五. 実 母
時計の時刻はもう九時をまわっていた。その時の私は、待ちに待ったシャワーを浴びて快適な気分にひたっていた。
食事の後で摩帆に訊いてみたら、シャワー室は誰も使っていなければいつでも勝手に使っていい、とのことだった。ただし、注意しなければならないのは、シャワー室自体が鍵をかけられる構造にはなっていないため、中にいる時は、外のドアノブに『ただいま使用中』と書かれた表札をかけておかないと、うっかり他の者が入ってくるかもしれない危惧があることであった。服を脱いで裸でいるところへ大河原氏に入って来られてはたまらないから、私は素直に忠告に従って、棚に置いてあったその表札をしっかりと外に掲げておいた。
身体を洗い終えて浴室から出てきた私は、脱衣場の大鏡の前に座って、髪をとかしていた。ふと棚に目を向けると、小物入れのトレイの中に緑色の蝶々の形をしたブローチが置いてある。どうやら先ほどの食事の最中で話題となったブローチのようだが、さっきまでここにあることに気づかなかったのがとても不思議だった。
とにかく一刻も早く摩奈に届けてあげなくちゃとばかりに、私は急ぎ足でシャワー室を後にした。
一階と二階の途中にも踊り場があった。あざみ館は一階の天井だけがひときわ高いために、一階と二階の間の階段は特別に距離が長くなっている。あざみ館に最初に到着した時には大階段は使わずにエレベーターで二階まで上がったから、今になって初めて私はここへやってきたことになる。
その踊り場の壁には、巨大な額に収納された女性の肖像画がかかっていた。何気なくそれを眺めた瞬間、私は全身が凍りついたように呆然とその場に立ち尽くした。
私の肖像画?
そう。肖像画に描かれている女性は、紛れもなく私自身であったのだ。
いや。そっくりだけど、よく見れば私とは少し違う。無論、摩帆や摩奈でもなかった。私たち三姉妹よりも、何となくだけど、雰囲気が落ち着いている。
その女性は、淡い藤色のイブニングドレスに身を包み、膝上に猫を乗せ、魅惑的な瞳で物憂げに前方を見つめながら、背の高いビロードの安楽椅子に腰をかけている。
もしかすると……、
「お母さん」
ほとんど悲鳴とも取られそうな甲高い声を私は発していた。
「そのとおり、私たちの母、五月女摩由姫よ」
いつの間にか、後ろに摩帆が立っていた。
「摩帆姉さん、この人が私たちのお母さんなの」
「そうよ。気味が悪いくらいに瓜二つでしょ、私たちに。
幼い時はそんなに気にならなかったけど、成長するにつれて母に似てくる自分が、だんだん怖くなってきたわ」
摩帆にいわれるまでもなく、私も同じ恐怖を感じていた。
「お母さんは、その、いつ亡くなったの」
私の質問に一瞬の間をおいてから、摩帆は遠くに視線を移すと、ささやくようにぽそっと呟いた。
「七年前にね、塔から転落したわ」
「転落?」
背筋に冷たいものが走った。
「ああ、そうそう。そのブローチ、摩奈に返してやってね」
そういって、摩帆はくるりと背を向けると、すたすたと階段を上っていってしまった。
一階の鍵がかけられるオーク材の扉の前に私は立っていた。琥珀色の頑丈なこの扉はいつ見ても威圧的な感じしかしてこない。元々は書斎であったらしいが、現在は摩奈の個室になっている。
ノックをすると、ガチャリと錠前をはずす音がして、車椅子に乗った摩奈がぬっと顔を出した。
「摩奈さん。これ、シャワー室に置いてあったわよ」
私が緑色のブローチを差し出すと、
「ああ、あれね。ありがとう」と、意外に淡白な反応だった。
摩奈は何かいいたげな様子でおどおどとうつむいていたが、やがて意を決したかのように「摩耶姉さん、ハーブ茶を飲んでいきませんか」と誘ってきた。
「ああ、それじゃあ、ちょっとね」といって、私は部屋の中に入った。私のほうとしても、摩奈とはお話がしてみたかったので、この提案は好都合であった。
摩奈は戸棚に手を伸ばしてティーカップを二つ取り出すと、鼻歌を口ずさみながら、机の上の電気ポットからお湯を注いで、手際良くお茶の準備をしていた。
「何でも、一人でできるのね」と、私が感心すると、
「私ね、摩耶姉さんがあざみ館に来てくれて、とっても嬉しいのよ」と、はしゃぐように摩奈が答えた。「ごらんのとおり、私とお姉さんってそんなに仲がいいわけじゃないしね」
「へえ、そうなんだ」と、私があいづちを打つと、摩奈はますます上機嫌になった。
「ずっと、私たちって双生児だとばかり思っていたから、摩耶姉さんのことを聞いた時には、本当に驚いちゃった」
「いつ、それがわかったの」
「えっとね、いつだったかな。そうだ、あれは先月のこと。お姉さんがあざみ館に帰省してすぐだったわ。
大河原のおじいさんがいったの、あなたたちは実は三つ子なんですよ、って」と、あどけない笑顔を振りまきながら、摩奈が答えた。
どうやら、私だけでなく、摩奈や摩帆も、自分たちが三姉妹であるという事実を、つい最近まで知らなかったらしい。
