三. あざみ館
敷地の中はブナの森が蒼蒼と広がっていた。その木立の隙間を掻い潜って、白い石畳の小道が私たちを歓迎するかのように整然と敷かれていた。それはまるで、どこかからひょっこりと白雪姫の小人がとび出してきそうなおとぎ話の世界のようだった。
傍には小川が並行して流れていて、人がようやく通行できる小さな橋も架かっていた。赤レンガ造りのその橋は、土台が二つ半円形に切られていて水面に映るとちょうど丸い眼鏡のように見える、いわゆる眼鏡橋であった。
その脇を通り過ぎると、突然視界はさっと開けて、噴水のある蓮池とそれを取り囲むように芝生の庭園が現れた。そこには色とりどりの花が咲いていて、あまりの美しい景観に私はただうっとりと見とれるしかなかった。
蓮池の向こうに巨大な洋館がひっそりと佇んでいた。こんなに大きな建物が木立の死角に隠されて、ここまで近くに寄らなければわからないように計算して配置された庭園は、もはや芸術の域を通り越して魔法としか称えようがない。
車は屋敷の玄関前までやってくると、静かに停車した。
「あざみ館の敷地はだだっ広いですからね。下手にうろつくと迷子になってしまいますよ」と、車のドアを開けた大河原氏が、優しい口調でしっかりくぎを刺した。
「あっ、はい。――大河原さん、ここが、あざみ館ですか」
「そうです、この大きな建物があざみ館でございます。その隣の小さな建物は別館でございまして、わたくしども使用人の宿舎となっております」
鶯色の正方形タイルが敷き詰められたテラスへあがる三段の階段が横たわっていて、その先に扁平なアーチ形にデザインされた玄関ポーチがあった。大河原氏の説明によるとこれはチューダー様式と呼ばれるもので中世の英国におけるゴシック建築を引き継いで発展した建築様式らしい。
あざみ館は個人が所有する邸宅というよりも、どちらかといえば西洋の教会を彷彿させる優美で壮大な建造物である。正面から見るとカステラのような横長の長方形をしていて、バルコニーが三階まで点在してる。さらにその上は藍鉄色をした急な勾配の屋根があって、中央から火が灯された松明のような形をした尖塔が一つ、悠々と聳えたっていた。その塔のてっぺんのとんがり帽子屋根のすぐ下には吹きさらしの窓があって、ちょっとした小空間になっているようだ。展望室というよりもむしろ牢獄という印象を受ける。
そうだ、いかにもそれは悪い魔法使いに閉じ込められたラプンツェルが自慢の長い金髪をすっと垂らして来そうな雰囲気のする窓であった。
玄関口まで来ると、塔がちょうど真上にあって、じっと見上げているとその圧倒的な高さに足がすくむ。
玄関扉に真鍮のドアノッカーが付いていた。そこに施された精巧な浮彫りが封筒に刻まれていたあの図柄と同じであることに、私はすぐに気が付いた。
アザミの紋章だ。
アザミ――、それは美しさと棘を合わせ持つ可憐で力強い花。そして、似かよった異種が多く存在する奇妙な植物。そんなアザミを紋章としてあがめる五月女財閥と、それから私の真実の母。
館内に入ったところは、ちょっとした広間になっていた。やわらかなクリスタルシャンデリアの灯りに照らされて、象牙色の壁面と茶褐色の天井とのコントラストがひときわ映えていた。異様に高い天井を支えている幾本もの大理石の柱には、蔓が絡むような緻密な彫刻が施されており、床全面には鮮やかな珊瑚色の絨毯が敷かれていた。
玄関から入った真正面には吹き抜け構造の大階段があった。それは緩やかならせん曲線を描いていて、上のほうは視界から途切れていた。そしてちょうど階段を下りたところに人の背丈よりもずっと高いアンティークな柱時計が置いてあり、それが奏でるチック、タック、チック、タックというリズミカルな旋律が静かな館内をゆったりと流れていく。
右手は長い廊下になっていて、その両側にはそれぞれ三つずつの合計六つの白い扉が見える。左手はすぐに突きあたるが、オーク材でできた琥珀色の重厚な扉があってどっしりと構えていた。いかにも古びた洋館にあり勝ちな立派な造りの扉で、空間を支配しているかのような何やら異様な気配を放っていた。
とその時だ。二階から赤いワンピース姿の女性が階段を下りてきた。背筋がピンと伸びたシルエットにはしなやかで優艶な体つきが投影されていた。
彼女は私の傍までやってくると、にっこりと微笑んだ。
