那岐と采希
目を閉じた僕の瞼の裏に、光の波が映る。
意外に不規則なその波は、薄く刷いたような雲が流れているせいだろう。飽きることなく眺めていられる。
陽射しは暖かく、肌をほんのりと刺激する。
時折柔らかく吹く風に、僕の前髪がそよそよと揺れていた。
僕は、上代那岐。
兄と、二人の従兄弟の四人で上代家の離れで暮らしている。すぐ隣に建つ母屋には、もう一人の従兄弟と祖母、そして僕の母とその妹である叔母が住んでいて、家族の仲は良い。
僕の先祖は巫覡や神官だったらしく、僕の眼には度々、人ならざるモノが視える。
小さな頃は、それらがとても怖かった。
得体の知れないそいつらに無闇に怯えることはない、と教えてくれたのは祖母と兄だった。
普段は穏やかな祖母だが、その視線ひとつで邪気を退ける。そんな祖母は、兄の力を『自分よりも上』だと言っていた。祖母の力の詳細は僕には教えられていないので、真実はわからない。
だけど、兄──采希兄さんの力はある日、唐突に消えた。本人の記憶と共に。
身体の表面から、僕は自分の身体の内部に意識を移行させる。
力の抜けた手足と、呼吸とともに上下する僕のお腹。自分の身体を意識したその一瞬、なぜかこの器に入っている自分に違和感を感じた。
意識を凝らすほど、自分の身体だと実感するのに──思い通りに動かせるのに、自分の魂が急速に小さくなったような錯覚がしていた。
ちょっと怖いと感じながら、僕はゆっくりと身体中に気を巡らせる。──大丈夫、これは、僕だ。
「那岐──お前、何してるんだ?」
静かな、柔らかい声が聞こえる。
僕の、たった一人の兄。
ゆっくりと眼を開け、声の方に顔を向ける。一瞬、邪魔だったかという表情をした采希兄さんに笑いかけると、ほっとしたように笑う。
「また、内観でもしてたのか?」
「内観?」
「自分の精神状態とかを内面的に観察する──だったかな? 自分の心を深く見つめる、みたいな意味だけど。でもお前のはちょっと違うかな」
「──?」
「お前の場合は心じゃなく、身体と向き合っているような気がする」
「──なんで?」
兄さんはちょっと眼を逸らし、考えるように首を傾げた。
伏し目がちに俯くその表情は、大人しそうで高潔そうな女顔。
だけど、少ない口数のその裏で、燻っている熱い心があるのを僕は知っている。
物静かだと侮って触れたら、痛い目に合ってしまう。
本当はキレやすいとか、この顔を見たら誰も思わないだろうな。
そんな自分を上手く制御している采希兄さんは、眼を逸らしたままゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「気配、かな? 眼を瞑って横になって、ただ寝ているようだけど……お前の身体から出ている気配がさ、なんて言うか……こう……」
両手を無意識に彷徨わせ、一生懸命に説明しようとしてくれる。
(──そうか、今の采希兄さんにはうまく表現できないんだ)
幼い頃、視界に映る『霊』に怯えて思わず口に出してしまう僕は、近隣では霊感少年として認識されてしまった。
実際は兄さんの方が正確に視えていたと思う。その本質まで看過する眼で。
なぜなら、兄さんは僕と一歳しか違わないのに除霊までやってのけていたから。
小学生だったある日を境に兄さんのその眼は、霊たちを認識出来なくなった。しかも、視えていたことすら忘れているようで、僕が指差したこの世のモノではない者たちがいる場所を怪訝な表情で眺めるようになった。
だから僕は、兄さんにその話をするのを止めたんだ。
(兄さんの力は、どこに消えたんだろう? 成長するに連れて自然に消えていくものだったのかな? でも急に消えるなんて……。それに、兄さんは自分が力を持っていたことも覚えていない……)
ずっと十年以上も不思議に思っていた僕は、つい先日、その答えを知ることになった。
──采希兄さんの力は、封印されていた。
大きすぎて制御できない力を、ある巫女さまが封印した。それを僕は、ずっと兄さんを見守っていたという優美な肢体の猫さんから教えられたんだ。
