第49話 呪縛の檻
真紅の鬣をぶるんと振って、炎駒の体躯が少し沈む。
対峙する巫女の身体も一瞬、力を溜めるように低い体勢になり、炎駒と同時に走り出す。
真正面から相まみえた両者が纏う気が空中で激突し、鬩ぎ合う。
力同士がぶつかり合って生じた光に、采希は思わず目を閉じる。
空気が裂けそうなほどの衝撃波に、那岐がよろめいた。
采希たちの前には白虎と白狼が陣取って防護壁を繰り出してくれているが、そうでなかったら最初の一撃で吹き飛ばされていたはずだった。
眩しすぎて光の中で何が起こっているのか、采希の眼では確認できなかった。
だがそんな嵐のような衝撃波の中、凱斗は平然と立っていた。いつものように片手を腰に当て、ゆったりと楽な姿勢だ。
(──こんな暴風の中で、何で平気なんだよ?)
前髪は風を受けて千々に舞う。なのに凱斗は薄く笑みを浮かべたまま、揺らぎもしない。采希には、炎駒の力が凱斗を傷付けることなどないと、確信しているように見えた。
「兄さん、あきらちゃんの身体が……」
那岐の声に采希が目を凝らすと、炎駒の白い炎が急激に大きくなり、巫女の黒い炎を飲み込んでいくのが見えた。
白い炎に包まれ、巫女の身体が力無く落下していく。
「──あきら!!」
采希は思わず走り出していた。後に那岐が続く。
横たわった身体を少し抱き起こすと、首ががくんと下がった。完全に力が抜けているようだ。意識はないように見える。
そっと首筋に触れると、微かに脈動が感じられた。でもその速度は明らかに遅い。
「兄さん……あきらちゃん、息、してない」
那岐の声が震えている。
采希は慌てて巫女の口元に手を当ててみた。
(──マジか……脈はある、でも……)
巫女の呼吸は止まっていた。だらりと下がった手を取ってみても、まだ温かい。
どうしたらいいかと考える間もなく、采希は巫女の身体に気を送り込んだ。
「あきら、頼む、眼を覚ましてくれ!」
効果があるのかすら分からない。それでも那岐と二人、全力で気を送り続ける。
「采希! 那岐!」
琉斗の声に顔を上げると采希と那岐の周りを黒い霧が囲んでいた。
「兄さん、これって……」
霧は徐々にその濃さを増し、一気に黒い炎となって采希たちを取り囲んだ。勢いをつけた炎が高く立ちのぼり、周囲だけでなく頭上も覆いつくそうとしている。
このままでは逃げ道が無くなる──そう思った采希は那岐の腕を掴む。
「兄さ──」
「那岐、行け!」
采希が叫ぶのと同時に、眼の前から那岐の姿が消えた。
那岐は采希の力で炎に囲まれたその外側、凱斗や琉斗、そして霊獣たちがいる所へ跳んだはずだった。
「兄さん! 采希兄さん!」
炎の向こうから那岐の悲痛な声が聞こえる。
きゅっと眼を閉じて、采希は覚悟を決めた。
「琉斗! 俺の鍵を──封印の鍵を開けろ!」
采希はそっと巫女の身体を砂の上に横たえる。
自分の身体の奥から何かが大きく膨れ上がっていくのを実感していた。
ゆらりと立ち上がり、足元の巫女を見下ろす。
「あきら……ちょっと騒がしくなりそうだ。出来る限り護るつもりだけど、お前の身体を傷つけてしまうかもしれない。──ごめんな」
すでに炎は采希の頭上もすっかり覆っている。
熱くはなかった。この炎がもたらすのは熱ではなく、痛みだ。
采希の周囲を包み込む黒い炎の一部が、炎駒の攻撃を受けているのか白く透ける。白と黒の炎が持つ力は、拮抗するように耳障りな音を立ててぶつかっていた。
采希はゆっくりと視線を上げ、唇の裏側を噛み締めた。
(真の【邪】を見過ごし、陥れようとした策略も看過できずにあきらに危害を加えるなら──【意思】だろうと【運命】だろうと、許さない)
采希の周囲に風が渦巻く。全方向の炎が常識を無視して采希に向かって来た。
采希の起こした風が急激に勢いを増す。雪山に吹雪く風のような鋭さで、炎を薙いでいく。
取り囲む炎の外側で、炎駒の気配が強くなる。
黒い炎は炎駒の攻撃と采希が起こした風に耐え切れず、次々と千切れたように風に巻き上げられていった。
炎の外側にいる凱斗たちの姿を確認できる程度に炎が消失した頃、炎はまたその姿を変えた。
風に飛ばされた炎が、ある一点を目指して収束する。それは大きな人型を形成し始めた。まるで真っ黒な、ゴーレムだ。
「まだ、やるのかよ……」
《采希兄さん! 聞こえる? 今、朱雀がそちらに向かったよ。那岐兄さんの守護を申し出ている。那岐兄さん、受け止めて!》
