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巫の血脈  作者: 櫟木 惺
第12章 羅刹の鏡像
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第59話 真実の鏡

「待ってって……そんなに……走れな……」

「急いで、榛冴(はるひ)! うちに残してきたのは()()()()凱斗(かいと)兄さんと琉斗(りゅうと)兄さんなんだ! もし何かあったら……」

「榛冴、那岐(なぎ)に担いで運んでもらうか?」

「それ……だけは……嫌だ……」


 あまり走るのが得意ではない榛冴は、既に2キロ以上の距離をひた走る那岐には到底ついて行けない。那岐のスピードでは采希(さいき)もそろそろ限界が近かった。自宅まではまだ遠い。


「ヴァイス、来い!」


 采希の声に応え、白虎が現れる。

 その背に飛び乗り、采希は榛冴を白虎の背に引き上げた。

 采希の前に座った榛冴の頭が疲れ果てたように項垂れる。肩が大きく上下していた。


「那岐、乗れ!」


 前を走っていた那岐がちょっと振り返り、駆ける白虎と並んだ拍子にふわりと采希の後ろに跨った。


「ヴァイス、全速だ。うちまで戻ってくれ!」


 景色が高速で後ろに流れる。白虎が相殺しきれない風が、采希の髪を巻き上げた。


「でも、さ、何かあったなら凱斗兄さんの傍にいる姫ちゃんが反応するでしょ? 何もないって事は──」

「榛冴、二人が大人しくうちに居ると思う?」


 那岐の言葉に、榛冴が黙り込む。


「──確かに。霊には無敵だけど催眠に掛かりやすい凱斗と、催眠が効かないのにやたら憑依されやすい琉斗……しかも二人とも那岐や榛冴に比べて格段に危険察知能力が低いな」


 せめてあの二人には地龍の姫以外にも武将か誰か、監視役を付けておくべきだったか、と采希は後悔した。

 しかも琉斗の唯一の武器、紅蓮は今、采希の右腕に装着されたバングルの中にいる。どこにいるか分からない琉斗に向けて紅蓮を飛ばすことも出来ない。

 思わずぎりりと歯を食いしばる。


(頼むから──二人とも、無事でいてくれ)




 白虎が停止するのを待つのももどかしく、三人はその背から飛び降りる。

 采希の背後で榛冴が転びかけた気配がしたが、無視して家の中に駆け込んだ。


「凱斗兄さん! 琉斗兄さん!」


 真っ先に離れに飛び込んだ那岐の大きな声に、凱斗が驚いたように顔を覗かせた。


「那岐? どうかしたのか?」

「琉斗兄さんもここに居る?」

「琉斗ならかなり前に出掛けて……」


 凱斗の返答に、三人の声が被さる。


「「「どこに?!」」」

「さあ? でも一体どうしたんだ、お前ら?」

「琉斗がどこに行ったのか、知らないのか?」


 采希が畳みかけると、凱斗は心外そうに眉を上げる。


「知らないって。──何をそんなに慌ててるんだ? 別に心配いらないだろ。あいつにはロキがいるんだし……」


 のんびりと答える凱斗に、那岐が首を横に振った。


「凱斗兄さん、ロキさんは今、采希兄さんの中にいるんだよ」

「──え……?」

「充電中なんだ」

「でも紅蓮は……采希に預けて……え? じゃ、まさかあいつ、丸腰……」


 言葉を失った凱斗に答えながら、采希は凱斗の正面に座った。


「今から説明する。──その前に……ロキ、動けるか?」

《問題ない》

「よし、琉斗を捜せるか?」

《了解だ。すまないが龍の姫、手伝ってもらえるか?》


 凱斗の肩に地龍の姫がふわりと現れる。

 二体がその場から消えたのを確認して、采希は凱斗これまでの状況を説明した。



「じゃあ、朋代ちゃんの方が仕掛けた張本人だったってこと? 俺は本当に騙されていたのか……」

「おそらく。実際に仕掛けたのはあの秘書だね。彼女は黒幕、かな?」

「──いや」


 榛冴の見解に、采希がぼそりと異議を唱える。


「……采希兄さん?」

「何て言ったらいいのか……あの秘書は依頼者の思惑に乗っかるフリをして、実は自分の思い通りにしようとしている──ような気がするんだ。上手い事を言って、依頼者を動かしている……かな?」