「あら、やっと着いたみたいね。摩耶さん、はじめまして」
この時の私の驚きはとても言葉で表現できるものではなかった。その若い女性は、容姿や体型はもちろん、声色まで全部が全部私とそっくりそのままだったのだ。鏡で見る自分とは左右が反対で、まるで写真に写った自分を眺めているような感覚だ。
「あなたは?」
挨拶を返すことさえ忘れて、私は問いかけた。
「あはっ。さぞかし驚かれたことでしょうね。
でも心配しないで。決して、自己像幻視じゃなくてよ」と、その女性は細長い手を小ぶりな口元にかざした。さり気ないけど淑やかで洗練されたしぐさであった。
「私の名前は摩帆――。あなたと私は実の姉妹なの」
「ひょっとして、一卵性の双生児?」
私とそっくりなその女性は、くすくす笑って首を横に振った。
「うん、正確にいうと三つ子だね。もう一人、妹がいるわ」
そういって、摩帆はチラッと横に目をやり、こちらがびっくりするほどの大声を張り上げた。
「摩奈――。いいかげんに隠れてないで、出て来なさい!」
オーク材の扉の錠前がガチャリと音をたてた。頑丈な扉が軋み音を立てて徐々に開いていく。すると、中から車椅子に乗った女性が現れた。
もう、驚かなかったけど、その娘の容姿も私と瓜二つで、不気味なくらいに酷似していた。
「お姉さん、隠れていたなんて、人聞きの悪い言い方しないで頂戴」
そういうと、車椅子の女性はそろそろと私のほうへ近づいてきた。
雪のような純白のドレスの上に乗っかった人形のように無表情で小さな顔が、上目遣いに私をじっと覗きこんでいた。
「はじめまして、摩耶姉さん。妹の摩奈です」
その娘は白く透きとおった右手を差し出した。
「はじめまして、摩奈さん」
握手した摩奈の手は少し冷たくて柔らかかった。
「あ、それから、摩帆さんも。ごめんなさい、すっかり取り乱しちゃって」と、私は顔を真っ赤にしながら弁解した。
「そうよね、実際に私たちって、お互いに似過ぎているもの。驚くのも無理ないわ」と、慰めるように摩帆がいった。
生活環境の違いといってしまえばそれまでだが、私だけが日に焼けてちょっと肌の色が濃いのと、後ろ髪が少し長かった。摩帆と摩奈の二人は、色白の素肌から肩口まで伸ばした髪型まで、何もかもが全くコピーのように同じだった。もっとも、摩奈は車椅子に乗っているから、私たち三人は一応は他人から見分けがつく、ということになる。
「さあ、摩耶さま。お部屋に参りましょう」
大河原氏が、私の荷物を手にして、さっさと歩いていった。私も続いて一階の廊下に足を運んだ。両側にある六つの白い扉の間を通りぬけると、正面の突きあたりにエレベータが現れた。
「お家の中にエレベータがあるんですね」私が感心すると、
「ええ、二階までしかつながっておりませんが」と、大河原氏が答えた。
「この建物は、何階まであるのですか」
「部屋は三階まででございますが、その上には塔がございます。塔へは階段を使って上ることができますが、危ないので気をつけてくださいませ。七年前には悲しい事故も起こっておりますから」
エレベータで二階に上る。エレベータから出ると――つまり描写は先程の一階とは逆の向きになっているのが、左側には一階と同じく白い扉が三つ並んでいる。右側の壁には白い扉が二つしかなく、手前の部屋が大部屋の構造になっている。どうやらそこは食堂であるらしい。そして、その奥の小部屋が調理室ということで、食材を運ぶための小型エレベータが設置されていると、後から教えてもらった。
「ここが摩耶さまのお部屋でございます」
そういって、大河原氏は左側の二番目の白い扉を開けた。
と同時に、大河原氏の胸ポケットから小さな振動音が鳴り響く。
「おやおや。さっそく摩奈さまがお呼びのようだ。申し訳ございませんが、すぐ戻って参りますので、このお部屋の中でお待ちくださいませ」
大河原氏は私に一礼すると、急ぎ足で階段から一階へ下りていった。
端から部屋の中で大人しく待っている気など無かった。この機会に、私は二階を探索してみることにした。
私の部屋は挟んでいる隣り部屋は、エレベーター側が空き部屋で、反対側がシャワー室だった。勝手に使ってもいいのだろうか。