もう一つ気になることを私は摩奈に訊いてみた。
「母が転落死したって、摩帆姉さんから聞いたんだけど」
「お母さまね。転落したのは私が交通事故に遭った後だから、もう七年も前のことよ。
とにかくね、塔の天辺から落ちたってことは事実なの。でも、このとおり私は塔までは上れないから、その時の詳しい状況はよくわからないんだけど」と、摩奈が小首をかしげた。その仕草は、本当によく知らないみたいに見えた。
「ねえ、お母さんってどんな人だったの」
「うんとね、千里眼みたいな人」
「千里眼?」
「そう。なんでもお見通しなの。私の隠し事も全部」
「よくわかんないな」
きょとんとする私の様子を見て、摩奈はちょっと困ったような顔つきをしたが、
「ああっ、そうだ。摩耶姉さんは塔には行ってみたの?」と、別な話題を切り出してきた。
「いいえ、さっき家政婦の大河原さんに止められちゃったから」と、私は口をすぼめた。
「そうなの。まあ、そうでしょうね。
でも、一度行ってみるといいわよ。私もこうなる前にはよく上っていたんだけど、町の向こうまで見えちゃうんだから」
町というのは、おそらく門外にあった小さな集落のことであろう。
「そこの大階段を上っていけばいいのよね」と、私が確認すると、
「そうよ。三階をさらに上っていけば、まず屋根裏があって、そこからもう一つ上れば塔に出ることができるわ」
「途中に屋根裏があるんだ」と、私が訊ねると、
「そうそう。そこには、開かずの扉、があってね。いつも鍵がかかっていて、中には入れないのよ。
今はどうなっているのかなあ」と、摩奈がいった。
「開かずの扉?」
「うん。時々、人が呻くような音が中からしてきてね。
ちっちゃい頃の記憶だから、あんまりはっきりとは憶えていないんだけど」
冗談か本当かよくわからないが、無邪気そうな顔をしながら相当気味が悪い話を、摩奈は平然と口にした。
「ねえ、私たちのお父さんってどんな方だったの」と、私はさり気なく話題を変えてみた。
「さあ、知らないわ。お姉さんも、そんなこと一度もお母さまには訊ねたことがないかもしれない。
さあ、できたわ。どうぞ召し上がれ。摩奈特製のハーブ茶よ」
摩奈は黄色い色をした液体がなみなみ注がれたカップを私の前に差し出した。香りはとても良いけれど、すごく苦かったりして。なんて、私は勝手な想像をしながらも、その液体を口に含んでみた。
それはほのかな甘みがする、飲みやすくて、とても落ち着く感じのするハーブ茶だった。
「どう、美味しい」
摩奈がのぞき込むようにして訊ねてきた。
「うん。とっても美味しい」
「そう、良かった」
摩奈はとても嬉しそうだ。
「なんのお茶なの」
「ゲンノショウコとドクダミを合わせたものなの。あとは香りづけにマリーゴールドとレモングラスをちょっとだけ混ぜてあるわ」と、摩奈が得意げに説明した。
「すごいわ。どこに注文するの」
「注文なんかしないわ。森から取ってきたのを私が調合したのよ。マリーゴールドなんかはそこのベランダで栽培しているし」
「そうなんだ」
「これでも私、植物についてはちょっと詳しいの。いろんな野草をすりつぶして調べるのが趣味なのよ」
そういえばこの部屋の奥には大きなテーブルがあって化学のビーカーや試験管などの実験器具がそろっている。脇にあるガラス戸棚の中には薬品と思しき瓶も並んでいた。
「そのお、野草を摘む時車椅子だと何かと不便じゃない」
ちょっと心配になったから訊ねてみたのだが、
「そうねえ、一人で行くこともあるけど、たいていは佐久間おじいさんといっしょに散策するのよ」と摩奈は答えた。
「庭師の佐久間さんね」
「うん。でもね、中には汁を触るとかぶれちゃう草もあって、手が荒れちゃうこともしょっちゅうなの。今はたまたま大丈夫なんだけど」と、摩奈は両手をこちらに向けて開いて綺麗な指を見せた。
「それは大変。そういう時はちゃんと手袋をしなくちゃだめよ」と、私は軽い気持ちで注意を促したのだが、
「私、ゴムの手袋なんか大嫌い。だから、そんなの絶対にしないわ」と突っ放すような返事が返ってきた。そのいい方がこれまでとは明らかに違っていたので、ちょっと驚かされた。
「何か研究の成果は出ているのかしら」
気を取り直すように、私は話題を切り替えた。
「ぼちぼちね。でも結果より調べていること自体が私は楽しいのよ」と、摩奈はきらりと目を輝かせた。
「もう遅くなっちゃったね。いろいろ教えてくれてありがとう」
私が礼をいうと、摩奈は愛らしく微笑んで小さく右手をふった。私は摩奈の部屋を出て、二階の自室に戻った。
とにかく摩訶不思議で驚きの連続の一日であった。
自分と瓜二つである姉妹と母の肖像画、七年前に母が転落した塔、そして、摩奈がいっていた屋根裏にあるという開かずの扉――。
「これじゃあ、ちょっとしたホラー小説よね」と、私は独り言を呟いてそのままベッドに大の字になって倒れ込んだ。
様々な疲労が積み重なったためか、その夜はそのままぐっすりと寝入ってしまった。