残念ながら、巫女さま本人にはまだお目にかかっていない。
はじまりは、采希兄さんが厄介な生霊に執着されたことだった。その生霊、メア子は、采希兄さんを手に入れるため、琉斗兄さんを利用した。
それまで特に何事もなく過ごしていた僕らにいきなり降りかかった霊障に、件の巫女さまは慌てたらしい。
『このままでは危険だ』──そう判断した巫女さまは、すぐに自分の眷属の猫さんを僕らの元に送り込んだ。采希兄さんの夢の中に、そして僕の夢の中に──。
夢の中で僕は、猫さんの口を通して巫女さまから采希兄さんの封印の事を聞かされた。
いつか、采希兄さんにこの事実を伝えてほしいって。
今回の事件で、恐らく封印が弱まっている。生霊を引き剥がす行為を、采希兄さんが無意識に行ったためだ。これ以上力を使ってしまうと兄さんが危険だから、その前に本人に知らせてほしい──そう言われた。
何故、封印されたのかは詳しく教えてもらえなかった。
ただ、封印がなければ兄さんの力に群がってくるモノ達がいるらしい。兄さんの力は、邪気を持つ霊や念から餌のように狙われやすいんだ、って言われた。
どうして巫女さまが自分で兄さんに言わないのかと不思議に思っていると、封印した事情を話すタイミングではないから──と言うことだった。
今回の事件に関しても、一旦全員の記憶をちょっと思い出せないようにするらしい。どうやらその術が僕にはうまく効かなかったようで、僕は少し困った。
説明──どうやって切り出せばいい?
急に『実は、兄さんの能力は封印されてたんだ!』とか言ったら、痛い人にならないかな?
ただでさえ、僕は言葉が足りないとか説明が分かりにくいとか言われて、宇宙人扱いされている。主に従兄弟の凱斗兄さんに、だけど。
記憶が残っているならばいっそ、と、僕は巫女さまに采希兄さんの監視役を頼まれた。
深い事情があるんだろうと思ったので、僕は引き受けた。──まあ、口下手なのは理由にならないだろうし。
ちょっと浮かれていたせいでもある。
兄さんの力は無くなった訳ではなかったと分かったから。
また、僕と兄さんは、同じモノを視ることができる。
それが僕には嬉しかったんだ。
「那岐、母さんから電話。ちょっと遅くなりそうだから適当にお昼ご飯食べてて、って」
「……え~?」
「面倒だな、何か食いに行くか」
「うん。ところで僕は給料日前です。兄さん、ご馳走様です」
仕方ない、と苦笑いを浮かべた采希兄さんとともに、僕は商店街に向かった。
天気がいいので、のんびりと川沿いを歩きながら横目で隣にいる兄さんを見る。
(封印──兄さんに、一体何があったんだろう……)
たとえ封印されていても、その身体には力が宿っているらしい。僕なんかよりも、遥かに大きなその力。
もしも采希兄さんの命に関わるような危険が降りかかった場合、封印は効果を成さず、その力は采希兄さんを護るため、勝手に発動するだろう──というのが巫女さまの見解だそうだ。
でも力の発動は、制御する術を持たない兄さんにはあまりに危険な諸刃の剣となってしまう。だからこそ、そんな目に合わないよう、僕は協力を求められた。
封印された事すら忘れてしまっている──忘れさせられたんだけど──兄さんに、無理をさせないよう。そして、衝撃を受けずに事実を伝えるように。
──困ったな。難易度は高そうだ。
「……とりあえず、僕が采希兄さんを護ればいいんだよね?」
《そうです、お願いいたします那岐さん。どうやら采希さんは無茶をするタイプのようですので》
猫さんの言葉に思わずくすりと笑ってしまう。同時に僕は、ちょっと感心していた。
確かに、采希兄さんは家族や親しい者たちのためには、自分を顧みないで危険に飛び込んでいくようなところがある。それを、巫女さまは分かっているんだ。
(──一体、兄さんはどこで巫女さまに出会ったんだろう?)
どんな状況で、どんな無茶をして、巫女さまに心配を掛けているんだろう?
小さな頃から采希兄さんと僕はいつも一緒で、大抵のことは一緒に経験してきた。
(僕の知らない所で、何かがあった?)
