四. 晩 餐
夕食までにはまだ間があるから、もう一度この屋敷を探索してみようと、私は女工作員になったつもりになって、部屋のドアを少し開けて外の様子をうかがった。廊下には人の気配は全くしない。
任務遂行に支障は見当たらず、万事順調なり、と子供じみた独り言を呟いて、そっと部屋から抜け出ると、音をたてないように注意しながらゆっくりとドアを閉めた。
真向かいは食堂になっていて、こちらの部屋を二つ分合わせた広さを持つ部屋だった。扉が開いているので中の様子が筒ぬけになっている。優に十人が座れそうな大きな長テーブルが置いてあるが、まだ料理は何も並んでないし、周りには誰もいなかった。
でも隣の調理室からは、カチャカチャと忙しない音が絶え間なく響いていて、美味しそうな料理の芳香が辺り一面に立ち込めていた。
いつもの癖で両手の指を組んだ状態で大きく背伸びをすると、私は広間のほうへ歩みを進めた。すると、館内を縦に突き抜けるらせん階段が現れた。大きな古時計のあった例の階段だということはすぐにわかった。
階段の二階と三階の途中には踊り場があって、そこに人と等身大の白い彫像が置いてあった。若い女性の裸の彫像だ。
右肘を高く突き上げて後ろ髪を押さえながら、細身の綺麗な身体を妖しげにくねらせている。豊かな両胸があらわにさらされていて、無表情な顔は斜め上方を物憂げに見つめている。芸術的だと称する人もいるかもしれないけど、官能主義が誇張され過ぎている感もあって、私はどちらかというと不快な印象を持った。
来る途中で大河原氏がいっていた私の仕草って、もしかしたらこの彫像をそのまま思い浮かべていたのかもしれない。だとすれば少々心外だ。
そういえば、摩奈はここまで来ることができないんだな、と急に彼女のことが不憫になった。大河原氏の説明によれば、あざみ館のエレベーターは二階までしか設置されていないので、車椅子の摩奈は三階まで上って来れない。
三階にも下の階と同じように廊下がある。そこには白い扉の部屋が、左に二つと、――らせん階段の側から見ての左なので、二階の食堂の真上に相当する、右に一つの、合わせて三つしかなかった。数が少ない分、下の階と比べるとやや廊下の奥行きが貧弱に感じられる。
私はさらに上へと目をやった。階段はまだ伸びている。おそらく、外で見たあの美しい尖塔へと繋がっているのだろう。先が見えなくてどこまでも続いていそうならせん階段には、何となく神秘的なときめきを感じる。天国へ続く階段って、案外こんな感じなのかもしれない。
とその時だ。
「摩帆さん――、上に上ってはいけませんよ!」
突然、背後から大声がした。びっくりして振り返ると、家政婦らしき中年の婦人がこちらを睨んで立っている。
「ごめんなさい。知らなくて。
あっ、私は摩耶です。今日こちらにやって参りました」
素直に謝ると、逆にその女性が、驚いた様子でおどおどとしはじめた。
「こっ、これは、失礼いたしました。摩耶さまでしたか。
家政婦の大河原と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
想定外の初対面に、互いに硬直状態となってしまっている。この間の悪い雰囲気を払拭しようと、私から切り出した。
「大河原さんとはご夫婦ですの」
「はい。もう十七年もの間、このお屋敷でお世話になっております」
思った以上に効果があったみたいで、大河原夫人の顔がちょっとやわらいだ。私はほっと胸をなで下ろす。
夫人が出てきたのはオーク扉の部屋である。一階の摩奈の部屋や、二階の私が勝手に集中治療室かもしれないと思い込んだピアノの部屋と、同じ構造の扉ということだ。
つまりあざみ館は、一階から三階までのそれぞれの階で、同じ場所に同じオーク材でできた扉を持った三つの部屋を有していることになる。
大河原夫人は雑巾を手にしていた。きっと部屋の中に飾られている調度品を拭いていたのであろう。
「あのお、今出てこられたお部屋は何の部屋ですか」
恐る恐る夫人に訊ねてみると、
「ああ、ここは摩由姫お嬢さまのお部屋でございますよ」と、あっさり返事が返ってきた。
五月女摩由姫の部屋……。
「中を見てもいいですか」と訊いてみると、意外にも二つ返事で許しがもらえた。
私はゆっくりとオーク扉の真鍮のノブを回した。二階の部屋と同じく、ここにも鍵は付いていなかった。