「依頼者はいいように利用されているってこと?」

「うーん、まあ、利害の一致というか……そんな感じなんじゃないか?」


 采希と那岐の会話に、榛冴が泣きそうな顔で身震いをする。


「女の子って……怖……」


 この家に来た時の依頼者は二度ともとても大人しそうに見え、電話口での態度だけが明らかに違っていた。

 だからこそ、秘書が言った『姉が妹のフリをして電話をした』という言葉を信じそうになったのだが、金縛りや催眠術など不審な行動が多すぎた。


「──ねえ、兄さん」


 那岐が采希の服の裾をちょっと引っ張った。


「もしかして……これはぼくの推測なんだけど……電話で兄さんが話したのが本当の依頼者で、この家に来る時はお姉さんの性格を模倣していたんじゃないのかな? 顔をコピーしたみたいに……」

「何のために?」

「兄さんとの電話での会話を聞いた限りだと、あまり性格は良くなさそうだと思ったから。僕らの心証をよくするため、とか?」

「…………でも、そんなに上手く化けられるものか? あの様子だとすぐにでもボロがでそうな気がするけどな」


 一拍置いて、那岐が吐き捨てるように言った。


「──催眠暗示」


 全員が、思わず声を上げる。


「そうか、有り得るな」

「じゃあさ、そこまでして印象をよくしたいのはどうして?」

「そりゃ、依頼を引き受けてほしいからだろ?」


 榛冴の問いに凱斗が当然のように答える。


「でも、イクルミって秘書、どうして自分でやらないの? かなりの能力者だと思うんだけど」


 そう言われれば、と凱斗が呟き、全員が黙り込む。


(どうして自分で……か。自分の手を汚したくないのか、誰かを欺くためか……そんなとこかな)


 (れい)は今回の件を『厄介事』と言った。ならば、利用されようとしているのは間違いないのだろう。

 榛冴が卓の向こうから采希に向かって身を乗り出す。


「采希兄さん、琉斗兄さんは見つかった?」

「……いや、まだ見つけられないみたいだな」

「依頼者は、琉斗兄さんに執着しているみたいに見えたよね? それは紅蓮も指摘しているし。凱斗兄さん、琉斗兄さんが出掛けた時の様子、分かる?」


 那岐が尋ねると、凱斗は思い出そうとするように視線を彷徨わせた。


「あー……俺が母屋に飯を食いに行ったら、誰かが話している声が聞こえたんだ。琉斗が誰かと電話で話していたんだってすぐに分かったけどな。ちょうど電話を切るところで、俺がいるのに気付いて『ちょっと出掛けて来る』って言うから、『またデートのお誘いでも受けたのか?』って聞いたら少し考えて『いや、違うな……』って真顔で言うから、逆に変な感じだと思ったんだ」


 全員、黙ったまま首を傾げる。──双子の弟は、言葉足らずな事が多く、時々その真意を図りかねる事があった。


「もしかしたら、依頼者に呼び出された可能性もあるってこと?」


 那岐が不安そうな顔で采希を見た。


「本当に何かの用事があったなら、あいつの性格的に凱斗にきちんと言うだろうな。デートかって聞かれて少し考えて否定したのは『デートじゃないが、だったらどう言えばいいんだ?』とか思ったからじゃないか?」

