一. 手 紙
目 次
一. 手 紙
二. 旅 行
三. あざみ館
四. 晩 餐
五. 実 母
六. 塔
七. 遺 言
八. 毒
九. 階 段
十. 日 記
意志あるところに道は開ける、という諺をご存じだろうか。さしずめ、どれほど数奇な運命であっても不屈の精神を持って立ち向かわば志はきっと成し遂げられよう、とでもいった内容であろう。
昨今、この類の、一見建設的ともいえる弱者救済の格言が、いたるところで氾濫しているが、正直、それが真実だなんて、私は一度たりとも思ったことはない。所詮、個人の意志や力量ごときで、運命という滔々たる大河の流れが変えられるはずもなく、人間は、あらかじめ神によって設置された一本の長いレールの上を、ただ地道に一歩一歩辿っていく能力しか、生まれ持ってはいないのだ。
無論、こんなことをうっかり口にすれば、科学の量子論を学んだ学生さんや、実存主義を崇拝する哲学の教授たちから、待ってましたとばかりに反論されるのは避けようがないし、神の台本に支配された人に、信仰するだけで運命を切り開けるはずもない、といくら説得したところで、それを納得させることなど土台無理な話である。そもそも、性格が先か環境が先かを論ずること自体が、卵が先か鶏が先かを問うような、同語反復的無意味に過ぎないのだから。
一方で、思わぬきっかけで運命ががらりと一変することが想像以上に頻繁に起こっている、という主張は、あながち的外れでもない。
私の場合は、それは一通の手紙からであった。たった一通の手紙から、私の人格や人生観、さらには運命そのものが、根底から覆されてしまうなんて、今もって私はそれを信じることができない。
さて、これから語ろうとしている一連の物語は、あまりに不可解でかつ怪奇的であるが故に、いくら精魂込めて説明したところで、おそらく読者諸君には、最後まで受け入れてもらえないだろう。でもそれを承知の上で、できる限りありのまま真実を伝えようとするならば、まずは私という人間をきちんと理解してもらう必要がある。
私は、幼いころからとても人見知りをする子供で、俗にいう恥ずかしがり屋さんであった。ちょっと吊り上がり気味の特徴的な目じりのせいで、生意気な自信家だと思われてしまうこともよくあったけれど、私は決してそのような女の子ではない。目立つことを嫌い、孤立することに怯えながら、用心深く日々を過ごしてきた。
学校の成績でさほど苦労した記憶はなく、地域を代表する名門女子校にすんなりと入学し、その中でそこそこの成績を保持して、無事に付属の大学へ進学をした。だが、順風満帆であった私の運命はここで思わぬ展開を迎えることになる。母の死だ。
物心ついた時から、私は母と二人きりで生活をしていた。父親の記憶は全くないし、奇妙に思われるかもしれないが、写真すら見たことがなかった。通常の家庭なら、子供が赤ん坊のころの思い出の写真や、娘をひざに抱いたやさしそうな父親の写真の一つでも残っていそうなものだが、私は母がそれらを意図的に処分したのではないかとさえ疑っている。でも、そのことに関して母に事情を訊ねたことは一度もない。
母はいくつかのパートタイムの仕事に携わりながら懸命に私を養ってきた。決してぜいたくな暮らしをしていたわけではないが、母のわずかな収入でよく生活できたものだと、時々感心することがある。
住んでいたのはいうまでもなく家賃の安い集合住宅。二階建ての家屋には全部で八つの住居があって、二階の一番奥が私たちの家だった。
近くには薄汚れたドブ川が流れていて、日当たりは悪く、環境面では決してよろしくないせいかどうかはわからないが、住民のほとんどが中高年の一人暮らしで、複数家族で住んでいたのは私たちだけだったような気がする。
客観的に判断して、私の容姿は間違いなく美人と呼ばれる部類に属していると思う。背丈は日本女性の平均身長よりはちょっとだけ高めで、街を歩けば見知らぬ異性から薄気味悪い視線を浴びせられることは日常茶飯事だ。
別に隠す必要もないから正直に告白しておくが、私は正真正銘の処女である。
なんで唐突にそんな不謹慎なことを打ち明けるのかと、一部の読者諸君が勘ぐるのも至極当然のことであるが、これは私という人間を理解する上で極めて重要な核心なので、あえてここで記述をさせてもらった。
とはいっても、これまで別に相手がいなくて困ってきたというわけでもない。私の場合は、そのような緊迫した場面に遭遇した時、いつも決まって愛情表現という大義名分で正当化された身勝手で短絡的な行為を、単純に拒み続けてきただけなのだ。
前々から、他人に強制的に身体を触られることに対して、私は激しい嫌悪感を持っていた。手っ取り早くいってしまうと私の場合は、純潔が汚されていく不快感が通常の少女が抱く性交の好奇心を遥かにしのいでいた、ということだ。もちろん思春期などはとっくに卒業しているから、性交の目的のすべてが快楽のためだけでない、ということくらいはきちんと理解しているつもりだし、自分が産んだ子供を未来に残したくないのかと問われれば、それを強固に否定することもできない。
