが専門書だけどね」と、摩帆が説明した。

「こんなにたくさんの本があるのに、ちょっと不用心ですね」

「そうね。今じゃ、あざみ館の中で鍵がかけられる部屋といったら、摩奈の部屋だけになっちゃったわね。

 まあ、よそ者が自由に往来いききできるところでもないしね、ここは」

 私は軽くうなずくと、蔵書室を後にした。


 摩帆と別れてから、私はとぼとぼと庭を歩いていた。あの黒い屋根の火葬場まで行ってみようと思ったけど、緩やかな上り坂が長々と続いているみたいなので、あっさり断念した。車が走れる道路はあるのでいざという時は車で運ぶのであろう、万が一にもこの敷地内で遺体が出ようものならば。

 そんな取るに足らないことを考えていると、妙におかしくなってきて、私はくすくすと一人で笑い出した。こんな片田舎のお屋敷に用意された火葬場なんて無用の長物のように思えたからだ。

 蓮池の手前で人が座り込んで草取りをしていた。多分、庭師の佐久間老人であろう。近くに行って声をかけてみたい気がするが、ちょっとどきどきする。相変わらず初めての人は苦手だ。どう反応してくるのか全く読めないし。

 結局、意を決して話しかけてみることにした。後ろ手を組みながらそろそろと近づいていくと、さすがに向こうも私に気づいた様子で、

「なんじゃ、摩帆か。何か用け?」と、ぶっきらぼうな声が返ってきた。

「あっ、ごめんなさい。お邪魔しました。

 でも、私は摩耶ですけど」

 佐久間老人は、サンタクロースのような白い髭を長々と伸ばしていて、サスペンダーが付いたオーバーオールのデニムズボンの中には薄手の長袖シャツを着込んでいた。彼はそろそろと立ち上がると、私の方へゆらゆらと近づいてきて、麦わら帽子の下から私の顔を見上げるようにのぞき込んできた。