「あー、琉斗兄さんならそうかもね」

「あの依頼者から誘い出されたんだとしたら、何のためだろうな。琉斗に催眠術は効かないようだし」

「……単純に、琉斗兄さんと会いたかったからとか?」


 那岐の迷うような言葉に、采希も困ったように首を捻る。


「そうだな。単に依頼者があいつを気に入ったからとか、そんな理由なら問題ないだろう。向こうに気付かれているかは不明だけど、今の琉斗にはロキも紅蓮もいない。あいつを利用しようと考えたとしたら(まず)いな」


 何の守護も持たない琉斗を利用しようとするのは、簡単なことのように采希には思われた。

 だが何となく、あの秘書は自分たちの中に居る存在たちに全く気付いていないような気がしていた。もし気付いていたらあの程度の技量で乗り込んでくるだろうか、と考えていた。


「利用できるとすれば、人質にするとかか?」


 琉斗はいつも厄介事の中心にいるように思えて、凱斗が嫌そうに吐き出す。

 あまりに可能性のありそうな状況に、全員、黙り込んでしまった。


《采希、見つけた。今、ロキが琉斗の中に収まったとこ》


 突然、采希の眼の前に地龍の姫が現れた。

 あまりにあっさりと告げられたため、采希は意味が分からず眼を(またた)かせる。


「無事なのか?」

《大丈夫、何事もない。──今のところは》

(…………?)


 今のところとはどういう意味だろう、と采希は思ったが、無事であればそれでいいと思ったのか、凱斗たちはほっと息をついた。




 翌朝、采希は再び琥珀によって起こされた。

 布団から半分顔を出したまま、寝起きで呂律の回らない舌を無理に動かす。


「琥珀……またお姉さんか? 今日も水族館に……」

《いえ、それはまだ迷っておられるようです。それより、姉君さまの身体がまた念の攻撃を受けたと瀧夜叉様が──》


 琥珀の言葉で采希は跳び起きる。


「──なんだって?」

《様子を探るかのように、慎重な念の波動を受けたとのことです。瀧夜叉様の存在までは認識されていないとのことですが、仕掛けた呪が全て解除されたのには気付いたようだと。──いかがなさいますか? 瀧夜叉様が今後の指示を求めておられますが》


 ベッドの上で胡坐をかき、腕を組んで考え込む。


「……彼女が瀧夜叉姫に気付いた様子は?」

《それが……絶対に認識されないよう、最大限に注意を払っていたそうなのですが、姉君さまの守護の呪を解除している時に突然『……さつき、って……誰?』と独り言を仰ったそうで……》


 采希は口をあんぐりと開けたまま、眼を見開いた。


(さつき……瀧夜叉姫の名前を? 彼女が読み取ったのか? まさか、彼女も能力者……)


 声にこそ出さなかったが、まじまじと琥珀を見つめたことで采希の考えを察した琥珀が首を横に振る。


《瀧夜叉様を認識したのは彼女ではなく──おそらく彼女の【守護】の方だと思われます。守護が瀧夜叉様に気付いて話し掛けられたのを感じ取ったのではないでしょうか。どうやら彼女の守護は霊亀(れいき)のようです》


 聞き慣れない名称に采希は思わず眉をひそめた。


「れいき?」

《霊、亀、です》


 琥珀の声に従って、采希の頭の中に文字が浮かび上がる。


「亀……? 玄武、じゃないのか?」

《玄武は四神で北方の守護神。霊亀は四霊、介蟲の長──甲殻を持つ生物の代表とでも言いますか……》

「…………」


 困って黙り込んだ采希を見て、琥珀がくすりと笑う。


《ともかく、玄武よりも霊的には格下の存在ではありますが、あまりヒトの守護にはならない程度には強い霊性を持つ聖霊です。姉君さまの守護である霊亀は瀧夜叉様によりその本質を取り戻し、程なく力を発揮できることと思われます。──瀧夜叉様を呼び戻されますか?》

