第36話 命の火
手の平が生暖かい液体でぬるりと滑る。
脈打つたびにこぽりと音を立てて溢れるそれを止めることもできずに、俺は呆然とあいつの身体を抱きかかえていた。
徐々に下がっていく体温を感じながら、俺の身体は震えが止まらない。
「……さい……呼ぶんだ……巫女……あき……このままでは……お前……も……」
途切れ途切れの声を聞き取ろうと、慌てて耳を寄せる。
浅く短い呼吸音が、ふっと小さく吐いた息を最後に途絶える。
──その瞬間、俺の視界が真っ黒に染まった。
* * * * * *
「さて、どこからあの中に入れるんだ? 見たところ、入口のような物は無さそうだぞ」
琉斗の独り言のような問いに白狼が応える。
《出さないための結界のようだ。おそらく、入る分には問題なかろう》
白狼のその言葉どおり、近付いてみると特に壁のような境界はなく、二人が用心しながら進むとあっさりと内部に入り込めた。だが、何気なく振り返るとそこには今進んで来た道がない。
背後を睨むように見ている采希に気付き、琉斗がドームの壁と思われる所にそっと手を伸ばす。
何かに阻まれたその手をしきりに動かした。
「──いつぞやの結界よりも柔らかいな。でも何だか生きているような、生き物に触れているような感触だ」
今にも脈打ちそうな気配を感じ、琉斗が眉間に皺を寄せながら呟く。琉斗は那岐が囚われていた結界に触れた時の事をを思い出していた。
「生き物ねぇ。──そうか、じゃあ、ここは巨大な化け物の腹の中って訳か」
采希の揶揄するような言葉に、琉斗が盛大に嫌な顔をしてみせる。
危うく、嫌な想像が頭に浮かびそうになった。
「……冗談になっていないぞ」
「そのようだな。早速お出ましだ」
采希が顎で示すその先にガーゴイルのようなモノが数体飛来してくるのを確認し、琉斗が刀に変化した紅蓮を握り直す。
下段に構えながら向かっていく琉斗のその後方から、援護すべく弓を構えようとした采希は違和感に気付いた。
「琥珀、ナーガの気配がないぞ」
《この中にナーガ様はお入りになれないようです。邪気が濃すぎるのかと》
「……なるほど」
龍神ならば邪気くらい蹴散らしそうなものだけどな、と思いながら、采希はさっきまですぐ傍にいた龍神の気配を再現しようと気を練る。
その気を右手に集め、光の矢を放つ。
矢は空中で三つの光に分かれ、琉斗が届かない高さにいた三体を貫いた。
下段から斜めに切り上げて一体を葬った琉斗の刀は、そのまま横に薙ぎ払われて残る一体をあっさりと消し去る。
「こんなものなのか? 手応えに欠ける気がするが」
「斥候だからだろ。いいから先に進むぞ」
物足りなさそうな琉斗の肩を軽く叩き、先へと促す。
手応えがないのは、相手が弱いからという訳ではない。それは采希にも分かっていた。
紅蓮も琥珀も、明らかに力を増している。
それでも、簡単に攻略できるとはとても思えないような予感がしていた。
不思議なことに、街は静まり返っている。
もう夜が明けたというのに、誰一人外に出ていない。
いざとなったら隠形して闘う覚悟をしていたのに、これは一体どういうことだろうと采希は訝しむ。
《おそらく我々のいるこの場所が、既に異次元なのだろう》
采希の不安を読み取った白狼が、遠くを確認するように道の先を見ていた。
「異次元? このドームに入った時点で紛れ込んだって事か?」
《そうだな。このドームの内部そのものが異空間だ。現実世界と隣接しているが、この中に人はいない》
「人がいない? じゃあ那岐たちは──?」
《この奥に、居るな。気配は五人。お前の家族だけを囮として残したか。中々に大した腕の持ち主のようだ》
那岐と交信できていた時は、街の人達もいたはず。
ここに到着するまでの間に瘴気のドームが完成してしまったという事か、と采希はぎりりと歯を食いしばる。
家族が囮として捕らえられた、その事実がかえって采希の頭を冷静にさせた。
「……その大した腕の持ち主とやらは、一体誰なんだ?」
《さて? 巫女には解っているようだったが》
「とりあえず、行けば解るか。誰が相手でも同じ事だしな」
ぼそりと呟いた采希を、前を歩いていた琉斗が振り返る。
「なあ采希、このままのんびり進むのか? このドームの中心に親玉がいるのなら、雑魚に構わず真っすぐにそいつを倒しに行ってはダメなのか?」
采希はちょっと片眉を上げ、大仰にため息をついてみせる。
「お前、頭、空っぽなのか? どんな敵かも分からんのに突っ込んで行ってどうするよ。まずは那岐たちと合流するのが先だろ?」
琉斗がちょっと腕組みをして考える。
「そうだな。那岐や榛冴の力は必要だ。──今どうしているのか、分かるか紅蓮? 姫と繋がれるか?」
《家の周りを何かが囲んでいて出られないって。榛冴と那岐で必死に出る方法を模索している。榛冴はお狐様と繋がれなくて、凱斗は……》
紅蓮が口籠る。
怪訝な顔で采希を振り返る琉斗に、目線で紅蓮を促すように伝える。
「凱斗がどうかしたのか? ──言うんだ、紅蓮」