「摩耶じゃと。お前さん、どう見たって摩帆じゃねえか」

「はい。だから、私は摩帆の妹の摩耶で、私たちは姉妹なんです。えっと、摩奈まで入れると、三つ子なんです。私たち三姉妹は」

 いつものことながら、自分たち三姉妹の説明になると、どうしてもたどたどしいものになってしまう。

「摩由姫さまの二人の娘がことごとく母親に似とるのも不思議じゃと思っとったが、お前さんもまあずそっくりじゃのう、摩由姫さまに。

 三姉妹じゃと。年老いたわしにゃ混乱して何をいっとるのかわけがわからんっぺ」

「お母さんをご存じなの」

「摩由姫さまか。それはお美しい方じゃったな。うむ、お前らなんかとは全然違う。気品があって、いつも凛々しくされておられたのう」

 過去の追憶にひたるのは勝手だが、その偶像と私たちとを比較されても迷惑だ、と私は思った。

「その、どう違うのかしら。私と母とでは」

 無駄かもしれないと思いつつ、訊ねてみた。

「とにかく摩由姫さまは話し方から違うのじゃ。なんじゃ、お前らのその馴れ馴れしくて軽率な言葉遣いは」

 どうやら想像するに、私たちのしゃべり方に問題があるらしい。五月女摩由姫がこの老人にしていた気品のあるしゃべり方とはどんなものだったのだろう。

「今日も庭がとてもきれいよ。佐久間、よくやっているわね。この調子でこれからも励むのよ」

 わざと適当に雰囲気を変えて話しかけてみると、思いのほか効果があったみたいで、老人が目の色を変えてぴょんと飛び上がった。

「はっ、ありがたき仰せで、摩由姫さま。お久しぶりで、佐久間はまあず嬉しゅうごぜえます」

 言葉尻をちょっと変えただけで、佐久間老人はこの私のことを摩由姫であると思い込んでしまったようだ。

「たしか、あざみ館の庭園はあなたが一人で管理しているのよね」

 調子に乗った私は立て続けに問いかける。

「はい、そうでごぜえます」

「森まで全部を?」

「はい。最近は身体が思うように動かんで、少々さぼってはおりますが」

「そうなの、身体には十分気をつけなさいね」

 適当に言葉を並べただけなのだが、佐久間老人はぼろぼろと涙をこぼしていた。しだいに面白くなってきた私は、転落事故のことを訊いてみようと思い立った。

「私が塔から落ちた時のことを、あなた覚えている?」

「はい、もちろんでごぜえます。あんなにひどい事故をお受けになったにもかかわらず、このようにお元気なお姿になられて、まんずえかった、えかった」

「その時、誰がここにいたのかしら」

「はい、たしかあん時は、このわしと料理人の守屋に、大河原とそのかかどん、それから摩帆と摩奈がおりました」

「他には誰もいなかったの」

「はい、そうでごぜえます」

「私が落ちたのをあなた見ていたのね」

「いんや、わしはそん時は森の中で枝落としをしてましたんで、直接見ていたわけではごぜえません」

「その時、摩奈ってもう車椅子だったかしら」

「ええと、そうですな。摩奈が事故に遭った時に、摩由姫さまが珍しくうろたえられたのをわしはよおく覚えとります。だから、転落はその後の出来事でごぜえますな。間違いありゃしません」

 佐久間老人は当時のことをしっかりと覚えているようだ。

「摩奈は元気にしているかしら」

 摩由姫のふりをして、私は摩奈のことも訊いてみようと思った。

「ああ、摩奈は元気でごぜえますよ。車椅子の癖に芝生の上にのこのこ出てきおって、わしの手伝いをしております。せっかくきれいに手入れした芝生が荒らされちまうんで、わしゃ少々閉口しとりますがのう」

「森に入って薬草を取って来るって聞いているけど」

「時々、泥んこに入りこんで動けなくなり助けを呼ぶこともごぜえますが、まあげんきんな娘ですよ、摩奈は」と、老人は笑っていた。

「車椅子に乗っていて、草なんか摘み取ることができるの」

「摩奈はいろんなリーチャーを持っとりますからな。あれで普通の人ができることは何でもできます。はっはっは」

 リーチャーとは、介護用に作られた遠くのものを掴むための道具で、いわゆるマジックハンドのことである。

「邪魔をしたわね。さあ、仕事に戻りなさい」

「はい、摩由姫さまもお身体をどうぞ大切になさってくだせえ」といって、老人はいつまでも深々と頭を下げていた。

 最後までだまし続けて申し訳なかったけれど、様々な情報も手に入ったし、私は佐久間老人との会話に満足をしていた。


 昼食が済ませてから三時の遺言状の公開までには少しだけ暇があった。いうまでもないことだが、今日の昼食も申し分のないものであった。

 カッペリーニの冷製パスタが三種の小皿に分けて出された。一つ目はアボガドのスムージーが添えられた生ハムのカルボナーラで、二皿目はナスや苦瓜などの夏野菜が入ったイタリアン風トマトソース、最後は柚子と胡椒の風味がする明太子パスタであった。食事だけとってみれば、ずっとこのままここにい続けたいものだと私は思った。

 外を見ると、車椅子の摩奈と守屋料理人と思われるコック帽をかぶった背の高い人物が、テラスのハーブガーデンの前で話を交わしている。私は一階の広間ホールに戻ると、周りに誰もいないのを確認して、チャンスとばかりにそっと摩奈の部屋のオーク扉に手をかけたが、残念ながら扉には鍵がかかっていた。昨日、部屋に招き入れてもらった時に、蝶の標本の有無を確認しておけば良かったと、私はあらためて後悔した。