それでも、僕に全く覚えがないのが不思議だった。学年は一つ違ったが、それでもほとんどのイベント事は、兄さんと一緒に経験していたんだ。
(まさか──僕の記憶も……)
僕の視線に気付いた猫さんは、申し訳なさそうにこくりと頷いた。
《那岐さんの記憶も一部、思い出せない深いところに移させてもらっているそうです。采希さんの記憶が戻れば連動して浮上するらしいのですが……》
「そっか!」
──なら、いいや。
采希兄さんが忘れている記憶なら、僕も思い出せなくていい。
僕の疑問は、いつか兄さんの記憶とともに解決するんだ。
「那岐、お前なぁ、ちゃんと前見て歩いた方がいいぞ。危ないだろ?」
僕の左腕を抱えながら、采希兄さんが困ったように言う。
危うく土手から片足を滑らせて落ちそうになっていた僕は、あははと笑いながら、足をきちんと地面の上に立たせる。
「ごめんね、兄さん。大丈夫、ちゃんとするよ」
兄さんの口元が少し笑う。
「お前がいつも、黙って色んなことを考えてるのは知ってるけどな。せめて、歩きながらは止めとけ。車が通ったりするような道だと危ないだろ」
「うん、わかってる」
子供じゃないんだから──と思いつつ大きく頷いて、僕は兄さんと並んで歩き出した。
──兄さんは、僕が護るって決めたんだ。
* * * * * *
川に架かる大きな橋まで来た時に、それは居た。
橋の向こう岸、欄干の鉄柱の影から僕らを覗く顔。
薄暗くてよく見えないけど、どうやら子供みたいだ。
(──薄暗い……? まだお昼過ぎで、影を作るような大きな木もないのに……)
黒い顔は僕の方をじっと見て、気味悪い笑いを浮かべた。鉄柱の影からゆっくりその姿を現す。
宙に浮かんだ、上半身だけの身体。
そこで僕はようやく気付いた。これは人間じゃない。
(──マズい! こっちに来る?)
「兄さん、あっちの道から行こう!」
「え……でも向こうだとかなり遠回りに……」
突然言い出した僕に、采希兄さんが怪訝そうな眼を向ける。
──何て説明しよう? あいつの狙いは分からないけれど、眼が合ってしまった。それだけでも何が起こるか分からない。
あの気配はどう見ても好意的ではないし、どちらかと言うと悪意というか殺意というか……。
「分かった、那岐。向こうの道を回って帰ろう」
「兄さん……」
「お前がそんな風に言う時は、必ず理由があるからな。信用してる。さ、帰ろ」
采希兄さんがくるりと方向転換して歩き出す。
──こんな風に、僕の言葉が足りない時でも采希兄さんは僕の意図を汲んでくれる。
ちょっと嬉しい気持ちで兄さんの後を追おうとした僕の視界に、あり得ないものが入り込む。
僕の顔の真横で、さっきの黒い顔が僕を覗き込んでいた。しかも、間近で。
(──!! いつの間に?)
《あんた、俺が視えるんだろ? シカトすんなって。さっき眼があっただろ。ちょっと俺と話そうぜ》
生きてたら、中学生くらいかも。生意気そうなタメ口にちょっとムカつく。僕の顔のごく近くに張り付いたまま、濁って血走った眼で僕を見つめ続ける。
久々に遭遇した悪霊の気配に、思わず足が止まった。
(マズい……こいつ、ヒトの『気』を根こそぎ持って行くタイプのヤツだ。しかも、取り憑くことが出来る……地縛霊じゃなかったのか)
どうしたらいいんだろう? 完全に目を付けられた。このままだと家までついて来る。どこかで引き剥がさないと……。
ヤツはずっと何やら話しているが、返事をしない僕に痺れを切らしたのか、突然大声で罵声を上げ始めた。
かなり前を歩いていた采希兄さんが振り返る。声が聞こえたはずはないから、ついて来ない僕を不審に思ったのだろう。
僕をじっと見つめていた兄さんが、突然叫んだ。
「那岐! 走れ!!」
その声に弾かれたように、強張っていた僕の脚が走り出す。
《逃げるつもりか?》
僕のすぐ耳元で声がする。
「兄さん、逃げて! 早く!」
前方の采希兄さんに叫んだけど、兄さんは動かない。
そのまま両手を拡げて微笑み、僕の身体を受け止める。
──その瞬間、僕の眼の前が光で溢れた。
《那岐さん、大丈夫ですか?》
──女の人の声?