部屋の中はきれいに整頓されていて、机と本棚が置いてあったが、本は一冊も入っていなかった。それ以外も、特に目立つ物が見当たらないただ広いだけの部屋であった。さすがに亡くなってから七年も経ってしまえば、色々と物も片付けられてしまうのであろう。
少々拍子抜けした私は、黙って部屋を出て扉を閉めた。その間、大河原夫人は外でじっと待っていた。
「ついでにお訊ねしてもいいかしら、この階段の上ってどうなっているんですか」
今度もかなり気を遣って訊ねたつもりだが、夫人の反応はさっきとは大違いであった。
「上にはもう何もございません。危ないから、絶対に上らないでください!」
そのすごい剣幕に押されて、私は作り笑顔を浮かべるしかなかった。
かつての女主人の部屋に入るのはかまわないけれど、ここより上に行くことは絶対に許されないということか。
そこまで拒まれると返って上りたくなるのが人情であるが、ひとまずここは素直に撤退するのが賢明だ。
ベッドに横たわって天井の不連続な幾何学模様を見つめながら、私はぼんやりと考えていた。
あざみ館――。こんな人里離れた淋しい山奥に豪勢な洋館が建っているなんて、とても信じられないのと同時に、何とも感慨深いものがある。
上ることが禁じられた館のシンボルでもある尖塔――。七年前にはそこで悲しい事故が起こったそうだが、大河原夫人の言葉を単純に鵜呑みにすれば、単に危険だから上ってはいけないということらしい。
そうだ、七年前といえば――、摩奈が事故で下半身不随になったのがたしか十三歳の時、つまり七年前なのだ。でも大河原氏は、摩奈の事故が交通事故だったと断定していたから、必然的に塔の事故とは無関係であることになる。それでは、塔で起こった事故とはいったい何だったのだろうか。
そして、あまりにも酷似する三姉妹――。たとえ、一卵性の三つ子であろうとも、声まで含めてここまでそっくりなのはやっぱり珍しいと思う。というか、正直なところ、気味が悪い。
容姿が似ていると考えることまで同じになってしまうものなのか。摩帆や摩奈は何を考えてこんな屋敷で暮らしていたのだろう。
さらには、実母の遺言――。いよいよ明日の午後三時になれば遺言状が公開される。実の母、五月女摩由姫とはどんな女性だったのか。五月女財閥の顧問弁護士が直々に管理するほどの遺言状を残した人物だ。彼女は財閥の実権を握っていたのだろうか。まさか、そこまではあり得ないか。
そういえば、遺言の相続人っていったい誰だろう。わざわざ手紙でこんな片田舎に呼び出したくらいだから、私は当然その中の一人であるはずだ。大河原夫妻は単なる使用人に過ぎないし。ともすれば、五月女摩由姫の親族は私たち三姉妹だけしかいない、なんていう結末になりはしないか。もしそうなれば、この屋敷の規模から見積っても遺産はかなりの額になりそうだし、だんだん怖くなってきた。
突然、ノックの音がした。
「摩耶さま、午後七時でございます。晩餐のお時間でございますよ」
大河原氏の声だ。どうやら私は考えに没頭したままで微睡んでいたようだ。
「すみません。すぐ行きます」
慌ててベッドからとび起きると、足元にあるスリッパに足を通した。
食堂のテーブルの上には白い布がかけてあり、ゆったりと間を取って四本の燭台が置かれていた。オレンジ色に揺らめく蝋燭の炎に照らされて、彩り豊かな前菜が並んでいた。
テーブルの廊下側に用意された二つの席のうち、右手の椅子には摩帆が座り、左手には摩奈が車椅子のままでテーブルに着いていた。このテーブルは車椅子がちょうど潜りこめる高さになっていて、近づいてロックさえ下ろせば、摩奈でも自由に食事を取ることができた。
反対側にも席が二つ用意されていて、その右手――つまり摩奈の真向い――に当たる席が空いていたから私はそこに腰かけた。そして私の席の左側には、ここからの距離で見ても明らかに老眼鏡だとわかってしまうほど度の強い黒縁の眼鏡をかけた紳士が一人着席していた。
優に還暦は過ぎているように思われるその紳士は、五月女財閥の顧問弁護士の松川信太郎氏であった。そう、いわずと知れたあの手紙の差出人である。おそらく彼は明日の遺言状の公開のためにここに呼ばれているのであろう。
食堂にはクラッシック音楽が流れていた。私ははっとした。これは母の須美代が生前に好んでよく聴いていた曲だ。