榛冴の声が聞こえた。
「榛冴、でも──そっちの護りが……」
《大丈夫だよ、こっちは人間相手なら朱雀がいなくても充分だって。お稲荷様がおいで下さって、ダキニ様にお願いして綱丸をパワーアップしてもらったから。姫ちゃんもいるし。それより、ダキニ様がそっちに向かったそうだから、采希兄さん、後はよろしくね》
「榛冴、一体どういう──」
采希の言葉が終わらないうちに、右手の方角に白い光が現れた。それは大きな女性の姿に変わる。古代風の衣装を纏い、右手に剣、左手に宝珠を持って大きな白い狐に跨っていた。
「ダキニ様って──茶枳尼天のことか」
雉のような鳴き声とともに、朱雀が舞い降りて来た。
いつの間にか那岐の頭上に現れ、真っ直ぐに那岐へと向かってくる。
「朱雀さま! お願い、僕に力を貸して!」
那岐が天に向かって両手を伸ばすと、朱雀がその手に吸い込まれるように那岐の中に収まった。
《琉斗! 私を受け入れろ》
白狼の声に琉斗が大きく頷く。
凱斗の中に炎駒が吸い込まれると同時に、琉斗の中に白狼が溶け込んでいく。白虎も采希の中に飛び込んで来た。
「──な……どうしたんだ、みんな?」
《力を分散させずに効果的に使用するためです。あなたが封印から解放された今、あなたの力が皆に注がれています。皆の力を私が導きましょう。──さあ、真言を》
茶枳尼天の声が采希たちの頭上から優しく降り注ぐ。凱斗、琉斗、那岐が采希の傍に駆け寄って、黒い炎のゴーレムに向かって対峙する。
全員の、そして霊獣たちの力と気が、皆の間に循環しているのを感じながら、采希は声に気を纏わせる。
「なうまく さまんだ ぼだなん きりか そわか!」
采希が唱えると同時に、采希たちの身体から霊獣たちが飛び出した。
(何……これ──? 何だこの感覚──)
采希の身体は確かに砂の上に足を踏ん張っているのに、采希の視覚は白虎のそれと同調していた。
采希の思ったように白虎の身体が動く。白虎に采希の力が加わり、これまでよりも攻撃力が格段に上がっているのが分かった。
(もっと──もっと低くだ。あいつの足元を狙う。炎駒と朱雀が空中から攻撃するはず。俺とロキであいつの膝を折らせてやる)
采希の隣に立っている琉斗が、不意に采希の肩に手を置いた。
《采希、息を合わせよう。ロキが俺の意のままに闘ってくれる。お前もそうだろう?》
(──了解。お前、左脚な)
《左──そっち側に回り込めばいいのか?》
(バカか、お前は? 向かって右がヤツの左脚だろ? そのまま攻撃を続けろ)
白虎の爪が、白狼の牙が、間髪入れずに攻撃を仕掛ける。上空では朱雀と炎駒、二体の炎がゴーレムに襲い掛かっていた。
確実に効いているはずなのに、ゴーレムは倒れない。
どこからか無限に力が供給されているように感じた采希は、周囲の気の流れを探る。
(──!! 大地だ! さっきの黒い炎も地面から湧き出てきた。──なるほど、地球、か)
「ヴァイス! 一旦接続を切り離す。そっちは任せた」
視界が切り替わり、采希は思わず自分の両手に視線を落とす。
(出来るか? ──いや、効果があるかどうかが問題か)
ゆっくりと息を吸い込んだ。頭上から声が掛かる。
《采希殿、何か策がおありか?》
「茶枳尼天さん、あのゴーレムを大地の気脈から切り離します。手伝ってもらえると……あー、ありがたいんですけど」
後ろを振り仰いだ采希の言葉に、茶枳尼天がちょっと眼を見開く。そしてにっこりと微笑んだ。
《御意。力をお貸ししましょう》
采希は両手をゴーレムに向ける。──大丈夫。ヤツに、重さはない。ゆっくりとその大きな体躯を念動で持ち上げる。
そのタイミングで采希の後ろから何かの獣が集団で駆け抜けていった。
白い狐たちだった。
かなりの数の狐がゴーレムの浮いた足元に纏わりつき、さらに空中へと浮かび上がらせる。
《なるほど。大地からの気脈のみではなく、大気からも隔絶しましたか》
面白そうに茶枳尼天が呟き、采希はちょっと目を見開く。
ゴーレムの周囲をほんの僅かな厚みの真空にしてみたのが、茶枳尼天にはお見通しだった事に笑みがこぼれた。
(さすが神様にはすぐに分かるのか。──とりあえず、これで力の供給はなくなっただろ)
ゴーレムを持ち上げるのは狐たちに任せ、采希はしゃがみ込んで砂の地面に両手を置き、大地の気脈を探る。