「……もう少し、だな。まだ何かありそうな気がする。探るような念を受けたんだな? だったら、霊亀が復活した事が相手に分からないようにした方がいいと思う」


 采希が考えながら口に出すと、琥珀が満足そうに頷いた。


《承知いたしました》




 すっかり眼が覚めてしまった采希は、そっと階段を降りて玄関を出る。母屋と離れの間の庭に置いてある背もたれのないベンチに腰掛け、ジャージのポケットから煙草を取り出した。

 ゆっくりと一服めを吐き出したところで、玄関の引き戸がからからと開いた。


「──采希? もう起きていたのか?」


 目線だけを動かし、自分の隣に座った横顔を確認する。


「お前こそ……って、俺のせいか。悪い、琥珀と話していたのがうるさかったか?」

「いいや、そんな事はないぞ。ちょうど起きるタイミングで琥珀と話す声が聞こえただけだ」

「──嘘つけ。いつもはこんなに早起きできないくせに」


 采希の言葉に琉斗は微笑んだ。

 何事もなく帰って来ていつもと変わらない様子の琉斗に、みんな拍子抜けしてどこに出掛けていたのか聞きそびれた。何事もなかったのだからいいか、と思ってしまったのも事実だった。


「……なぁ、采希」

「何だ?」

「昨日の事なんだが」

「…………」

「依頼者に、会っていた」


 采希は黙ったまま琉斗の方を見ずに煙を吐き出す。


「母屋の玄関を通ろうとしたら、丁度電話が鳴ってな。特に何も考えずに受話器を取ったら『琉斗さんですよね?』と言われて……」

「……」

「相談があると言われて、指定された場所に行ったんだ」

「……お前、そんなんでほいほい呼び出されてんじゃねぇよ。自分は呪われているって言っている相手だぞ? 少しは危機感を──」

「采希に関する相談だと、そう言われたんだ」

「──は?」


 采希は思わず琉斗の顔をまじまじと見つめる。


「俺の──何?」

「いや、実際に会ってみたらそんな話は一切なくてだな、普通にお茶したり買い物に付き合ったり──」

「……デートじゃねぇか」

「は? 違うだろう? 俺は全くそんなつもりはないからな。──まあ、そんな感じでブラついて帰って来たんだ。全く、何だったんだろうな。意味のない話ばかりされて、困った」


 琉斗にとっての基準がよく分からず戸惑いながらも、采希はふと気になった。


「お前が見ていた顔って、どっちの顔だった?」

「顔? どっちって……どう言う意味だ?」


 采希が口を開きかけたタイミングで母屋の玄関から朱莉(あかり)が顔を出した。


「話し声が聞こえると思ったら、二人とも、随分早起きだね。ちょうどいい、采希、お豆腐を買って来てくれない?」

「ああ、うん」


 采希は急いで立ち上がって朱莉から小銭を受け取った。



 一緒に行くと言う琉斗の申し出を断り、静かな朝の空気をゆっくりと吸い込みながら、采希は豆腐の入った袋を手に家に戻る。

 自分をダシにして琉斗を誘い出した依頼者の目的は何だったのだろう、と足元を見ながら考える。

 単に琉斗とデートしたかったという理由だとしたら、あまりにも浅慮な気がした。だが電話で話した依頼者が賢さの欠片も感じられなかった事を思えば納得できるとも思っていた。


 考えながら歩いていると、ずっと先に見える母屋の傍のベンチに、まだ琉斗が座っているのが見えた。

 こちらを確認して大きく手を振りながら立ち上がる。

 その身体が、突然ぐらりと傾いで地面に倒れ込んだ。


「──!! 琉斗!!」


 慌てて走り出した采希の耳元で、琥珀の声が響く。


《いけません、采希さん!!》


 琥珀の警告を無視し、眼の前で倒れた琉斗を目指して走る采希の視界が突然真っ赤に染まる。


(──え?)