 まだ、守屋氏とは話をしていないし、ちょうどいい機会だからと、私は外に出て、摩奈と守屋氏の二人に近づいていった。

「あら、摩耶姉さん」

 さっそく私に気付いた摩奈が車椅子から手を振ってきた。

「こんにちは、摩耶です。あの、守屋料理人シェフですか」

 近くに寄ってみると、白いコックコートにサロンエプロンを装着した守屋氏は、グレーの髪から察するに年は五十前後で、細身で背が高く、色白の顔はしっかり引き締まっていて、思ったよりも美形ハンサムであった。

「ああ、君が摩耶かい。初めまして。

 どうだい、あざみ館は。暇を持て余していなければ良いのだが」と、守屋氏が年齢には不相応な言葉遣いで返事をした。

「大丈夫よね、摩耶姉さんなら」と、摩奈が陽射しを避けるための傘が取り付けられた車椅子から笑顔を見せた。相変わらず摩奈には涼しそうな麦わら帽子と白いドレスが似合っている。

「そうね。ここには色々と自然もあるし、ちっとも退屈しないわ」と、私は返しておいた。

「それは良かった。都会の人間はここに来るとどうしても落ち着かないみたいなのでね」

「守屋さんの料理が毎回美味しくて、驚いています」と、私がいうと、

「ああ、そうかい。気に入ってもらえて光栄だよ。摩耶は何が好きなんだい」

「えっ、私ですか。ええと、絵を描くことです」

「あっ、僕が訊ねたのは料理のつもりだったんだけどね」と、守屋氏が笑いながら頭を掻いたので、私は顔を真っ赤にして、

「あっ、すみません。私は、そうですね、何が好きなんだろう」と、しどろもどろになった。

「摩耶姉さん、見てくださらない。このハーブガーデンは守屋さんと摩奈が作ったのよ」と、摩奈が自慢げに両手を広げた。

「摩奈さんが作ったの。へえ」と私が感心すると、摩奈は嬉しそうだった。

「摩奈は植物について色々調べていて詳しいからね。おかげで、僕の料理に引き立つようなたくさんのハーブがここで栽培されているってわけだ」

「森の中にもずんずん入っていっちゃうって、佐久間のおじいさんがいっていたけど」

「最近は迷惑かけていないのよ。昔はちょっとあったけどね」

「ははは、水に入らずに水を怖がるよりも、水の中に入ってその怖さを知ることの方が大事だからな。摩奈は間違っていないよ」と、守屋氏が摩奈をかばった。

 この時私は何となく、守屋氏が私たちのお父さんであったらいいな、という気がしていた。

「守屋さん、母のことは御存じなの。私、母のことは全く知らないから」と、思い切って母に関する話に振ってみた。果たして守屋氏はどんな返答をするのだろうか。

「ああ、摩由姫かい。そうだなあ、頭が良くてプライドが高い女だったな。

 僕の料理をことのほか気に入ってくれてね、おかげでしがない料理学校の見習い研究生だった僕を抜擢して、フランスのル・コルドン・ブルーへの留学の資金援助までも提供してくれたんだ。本当に感謝しているよ。彼女には」

 守屋氏の話からは、母が美人だという麗句は一言も出て来なかった。母のことをどう思っていましたか、という野暮な質問はさすがにやめておいた。


 この時、私は心地よい安堵を感じていた。あざみ館の人々はみんな良い人たちばかりだと。

 血の通った姉妹である摩帆や摩奈とも仲良くなれたし、使用人の大河原氏や守屋料理人、それに弁護士の松川氏は気さくでとてもいい人たちだ。大河原夫人や、佐久間じいさんはちょっととっつきにくい面はあるけれど、根は決して悪い人たちではない。

 でも、この思いが根底から間違っていたことを、この後で、私は嫌というほど思い知らされることになる。あざみ館に集結した八名の人物の中には、邪悪な心の持ち主がこっそりと潜んでいたのだ。


 時刻は間もなく三時を告げようとしている。

 さあ、いよいよやって来たのだ。五月女摩由姫の遺言状が公開される八月七日の午後三時が……。

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