その間も霊獣たちの攻撃は止むことがなく、ゴーレムは徐々にその形を保てなくなっていた。
(力を送り続けていた大元は──どこかにいるのか? それとも……)
《采希兄さん!! 後ろ──あきらちゃんが!》
榛冴の声に反射的に振り向いた采希は、一瞬、凍り付いた。
横たわったままの巫女の身体の周囲が、黒い炎で囲まれている。
駆け寄ろうとしたが砂に足を取られ、そのまま膝を付いてしまう。
「あきら!!」
巫女の身体が完全に炎に覆われるその刹那、真っ暗な天から光の槍がまっすぐに降って来て、黒い炎で形作られた半球を貫いた。雷のような音が辺りに響く。
炎が消滅したその後には、何も、誰もいなかった。
「──あきら……」
呆然と呟いた采希の耳に、神楽鈴の軽やかな音が響く。
采希のすぐ傍に、大きな──茶枳尼天よりさらに大きな光が現れた。
それは、見ようによっては人の形にも見えた。何よりその圧倒的な光量で、目視で確認することが出来ない。
太陽のようなその光の中から声が聞こえる。
《我が巫女に、これ以上の無体はやめていただこう。巫女の身柄は我が預からせていただく。この者たちへの攻撃も、止めたがよかろう。この者を、死なせるつもりか? この者は、巫女に力が継承されると分かったあの時、お主が力を分け与えた。もしも巫女の力が暴走した場合、唯一対抗できる力の器としてお主が選んだのがこの者──白虎を従える者であったはず。そして、これほどの神霊や霊獣たちがこの者を慕い、こうして守護するために集っておる。それでもこの者を消滅させるか? 己が力を与えたこの者を》
地の底から、ずずんと振動が伝わる。
《卑劣な目眩ましを受けたとて、白虎の主には気付いておったろう。だからこそ、我が巫女を開放したのであろう?》
采希は、ぽかんと口を開けたまま砂の上に座り込んでいた。
(──何を、言っているんだ? 白虎を従える者って、俺? 俺に力を分け与えた? ガイアが? 巫女──あきらに対抗……いや、どういう事だ? ──そうだ、あきら……あきらは何処に……?)
采希の想いが聴こえたようなタイミングで、巨大な光から斜めに、采希に向かって光のスロープが伸びて来た。
それはまるで、大きなヒトが采希に向かって手を伸ばしたように見えた。
悪意は全く感じない。むしろ、招かれているというのが伝わってくる。
それでも躊躇する采希に、茶枳尼天が緩やかに微笑んで促した。
ちょっと口を引き結んで、采希は光のスロープに足を乗せる。
采希の身体はふわりと浮き上がり、周囲の景色が一変した。
* * * * * *
「采希」
待ち望んでいた声に、采希は大急ぎで振り返る。
周囲の景色は、何も見えない。夢の中の真っ白な世界とも違う、不思議な感覚だった。
「あきら」
「すまない。結局、みんなを巻き込んでしまったな」
さっきまで傷だらけで血がこびり付いていた身体は、元通りの姿に見えた。ご丁寧に巫女装束にされている。
ではこれは、本物の身体ではなく精神世界の魂の姿なのか、と采希が考えていると、巫女が少し笑顔をみせた。
「いや、確かに私の身体だ。ほら、触れるだろう?」
巫女の右手が采希の頬にそっと触れる。暖かい、ヒトの体温だ。
その手に自分の手を重ね、尋ねてみる。
「あきら、お前は一体どうなったんだ? ここは、どこだ? それにさっきの……俺があきらに対抗する力を、って……」
巫女はほんの僅か、戸惑うように視線を彷徨わせる。きゅっと眼を瞑ると、真っすぐに采希を見つめた。
「さっきの光は、私の──」
「天照さま、だろ?」
采希の答えに、巫女がちょっと眼を見開く。
「……知っていたのか」
「いや、お前の真名──あまてらしますすめおおかみのみこ──これって、天照さまの巫女ってことだろ」
「ああ、そうか。采希は、こういう事には詳しいんだったな。大神さまに仕えていたのは私のご先祖様なんだが──巫女とは呼ばれていても、私は力を失っていた時期が永かったからな、巫女らしいことは出来なかったんだ。それなのに私を助けにおいで下さった。私の身体はここまで穢されたことで【意思】の──ある種、呪いを受けている。初めは私を、この力ごと消滅させるつもりだったのだと思う。だから、私は【意思】に交換条件を出した。小春を見逃してくれるなら、この身体に力を封じたまま眠って、永劫の時を過ごす、と」
采希はぞくりとした寒気を感じた。それは死ぬことと同じ事だと思った。