 采希の身体が急激な浮遊感に包まれる。

 倒れたように見えた琉斗は、采希の視界の隅で溶けるように消えて行った。


(しまった……幻覚? いや、偽物か)


 いきなり天も地も分からない感覚に陥る。


(ちょ、これは……琥珀、琥珀? ヴァイス?)


 いつも傍にいるはずの気配が感じられず、采希の頭は混乱を極めていた。


 采希の身体は大きな波に玩ばれるようにして、どこかに運ばれて行った。



 * * * * * *



「ちょっとぉ、いい加減起きてくんない?」


 まだ耳鳴りの残る采希の耳に、あまり馴染みのない声が聞こえる。

 徐々に浮上する意識。

 腕が痛い。肩が外れそうだ。頭ががんがんする。


 まだ痺れたような感覚の意識を奮い起こし、采希は瞼を無理矢理こじ開ける。

 視界に入ったのは、依頼者──だった女。

 口元を醜く歪めながら、薄ら笑いを浮かべている。


「──お……」


 俺をどうするつもりだ、そう言おうと思ったが采希の喉は張り付いたように動かない。

 采希の身体は全身が糸状のモノに巻き付かれていて、両腕をひとまとめに、どこかの古い屋敷の梁から吊り下げられているようだ。


(蜘蛛の糸……?)


 先日とは違い、隠す必要がないのだろう。綱丸が可視化してくれた糸と酷似した、大量の蜘蛛の糸だった。


「なあにぃ? 声もだせないのぉ? あんた、弱っちいじゃん。……イクルミの読みも当てになんない」


 采希たちの家に訪ねて来た元依頼者ではなく、いつか電話で采希に脅しをかけようとした気配そのままだった。


『もしかして……これは僕の推測なんだけど……電話で兄さんが話したのが本当の依頼者で、この家に来る時はお姉さんの性格を模倣していたんじゃないのかな? 顔をコピーしたみたいに……』


 那岐の言葉が頭に浮かぶ。


(大したもんだな、那岐。お前の読み通りだったらしい)


「せっかくこっちが下手に出てやってんのにさぁ。さっさと依頼を引き受けてればこんな目に合わずにすんだのにねぇ」


 どこが下手なんだ、と思いつつ、采希は身体の中の気をゆっくりと巡らせる。問題なく巡る気は、物理的に吊り下げられている以外の制約は受けていないようだった。


「……依頼って、俺を使ってお姉さんを出し抜こうとした企みのことか? 残念だったな」


 とりあえず声は出ているが、何となくまだ発声しづらい。


「はあ? あんた、自分の状況、わかってないの? バカじゃん。大した力もない貧乏な一般人なんだから、黙って従っていればいいの!」


 蔑んだように采希を見ているその顔に視線を向けたまま、采希は自分の中の気配を探る。

 先程とは違ってすぐに応えた自分の中の気配に、思わず笑みが零れた。


 もう一つ、すぐ傍にまで感じるほどに、紺碧の気配が近付いている。


(俺の状況──ね。なるほど)


「──は? 何、笑ってんの? マジで自分の状況が分かってないのかよ。ざけんなよ、邪魔者のくせに」


 元依頼者の腫れぼったく細い眼が三白眼になる。片方の口角が捻じれたように引き攣れ、采希を見下すように斜めに見上げた。


「一応、聞くけど。邪魔って、何だ?」


 今度はちゃんと声が出た。分かってはいるが、時間稼ぎはしておくべきだろうと思った。


「お前なんかがあいつを縛り付けてるって……しかもお前の気配があいつを守ってるなんて、イクルミが。お前がいなければあいつは簡単にあたしの所に……催眠も呪いも効かないけど……とにかく、お前が邪魔なんだよ!」


 ぱんっという音と共に、左の頬に鋭い痛みが走る。

 その一瞬を逃さず、采希は元依頼者の意識を読み取った。


(……え? まさか……)