記憶にあるだけで、これまでに私は五人から本気で恋愛を告白されている。もっともその内の三人は同性からであるが。
せっかく仲良しになっても、友達以上の関係を迫られれば私はそれを必ず拒んできたから、気がつくと心が許せる相手は誰もいなくなっていた。淋しい気持ちも多少はあったけれど、こればかりは仕方のないことだし、まあその程度ならまだ我慢もできよう。
私はこれまでに、語ることすら憚られる酷い事件を二つ経験している。
一つ目の事件が起こった時、私は小学六年生だった。当時、家の真下の一階には男子大学生のKが住んでいた。いつもにこやかに挨拶をするKは一見さわやかな好青年と思われた。特に小学生だった私はとても可愛がられ、勉強でわからないことがあるとKは私を自分の部屋に招きいれて、親切に勉強を教えてくれたりもした。
だけど、時々Kは私をじっと見つめては、「摩耶ちゃんって小学生なのに、妙に気品があるよね」とか、「摩耶ちゃんの顔はすべすべしていて綺麗だなあ、まるでベアトリーチェ・チェンチのようだ」などと子供の私には難し過ぎて意味がよくわからない褒め言葉を、何度となく繰り返すのであった。
当時の私がもう少し大人だったら、Kの下心を気づくことができたかもしれない。
やがてKに私は初めての唇を奪われてしまう。後になってその出来事を、Kは双方の合意の下での愛情行為だったといい張ったが、九つ下の何も知らない小学生に口づけする行為など、どう弁解しようが強制猥褻以外の何ものでもなかろう。
その後も、Kの私に対する愛情はエスカレートしていき、愛想を尽かした私が相手にしなくなると、やがてストーカー行為を繰り返すようになる。女手の私と母では、もはやKの暴力に抵抗する手段は無く、やむなく私が中学二年の秋に、私たちはひそかに住み慣れた家を立ち去った。
家計のやりくりを無理してまでも、母が女子高へいくよう強く勧めたのは、こういった経緯があったためかもしれない。
そしてもう一つの事件は高校二年の春だった。元来運動を苦手とする私は、美術部へ入部して油絵を志した。その時の美術部の顧問が、三十路に近づいているのに独身だった女性教師Yである。活発でボーイッシュな風貌をした美人のYは、全校生徒たちから絶大な人気があった。
私はその時、Yの指示で、閉ざされた美術室にYと二人きりでいた。
Yはまず私に丸椅子に座るよう命じた。何の不信感も持たずにいわれるままにすると、Yは制服姿の私をモデルにデッサンを始めたから、私は勝手に動くことができなくなった。
しばらく時間が経過して、うとうとしかけた時だった。Yが背後から胸をわしづかみにしていたから、驚いた私は反射的に身体をこわばらせた。
「先生、何を?」
私は細身で華奢だから、胸にはひときわ劣等感がある。そうでなくても膨らみ全体を手のひらで覆われる卑劣極まりない凌辱は、たとえ相手が同性であろうと容認することはできない。
「西野さん。あなたのことが好きでたまらないのよ」
この想定外の発言に、私の思考はしばらく混乱を来たした。
事態を掌握した時には、力づくで床へ押し倒され、両方の手首を押さえられた。腕の太さからも歴然としているが、Yのほうが私よりもはるかに力が強い。
「お願い。西野さん、そんなに怖がらなくても大丈夫だから」
無防備にこじ開けた私の胸元に、Yが顔をうずめる。
「先生、変です。こんなの、私、嫌です」
私の泣き叫ぶ声が、かえってYの欲情を助長させるみたいだった。相手を押しのけようと、私は無理やりに腰を仰け反らしたが、逆にそこで生じた隙をつかれて、スカートが捲られる。
はっと気づいた時にはすでに手遅れだった。蠕虫のようにうごめくYの指先は、舐めるように私の股間の形状を確かめていった。
虫唾が走る不快感。必死に無表情を装うものの、執拗に繰り出される陰湿なる責めに、全身はこらえ切れず、ついには波を打ってしまった。
私の醜態を目の当たりにしたYが、勝ち誇ったように呟く。
「おどろいたわ。西野さんって、清楚な女の子のようで、こんなに激しく反応しちゃうのね」
どこまで下劣極まる暴言であろうか。私はすっかり理性を失い、なりふりかまわずに泣き叫んだ。たまたま近くを通りかかった用務員が、その悲鳴を聞きつけて、美術室の扉を開けてくれたから、どうにか私はこの窮地を脱することができたのだった。
翌日になると、事件は学校じゅうの噂となっており、Yはその日限りで自主退職を強いられ、学校を去っていった。しかし、私の受けた被害内容が独り歩きをして、Yを崇拝していた生徒たちから私は、先生をおとしめた淫らな妖女と、根も葉もない誹謗をされたり、理不尽ないじめも受けた。