「そうだな──でも、私が死んだら小春に荷を負わせてしまう。それだけは避けたかったんだ。だからお前に、もしものために……」
「小春を護れって言ったのか。俺の力なら、対抗できるから」
巫女が申し訳なさそうに頷く。
「他に方法が思いつかなくて──」
「そんな時こそ、俺にも相談して欲しかったと思うぞ。……頼りにならないだろうけど、那岐とかみんなで考えたら、何とか出来たかもしれないだろ?」
巫女が一人で悩んで決めた事を怒っている訳ではなく、ましてや相談されなかった事を拗ねている訳でもなかった。
采希の言葉に、巫女が目を伏せて俯く。その眼に、ほんの少し光るものが見えた。
何故か、采希には分かってしまった。
多分、采希が何を言おうと彼女はこのままこの場所に留まり、自分たちの世界に戻って来ないつもりだと感じた。
大地から呪いを受けた、そんな自分は地上で暮らす事は出来ないと。言葉にしなくても巫女の覚悟が伝わってくる。
それでも巫女を取り戻すために、何か出来る事はないかと采希は思考を巡らす。
「…………采希……」
「ガイアの──【意思】の誤解は解けないのか? 結局お前は罠に掛けられたようなものだろ。その最初に掛けられたっていう【呪】さえ解ければ──」
「いや、【意思】には経過や事情は考慮されないようなんだ。結果だけで判断が下される。だから……」
それでも采希は、さっき大神が一喝された時、確かに【意思】が怯んだのが分かった。だったら、天照さまにお願いして説得してもらう事はできないんだろうかと思い立つ。
考え込んだ采希に、巫女が少し悲しそうな笑顔を作る。
「いいんだ、采希。大神さまが私の身体を預かって下さったという事は、恐らく呪の浄化をしてくださるおつもりなのだろうと思う。──悪いがうちの猫を一匹、預かってくれるか?」
猫と言われ、采希は以前にシェンが息子がどうのという話をしていたのを思い出す。
「それは構わないけど。お前、一人っ子って言ってたよな? 親御さんは?」
「両親は、いない。今は母方の叔父と暮らしている。──お前に、よく似ているんだ」
「俺?」
巫女が頷いて、ちょっと考えるように首を傾げた。
「それと、私の眷属の者たちを──」
「ちょっと待て、あきら」
采希は慌てて巫女を手で制する。
「そこまでは俺の手に余ると思うぞ。お前、あの眷属たちを全部俺に預けるつもりだろ。しかも、三郎や瀧夜叉の他にもまだいる気配がする。──あきら、もう戻らないつもりなんだな?」
びくりと巫女の身体が震える。
「そんな事は……」
反論しようとして、巫女は言葉が見つからずに項垂れる。嘘が苦手なため、うまく采希を誤魔化せる自信もなかった。
「だから俺に、呪で縛られた身体に戻させたのか?」
「すまない、采希。そうだな、私は……もう、生きることを諦めるつもりだった。こんな仕事をしていると、妬みや逆恨みを喰らう事も少なくない。挙句こんな手で陥れられる事になったからな、もうこんな世界には嫌気がさしていたんだ。だけど──お前は来てくれた。本当に嬉しかったんだ」
「……あきら」
「だから、こんな世界でも……いいのかもしれないと……。何年、何十年かかるか分からないが、いつか、またお前にも逢えるはずだって……」
言葉を詰まらせた巫女の眼から、大粒の涙が零れ落ちた。
采希の身体はぎくりと強張る。こんな時にどうしていいか分からず、おろおろと手を動かすが、気の利いた言葉の一つも出て来ない。
凱斗や榛冴ならごく自然に慰める事ができるのだろう。だが残念な事に、采希は誰よりもこんな場合の対処が苦手だった。どう足掻いても、凱斗たちのようにはなれないのは分かっていた。
采希は眼を閉じてゆっくりと息を吸い込む。何を戸惑う必要があるのだろう、と頭のどこかから聞こえた気がした。
(大丈夫。取り繕う必要は、ないんだ)
そっと巫女の手を取る。采希の手は、小刻みに震えていた。
「俺がいつか、お前に掛けられた呪縛を解く。俺に、お前に対抗できる程の力があるのなら、頑張れば俺にもできるかもしれないだろ。いつになるか分からないけど……待っててくれ」
巫女が瞬きもせずに采希を見つめる。
ゆっくりと采希の手を押し頂くように持ち上げて、自分の額に当てる。
束の間、巫女の微かな嗚咽が聞こえていたが、ふっと顔を上げた。
涙に濡れた顔のまま、采希に向かって懸命に笑顔を作ってみせた。
「──分かった。……待ってる……」