 元依頼者の言う『あいつ』が琉斗の事なのは予想通りだった。

 相手が女であるというだけで、どんな女にも──たとえ生霊にでも──同情してしまうような優しい琉斗が、この元依頼者にはあまりにも素っ気なかったらしい。

 しかも、終始不機嫌だった印象が伝わってきた。女はそれでも琉斗が恥ずかしがっているだけだと信じていたようだが、琉斗は別れ際にはっきりと告げた。


『何が目的かは知らないが、二度と采希を口実にするのはやめてくれ。采希も俺たちも、くだらない暇潰しに付き合っている場合ではない』


 それはそれで意外だったのだが、それよりも采希には驚いた事実があった。


(こいつ、自分の姿を……身体に纏った気で作り上げられた姉の姿を、本当の自分だと思い込んでいる)


 自分の容姿に自信があったからこそ、琉斗の冷たい態度が信じられず、采希に八つ当たりしたのだろうと思われた。しかも、琉斗が采希の【気】を僅かに纏っていることに、あの秘書は気付いていたらしい。


 自分の姿を誤認しているのも催眠術なのだろうか、だとすれば、これも秘書のイクルミの策略か、と考える。

 それにしては稚拙で単純な行動に思え、采希は自分の考えを即座に否定する。おそらくこの女の単独行動だろうと思い直した。


 こんな目に合わされた仕返しくらいはいいんじゃないかと考えた采希は、すうっと息を吸い込む。

 空中の水分を集め、元依頼者の前に凝縮させた。


 現れたのは、光を映す水鏡。重力を無視して、元依頼者の正面に縦に浮かんだそれは、その姿を映し出した。

 一瞬、小さな悲鳴を上げ、元依頼者が水鏡を見つめる。


「…………何だよ、これ? なんで陽那(ひな)が映ってんの?」


(……ヒナ? それがお姉さんの名前か……)


 水鏡に映る自分の姿を、女は姉だと思い込んでいる。自分たちの姿が取り換えられていたとは考えもしないのだろうと思った。

 それも、催眠による暗示の成果ならば納得だった。


「残念ながら、俺には魔法の鏡は作れない。──そこに映っているのは、お前の姿だ」


 采希の言葉に、嘲笑うような表情を浮かべかけ、女はそのまま固まる。水鏡は女の表情の変化をそのまま正確に映し出す。


「こんな小細工、無駄だって──」

「なあ、お前はどうして赤の他人と同じ顔なんだ?」

「──……なにを……」

「お前が自分の顔だと思い込んでいるその顔、お前のお姉さんの母親と同じ顔なんだろ? どうしてお前がその顔なんだ?」

「それは……あたしのお母さんが、たまたま陽那の母親に似ていたからで……」

()()()の顔がな。だったらお前に遺伝するはずはない」


 女の顔が強張る。何故知っているのかと采希を呪い殺しそうな顔で睨みつけた。


「正妻の後釜を狙って整形までしたのに、結局、子供を産んだら全然似てなくて、整形がバレて追い出された……」


 瀧夜叉姫が霊亀から受け取った情報を、采希は淡々と声に出す。

 本人がどこまで知っているのか分からないが、今の采希に酌量してやる優しさは、持ち合わせがなかった。

 蒼褪めた顔の元依頼者は、恐る恐る自分の顔に触れ、訝しむような怒ったような、微妙な表情のまま水鏡を覗き込んでいる。

 イラついたように右手で水鏡を薙ぎ払うが、水を切ることはできない。何度試しても水鏡はすぐに元通りに本当の姿を映し出す。

 怒りで醜く歪んだ顔を背けようとするが、水鏡は律儀に元依頼者の顔の前に移動する。


「……てめぇ、ざっけんな! こいつを消せよ!」

「なんで?」


 答えた瞬間に、再び采希の頬に平手打ちが襲い掛かる。

 何度か繰り返され、荒い息をつきながら元依頼者の手が止まった。


(そろそろ、だな)


 さっきから感じている気配が、すぐそこにあった。

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