そして去年の暮れのことだった。突然、母の西野須美代が倒れたとの連絡を受け、私は慌てて病院へ駆けつけたが、すでに母は帰らぬ人となっていた。死因は脳梗塞だった。
母はその一年前にも最初の脳梗塞を起こして、この病院に入院している。その時、輸血の必用が生じるかもしれないというので、私は採血をされた。でもその時、ある不測の事実が判明してしまう。
検査の結果、私の血液型はAB型なのに対して、母の血液型はO型だった。もうおわかりとは思うが、O型の親からAB型の子供は絶対に産まれない。それは周知の事実である。
ただ、こうなる以前から私はそれとなく感づいていた。西野須美代は、なんといったらいいのか、私とは容姿がまるで正反対な女性で、私たちは似ても似つかなかったからだ。
「摩耶さん、悪いけどちょっとお遣いに行ってきてもらえないかしら」
ふと懐かしい母の声が聞こえたような気がした。母はいつも私のことを、摩耶さんと「さん」づけで呼んでいた。
たとえ本当の親ではないことがわかっても、私の母に対する愛情が変わることはなかった。母の前では、私は最後まで真実を知らない良き娘を演じ通した。
当然のことだが、収入がないまま学生を続けるわけにもいかず、大学を中退した私は、生活費を稼ぐために、母のつてを頼って近所にある事務系のパートタイム職に就いた。
翌月になると白髪の老人が訪ねてきた。品の良さそうなその老人は保険会社の社員と名乗った。どうやら母は内緒でささやかな掛け金の保険に入っていたらしい。これには私もちょっと驚いた。
老人はひととおりの手続きを説明した後で、もし今後引っ越すようなことがあれば必ず連絡をするようにと、事務所の電話番号とメモを残していった。
そして母の死から半年後、あの運命の手紙が送られてきた。
その日は真夏でとても暑かったのを憶えている。ナイフのように鋭利な直射日光が、容赦なく素肌へ突き刺さり、アスファルトの路面からは、ゆらゆらと陽炎が立ちのぼっていた。
よりによってそんな日に、黒のワンピースをまとって外出した私は、賑わしい蝉の鳴き声が渦巻く中、案の定、貧血を引き起こして、意識が朦朧となってしまう。どうにか集合住宅のまで戻ってこられたが、ふと郵便受けを除くと、中に一通の手紙が投函されていた。亜麻色の上質和紙でつくられたひときわ古風な封筒で、いまどき珍しい代物だ。
宛名が書かれた表面には、一輪の花の図柄が浮彫りで刻まれてある。どこかで見たことがある花なんだけど、残念ながら名前までは思い出せない。
中身を開封すると、厚手の便箋が入っており、男性が書いたと思われる達筆な文字が、びっしりと紙一面に並んでいた。
西野摩耶様
拝啓 暑熱耐え難き此の頃、慌しき御報せとなり、真に恐縮でございます。此の度、群馬県多野郡上栗村に佇む五月女財閥所有の御屋敷にて、貴女の実の母親で有らせられた五月女摩由姫様の御遺言が公開される事と為りました。
詳細な説明を始めますと長くなる故、簡潔に申し上げます。故人の御意向で、貴女と貴女の御姉妹が二十歳に成られる此の夏迄、遺言状の中身の凡ては、厳重な管理下にて隠蔽して参りました。此の度の遺言状の公開に依り、初めて其の全貌が明らかとされます。
此処で御注意戴きたき点がございます。若し、貴女が何らかの御事情に依り公開の場に御出席され無き不測の事態が生じました折には、其の時点で貴女の有する莫大な遺産相続の権利の一切合財が剥奪をされてしまいます。
此れに就きましては故人の強き御遺志に依るものでございまして、私共としましても何とも致し方の無き事情なのでございます。其れ故に、摩耶様に於きましては、何卒此の機会に御出席賜られる様、真に不躾で有るとは重々承知して居りますが、此の様な形式に依る連絡をさせて戴きました。
八月六日午後二時、群馬県高崎市JR高崎駅前にございます高崎ロイヤルホテル一階のカッフェ・プリマヴェーラにて、私共は摩耶様の御到着を御待ち申し上げます。恐らく事態は数日間にも及びます故、御衣類等は御用意をされるよう御勧め申し上げます。尚、本件に関する交通費や、宿泊費、御仕事の休止等に依る貴女が被るあらゆる損害に就きましては当財閥で完全に金銭保証致します故、必ずや遺言の公開の場に御欠席される事態の無き様、重ねて御願い申し上げます。 敬具
五月女財閥顧問弁護士 松川信太郎
手紙の内容は全く思いがけないもので、にわかに信じることはできなかった。書かれているとおりに事が運べば、一躍私はシンデレラガールということにもなろうが、若干いかがわしい匂いがすることも否めない。
とはいえ、身寄りを失った私には、遺産の相続はとにかくありがたい話であるし、実の母がどんな人物だったのかを知りたいのも、正直なところ本心である。かくなる経緯ゆえ、ためらうことなく私は今回の旅行を決意したのであった。