シャワー室の中を確認して、扉を静かに閉めると、私はぐるりと周りを見渡した。基本的にフロアの造りは一階と同じと思われる。階段の前はやはりちょっとした広間になっていて、奥の突きあたりにはさっき車椅子の摩奈が出てきた部屋と同じ構造のオーク材でできた頑丈な扉があった。
その重厚な扉の前にして、私は真鍮のドアノブに恐る恐る手をかけてみた。ゆっくりと力をこめると、意外にもノブはあっ気なく回った。二階のオーク材の扉には、そもそもはじめから錠が設置されていなかったのだ。
そっと部屋の中を覗きこんでみると、正面には大きな窓があって、美しい広葉樹の森が見下ろせた。中央には埃をかぶったグランドピアノがポツンと置いてあるだけで、それ以外は特に何もない、殺風景なただ広いだけの部屋であった。
そろそろ、大河原氏が戻ってきそうだ。私は音をたてないように注意して扉を閉めると、小走りに自室へ戻っていった。
私の部屋の白い扉にも鍵は付いていなかった。
部屋の中には、デスクワーク用の机と椅子にリラックスするための大きな肘かけ安楽椅子、クローゼットとちょっとした本棚、中には文庫本の小説に民俗学関連の書物などが並べられていた、それからベッドが置いてあった。
ベッドに敷かれた布団をめくると、シーツは清潔で洗濯されたばかりであった。安心をした私は、ごろりとベッドに仰向けで寝転んだ。
なるほど。今思えば、摩帆や摩奈が私とこれだけ似ているのだから、大河原氏がホテルで初対面の私をすぐに発見できたのもうなづける。
それにしても摩訶不思議なことがあるものだ。世の中に自分とあんなにも酷似した人物がいるなんて。まあ双生児、いや三つ子なのだから、当たり前といってしまえばそれまでなのだが。
私は天井をじっと眺めていた。一階とは違って、ここの部屋の天井は普通の高さである。
ここって、まるでペンションの宿泊部屋みたいだな。そういえば、あざみ館そのものがペンションのような感じがする。
いや、違う。ペンションよりも、もっともっと、何かこう、ぴったりと当てはまるイメージがあるんだけど、それはいったい何だろう。
そうか、病院だ。
この部屋を含むたくさんの小部屋は、まさに病室そのものだ。そして、二階のオーク扉のあの大部屋は集中治療室。
私はすぐさまこの思いつきを否定した。そんなはずはない。こんな片田舎に病院があるなんて、どう考えたって不自然だ。
大河原氏が戻ってきて、「摩耶さまのご姉妹でございますが、摩帆さまが長女、摩耶さまは次女で、摩奈さまが末っ子の三女であると伺っております。まあ、皆さま、時を同じくして生まれてみえるので、順番の違いなどさほど意味のないことかもしれませんがね」と説明してくれた。
「私が真ん中ですね」と私は念を押した。それから摩奈の車椅子姿がふと浮かんだので訊ねてみた。
「ところで、摩奈さんっていつから車椅子で生活をされているの」
「あれは、摩奈さまが十三歳の時でしたかね。交通事故に遭われましてな、命に別状はなかったのでございますが、その際に下半身を麻痺されてしまわれたのです。本当にお可哀そうに」
大河原氏は大きくため息を吐いた。
「それは、お気の毒に。一人では全く歩くことができないの」
「はい。かかりつけの医者が、一生歩くことはできないだろうと申しておりました。階段も上れないので、摩奈さまはエレベータを利用して二階までは行けますが、それより上階にはお一人では行くことができません」
「そうなの。あっ、摩帆姉さんは健康な方なんですよね」と、念のために訊いてみた。
「左様でございますね。ただ、本当はお二人とも人見知りがとても激しいお方たちで、先程、初対面の摩耶さまとは自然に会話をなされましたが、わたくしめにはそれがとても意外でございました」
「摩帆姉さんはそんな感じはしなかったけど、摩奈さんはかなり恥ずかしがっていたわね」
「摩帆さまも、普段なら、お客さまがいらしたところでご自身のお部屋に閉じこもられてしまわれるのでございますが。まあ、摩耶さまが実のご姉妹だから、あまり抵抗がなかったのかもしれませんね。
それでは何かございましたら、そちらのボタンでお呼び出しくださいませ」
大河原氏は、右ひじを直角に曲げた姿勢で一礼をすると、部屋から出ていった。ベッドの横を見ると、たしかに緊急用の呼び出しブザーのボタンがあった。
やっぱりここは病院だったんだ。
私はベッドに仰向けに寝転んで、再び物思いに耽るのであった。