気付くと僕は、雲の中のような場所にいた。
足元から聞こえた声の主に視線を落とす。
「──あれ、猫さん? ここ……僕の夢の中?」
《ちょっと違いますが……。霊に憑かれそうになった事は覚えていますか?》
黙って頷く。そう言えば、そうだった。そして走り出した僕を采希兄さんが抱き止めてくれて──
「──采希兄さんは? どうなったの? 何があったの?」
ここに兄さんはいない。
僕の意識がここにいるってことは、兄さんの腕の中にいるはずの僕の身体は今、意識がない状態ってことなんじゃないのかな。
《采希さんは、視えないながらも那岐さんによくない事が起こっているのが分かったみたいですね。無意識にあなたの身体から、霊を引き剥がしました。その弾みで那岐さんも飛ばされてしまったようですね。今頃は、驚いて取り乱していると思いますよ》
──ああ、そうか。兄さんに抱き止められた瞬間のあの光、あれは浄化の光だ。
(兄さん……)
僕の想いに呼応したように、眼の前にさっきまでいた土手の景色が浮かび上がる。
動かない僕の身体を抱え、僕の名を呼びながら采希兄さんが泣きそうな顔をしている。その顔色は見て分かる程に蒼褪めていて、僕を心配しているせいばかりではなさそうだ。
「──兄さんの身体、もしかして……」
《はい。多分、急に大きな力を使ったせいでしょう。那岐さんまで飛ばしてしまう程でしたから》
「…………帰らなきゃ」
そう呟いて、一歩を踏み出したところで声が降ってきた。
《待て、那岐、ひとつ忠告させてくれ。お前の力は深い所で采希と繋がっている。采希に封印を施したことでお前の力も一部封印されたような状態だ。だからお前も、無茶はするな。頼むから》
──聞き慣れない声。意思の強そうな女性の声だ。
思わず猫さんを振り返る。
「今のって……」
《采希さんに封印を施した、ご本人ですね》
「──巫女さま?」
驚いて辺りを見てみたけど、どこにも巫女さまらしき姿はなかった。
《正確には巫女ではない。今は巫女らしい仕事はしていないからな》
「──?」
《今の私には、巫女としての力は無いんだ。──まあ、いずれ分かる。さあ、もう戻れ。お前の従兄弟たちも心配しているようだ》
土手の景色はまだそこに映し出されていて、そこには凱斗兄さんと琉斗兄さんが加わっていた。凱斗兄さんが采希兄さんの額に手を当てている。──やっぱり身体が辛いんだ。
「僕、戻ります。猫さん、巫女さま、ありがとう。──また、会えるよね?」
《会うとしたら、多分お前たちが霊障に巻き込まれた時だぞ? それでも会いたいか? ……二度と会わずにすめばいいな》
ちょっと呆れたような巫女さまの口調に、あははと笑う。
捻くれた物言いなのに優しさが感じられて、嬉しくなる。まるで采希兄さんみたいだ。──早く、帰ろう。
《那岐、戻ったらすぐにでも采希に封印の話をして欲しい。さっきの衝撃で抑えている鍵がどうなったのか分からない。出来るだけ、無意識に力を使う事を避けさせてくれ》
「はい、わかりました。何とか説明してみます」
《ちょっと、事情があって──采希の力は邪気どもに狙われやすくなっている。先日の生霊も、采希の力に惹かれて来たんだ》
「…………は?」
そう言えば、そんな事を以前猫さんが言っていたっけ。
でも、狙われる? なんで?