物憂げで透明感のあるピアノの音がゆったりと進行していく。都会の裏通りにあるアトリエで、画家を志す青年が油絵を描いている時、窓の外を見ると小雨が降っていて、それが奏でる雨音のような、静かで不思議な旋律――変な表現かもしれないが私にはこのイメージがしっくりくる、に思わず私は在りし日の光景を思い返していた。
「いいですなあ。実に素敵な子守唄だ」
突然、松川氏がぽつりと独り言を呟いた。
「やだ、松川さん。サティのジムノぺディよ」と摩帆が訂正した。
摩奈が隣で必死になって笑いをこらえている。でも、当の松川氏はといえば、あまり気にしてはいない様子だった。
「母がこの曲をとても好んでいました。あっ、育ての母のことです」
もう我慢できないとばかりに、私が口を挟んだ。
「摩耶さんは学生さんですか。それとも、働いてみえますか」
松川氏の優しそうな顔が私のほうを振り向いた。
「大学はこの春に中退しました。育ての母が死んで、その、学費に行き詰まったからです」
「そうですか。それは、お気の毒でしたね。でも、ここの遺産を相続すれば、きっとまた大学に戻れますよ」と、松川氏が元気づけてくれた。
礼服姿の大河原氏が無表情で、透きとおったスープの入った皿を順番に給士している。私の前に最後の皿が置かれたのを確認すると、一同は一斉にスープに手を伸ばした。
銀色の匙にすくわれた金色の液体が万華鏡のようにきらきらと光を解き放っていた。美味しそうな匂いは、オニオンベースだけれども何か私の知らない香草がさらに加えてあるようだ。
期待に胸を膨らませて一口すすってみると、意外にもその味は極めて薄いものであった。狐に包まれたような気持ちになって、私はこっそり上目使いにほかの人の様子を確認したが、皆が目を閉じながら背筋を伸ばした姿勢で上品にスープを堪能していた。
もう一度スープをひと口すすってみた。
何だろう。やっぱり味はほとんどしないのだけど、さっきより身体じゅうに幸せ感が広がっていく。そんなに熱くなくて食べやすい温度のスープなのに、のど元を過ぎるとなぜか急に温かさを増すように感じる。と思った次の瞬間に、柔らかだけど複雑で繊細な後味が口の中に絡みついてきた。たかが野菜のスープだと思っていたけれど、間違いなく何か動物系の肉も含まれている。でもその味はごくわずかで、まるでかくれんぼしている子供のようだった。
美味しい……。
はじめこそとまどったものの、気が付けば無心に手が動いていて、スープ皿の底が見えた時、私は満足感から来る深いため息を吐いていた。
「お気に召されましたかな」
後ろから大河原氏が声をかけてきた。
「あっ。とっても、美味しいです。何だろう、初めて口にした味です」
「エシャロットのスープでございますが、隠し味に鴨肉をだしに使用しております」
「へえ、そうなんだ。何か動物の味がしたような気がしたんですよ」
「ははは、さすがは摩耶さま。良い味覚をお持ちでございますな」
また些細なことで褒められて、私は嬉しくなった。
「大河原さん、うん蓄もいいけど、給仕前の一服は控えてくださいね。せっかくの守屋さんの料理が台無しになっちゃうんだから」
かすかに服から匂う煙草臭さが気になったのであろう。摩帆がくぎを刺した。
「これはこれは、いつもながら摩帆さまのご意見は手厳しいですな」と、大河原氏は笑いながらも平に謝ったが、あまり強い反省はしていない様子でもあった。この二人のこういったやり取りは、どうやらこの屋敷での日常茶飯事な光景でもあるようだ。
さっきからずっと気になっていたのだが、松川氏の向こう側にある壁にはタペストリーが一枚かかっていて、それは明らかに人目につくよう意図的にかけられたものであった。大きさの割にデザインはいたってシンプルで、それは口で説明することができるほどだ。
まず全体の形状は横長の長方形で、そのちょうど中心の点から縦横に直線を引くと、全体の長方形はぴったり同じ形をした四つの長方形に等分される。さらにその四等分したのと同じ大きさの長方形をもう一枚用意して中央に横向きに置いてみると、長方形全体が五つの部分に分けられる。
つまり、中央には長方形があって、その四隅をL字型領域が取り囲んでいるのだ。
そしてその五つの部分は、それぞれが異なる五つの色で塗られていた。中央の長方形が明るい紫色で、左上が赤、右上は黒、左下が黄色で、そして右下は白だった。
中央の紫色の部分には例のあざみの紋章の図柄が描かれているから、このタペストリーはおそらく財閥の旗でないだろうかと推察される。