僕の疑問を察したらしい猫さんが、小さく頭を振る。
《……那岐さん、采希さんの『気』は力に溢れていて、それは取り込んだモノたちの力になってしまうんです》
「…………兄さんの力が、奴らの……餌、になるって言ってたよね? だから狙われるの?」
《そう、ですね》
眉間に力が入る。
《理不尽だな。采希のせいじゃないのに》
巫女さまの声に、ぐっと唇を噛み締めた。
「…………わかりました。無為に奪われないように留意します」
《こちらも何か策はないかと考えているから、悪いがしばらく耐えてくれ》
「はい。何かあったら……相談してもいいですか?」
《もちろんだ。シェンを喚んでいい。──それにしても、いきなり海に飛び込んだり無理に浄化しようとしたり……采希は無謀すぎるぞ。生霊はな、本当に危険なんだ》
「……そうなんですか?」
《死霊よりも力が強いんだ。呪術師に呪われているのと同じ状況だと思っていい》
「……気をつけます。今回はありがとうございました」
《いや、もっと早く…………うん、直接助けてやれず、すまなかった》
「いいえ、感謝してます」
少し困ったような口調に、やっぱり兄さんはかなり巫女さまに心配をさせてたんだ、と僕は思った。
早く、兄さんのところに帰ろう。
再び一歩を踏み出そうとして、はっとした。
意図せず、僕の口から情けない声が出てしまう。
「……どうやったら戻れるの?」
「へえ……じゃあさ、本当は采希にはそんなに大きな力があんの? ──封印ねぇ……」
「にわかには信じ難いな。そんな力を持っているのは那岐だけだと思っていたしな」
「だよな~。だったらあの生霊事件だって、もっと簡単に解決してたんじゃねぇの?」
凱斗兄さんと琉斗兄さんが、僕の前を歩きながら首を傾げている。
身体に戻って眼を覚ました僕の拙い説明を、兄さんたちは黙って聞いていてくれた。笑いもからかいもせずに。
僕がつっかえながら話しているうちに、三人とも何かに気付いたように瞠目していたから、生霊事件の時の記憶が戻ったのだと分かった。
「だから封印されてて使えないんだよ、使っちゃうと今日みたいになる。だから生霊事件でも巫女さまが助けてくれたんでしょ」
さっきから何度も言ってるのに、兄さんたちはちゃんと聞いていない。背中に背負った采希兄さんの身体をちょっと揺すり上げながら小さく溜息をついた。
せっかく巫女さまが兄さんの力の事を教えてくれたのに。
でも、兄さんの力が狙われやすい事はもう少し黙っていよう。そんな事を知ったら、兄さんは僕らの元から離れていこうとするかもしれないから。
……そう言えば、うちの血筋の事も聞けばよかった。女系なのに僕らが健在でいる訳とか、母さんも知りたがっていたのにすっかり忘れていた。
「──いや、那岐、俺もいまいち信じきれない。俺なんかにそんな……。確かに、お前に言われるまで『猫さん』や『狼さん』たちに助けてもらったことを忘れてたし、記憶も封印されてたなら納得できるけど、でも──」
僕の耳元で采希兄さんが呟く。兄さんは、きっとそう言うと思ったよ。
「兄さん、『自分なんか』って言うのはダメだよ。僕らがまだ小さかった頃、兄さんの周りにいつもきらきらした存在がいたのを、僕は覚えてるんだ。兄さんがその光に護られてるみたいで、とっても羨ましかった。兄さんはどんな霊だって怖がらずに、いつも僕らを護ってくれたよ。除霊や浄霊の方法はまだよく知らなかったけど、それでも兄さんは全力で『善くないモノ』を追い払ってくれた」
僕の背中で采希兄さんが小さく鼻を啜る。
「──だからね、采希兄さんは僕の憧れだったから。いつか兄さんの記憶が戻って──そしたら今度は僕も兄さんの隣でみんなを護れるようになりたいんだ。それまでは、僕が兄さんを護るよ」
背中で、ふっと笑う気配がした。
「そうは言ってもさ~、那岐。今回は結果的にお前が采希に助けられたことになるんじゃ……」
「……凱斗、少しは気遣え」
いつも空気を読めと言われ続けている琉斗兄さんが、ここぞとばかりに凱斗兄さんを小突く。
「あはははは、そうだね。──もっとがんばらなくちゃ」
ほんのちょっと乾いたように笑ってしまった僕の耳に、小さな声が聞こえてきた。その言葉で見開いた僕の眼から涙が零れそうになる。
ぐっと詰まった喉を大きく開き、大きな声を上げながら僕は采希兄さんを背負ったまま走り出した。
──絶対、絶対に兄さんは僕が護ってみせる。
「おい、那岐! そんなに走ったら危ないぞ!」
「すっげ~な、どっからあんなパワーが出てくんのかね?」
「感心してる場合か? 追うぞ!」
「いや~、もう無理だって琉斗。追い付けねぇよ」
僕は、これからも兄さんと並んで歩いて行く。
兄さんが僕に、言ってくれたように。