「おや、摩耶さんも気づかれたようですね。五色旗に」と左から松川氏の声がした。
「五色旗?」
「はい、そこの壁にかけられているのは五月女財閥のシンボルの旗ですよ」
「ああ、そうなんですか。デザインは単純なのに、結構目を引きますよね」
私は正直に思った感想を述べておいた。
「なんでも財閥の融和を象徴しているそうなのですが、私にはその意味はよくわかりませんな。
おお、そうだ。この旗のデザインはあなたのお母さんの五月女摩由姫さんが考案なされたものですよ」
「母が」
「あなたのお母さんは帝都大学の博士でした。とても美しくて聡明なお方でした」と、松川氏は腕組みをしながら昔を懐かしんでいる様子だった。
帝都大学といえば日本随一の名門大学である。そこで博士の称号を取得したということは、母はとんでもない秀才であったことになる。
「この旗には何か意味が込められているんでしょうか」と、私は深く考えずに疑問を呈示した。
「さあ、どうなんでしょうかね」と、松川氏は笑っていた。
「なるほど。そういうことなの」
突然、左前に座っている摩帆がぼそっとそういったから、私たちは驚いて一斉に彼女に注目した。
「あっ、ごめんなさい。今、摩耶さんの姿を見ていたら、ちょっとしたことを思いついちゃったんだけど、どうか気にしないで頂戴ね」
摩帆は恥ずかしそうに両方の手の平をこちらに向けて顔を隠した。
「摩帆姉さん。せっかく何か面白いことを思いついたのなら、ぜひ教えてくださいな」と、私は摩帆に促してみたのだが、
「いいえ、何でもないのよ。本当に」と、摩帆は頑なにそれを拒んだ。
後から冷静に考えてみると、摩帆は、五色旗のデザインに関して、この時、何かを閃いたのだ。そしてそれは声を出すほどの思いがけない発見であった。一方で、彼女は毎日あの旗をここで見続けているわけだから、たった今偶発的に彼女の頭の中に浮かんだ何かをきっかけにして新しい境地に踏み込んだことになる。
たしか、私の姿を見ていたらと摩帆はいっていた。明らかに私がここにいたという事実が、今回の彼女の発見を促す手助けにつながったらしい。けれども、詳細はさっぱりわからない。
「このお屋敷には、ほかにはどなたが住んでみえるのでしょう」
さり気なく私は話題を切り替えてみた。すると、すかさず摩奈がそれに呼応した。何とかして会話に割り込みたがっている様子が、彼女からはありありと伝わってくる。
「ええと、私たち三人姉妹と、そちらの松川さん。それから、大河原夫妻と、料理人の守屋さん、あとは、庭師の佐久間おじいさんの八人かな。 今、ここにいるのは」
どうやら、白馬に乗った王子さまはこの屋敷にはいない、ということが判明した。
「ほかの皆さんは、夕食はどうされるの」
誰に向けるでもなく、私が訊ねると、
「使用人たちは私たちの後で食事を取るから、心配しなくていいのよ」と摩帆がドライに返した。
すると、摩奈が摩帆の方にすっと顔を向けた。
「ところでお姉さん、お気に入りのブローチが見あたらないんだけど、ご存知ない」
「ああ、あれね。ちょっと借りただけよ。欲しければ、私の部屋から持っていけば」
摩帆はけろっとしていった。それを聞いた摩奈が癇癪を起した。
「まあ、意地悪ね。私が三階まで行けないのは知っているでしょ。
ねえ、摩耶姉さん。いつも、お姉さんたらこうなのよ」
と今度は私に振ってきたが、正直どう応えてよいか困ってしまう。
終わってみれば、晩餐の料理はそれは申し分のないものであった。手を尽くした小皿が次々と並べられたが、それらは決して華やかではないけれど、私たちが満足する適度な分量になるように計算された細かな気配りがなされていた。何よりも驚いたのは、これまで体験したことのないほどすばらしい素材を生かした繊細な味つけであった。
「まるで魔法のような料理だったな」と、食事がすんだ後で私が素直な感想を漏らすと、
「ここの料理人の守屋さんは大学院を出てから本場のフランスで修行したカリスマ栄養士でもあるのよ」と、摩帆がこっそりと教えてくれた。
自室に戻った私は、壁に立てられた大きな鏡をのぞき込んだ。そこには、お気に入りの黒いニットのブラウスに包まれた少々やつれ気味の素顔が映っていた。今日は初対面の人たちとたくさんの話をしたから、いつも以上に神経を酷使して疲れてしまったのかもしれない。
「さあ、シャワーでも浴びてこようかな」
誰もいない部屋の中で私はそう独り言を呟くと、指を組みながら大きく背伸びをした。