《何かに家を取り囲まれたあたりから……意識が無いって……》
紅蓮の言葉を聞くなり、采希は白虎に跨る。
「……急ぐぞ」
慌てて白狼の背に掴まる琉斗を待たずに、采希は白虎を走らせた。
采希は白虎に跨って直走りながら、地龍の姫に呼び掛けた。凱斗に何があったのか、地龍の姫にも分からないらしい。
ドームに入るまで紅蓮は那岐と繋がっていたが、それも途切れていた。
地龍の姫も那岐の中で辛うじて意識を保っているとの事だった。
「どういうことだ? 意識がないと言う事は、凱斗も何かに憑依されたのか?」
「いや、違うと思う。凱斗の中にあるのは、俺たちが使いこなすことの出来ない純粋な『聖』の力だ。ナーガもこの空間には入れなかった。だから俺の想像なんだけど、ここは聖の力が存在できない空間──とかなんじゃないか?」
琉斗を乗せて走りながら空に鼻面を向けていたロキが、采希を振り返る。
《その読みで間違いなさそうだな。今、巫女からも同じ見解が届いた》
確信を得ると同時に、采希の中に不安が拡がる。
「……ロキ、お前やヴァイスは大丈夫なのか?」
白狼の耳がぴくりと動いた。
《……そうだな、我にはあまり影響ないが白虎には辛かろうな》
やっぱりそうか、と采希は思う。
心なしか白虎の動きが鈍い。霊獣なのだから限りなく聖に近いのだろう。
《今はお前の守護として存在しているからな、純粋な聖獣ではないが。それでも全力を出し切ることは不可能だろう》
「ロキに影響がないのはどういうことなんだ?」
琉斗が不思議そうに尋ねる。
《我は巫女の守護をしているが、采希の白虎のように産まれた時から傍に居た訳ではない。巫女の守護霊獣は他におるからな。あるきっかけで我の方から無理に申し出て守護の契約を結んだ》
「……色々、複雑そうだな」
琉斗がいたって雑に返事をする。
難しくなりそうだから投げ出しやがったな、と采希は苦笑して目線を逸らした。
その後、采希たちは数度の襲撃を受けたが、琉斗のように『こんなものなのか?』と言いたくなるような雑魚の集団ばかりだった。
影のように揺らぐ人型のモノ。獣のように牙や爪で襲い掛かる異形のモノ。
戦闘そのものはすぐに終結するが、いつ襲い掛かって来るか緊張感が半端ではなく、采希は精神的に疲弊していた。
琉斗もうんざりしたように不機嫌な顔をしている。
ふと、白虎が速度を緩めた。
また襲撃かと思い采希は前方を見るが、何も見えない。
「どうした、采希? 何か来るのか? ──俺には何も見えないんだが」
「さあ? 俺にも見えな、あ…………はぁあ?」
慌てて白虎を停める。見えないはずだ。
それは地面を這うようにこちらに向かって来た。
まるで黒い波が押し寄せるように見えるが、小さな黒い虫のような大群だ。
「……なんだ、あれは? ……まるで、ゴ──」
「言うんじゃねぇ!」
その姿、その動きに、采希の全身にぞわぞわと悪寒が走る。
「信じらんねぇ。しかもあんなに群れて……勘弁してくれ」
実際の黒き害虫ではないだろうが、こういう演出は本当に勘弁して欲しいと采希は天を仰ぐ。
何より、この群れた小さな相手をどうやって片付けたらいいのか見当も付かなかった。
「……采希」
「あ?」
「……俺は……ちょっと……こういったモノは……」
震える声に、思わず采希は琉斗の方を見る。
ガチで蒼褪めたその顔に、大きく肩を落とした。
琉斗が幼い頃のトラウマで、虫が苦手になった事をようやく思い出す。
大人になってからはそんな場面に遭遇する事もほとんど無く、すっかり忘れていた。
「お前ね……」
「いや、だってあんな……あんな虫……うああ……」
「俺だって気色悪いわ!」
このままではあの集団に飲み込まれてしまう。
両手で顔を覆った当てにならない琉斗を背後に、采希は覚悟を決めた。
弓のままの琥珀を左脇に抱え込み、身体の前で両手の掌を向かい合わせ、手の間に光をイメージした気を集める。
「采希! もう、もうそこまで……」
「──来てるんだな、はいはい。いいからお前は黙ってろ」
眼を閉じたまま、頼りない従兄弟に悪態をつく。
両手の間に集めた気を、ふわりと空に浮かび上がらせる。
そのまま前方に移動した気の珠がかなりの高さに達したところで、弓を左手に持ち直して采希は気の珠に向かって矢を放つ。
矢は球体に吸い込まれるように消え、一瞬遅れてはじけ飛んだ気の珠から、光を帯びた気が霧雨のように降り注ぐ。
自分で作った物だが、黒き害虫を一掃するまで降り続いた気の雨が、そいつらを全滅させた途端にぴたりと止んだのに、采希はちょっと感動していた。
殺虫剤のスプレーをイメージしていたが、上から降らせるためにスプレーの霧よりも粒子の大きな雨の方がいいと思った。邪気の虫を浄化しただけではあるが、殺虫剤が振り撒かれたような雰囲気だったので、すぐに降り止んでくれたのには心底ほっとしていた。
おそらく素知らぬ顔の白虎と白狼がサポートしてくれたのだろうが、それでも、気の雨に当たったGもどきたちが蒸発するように消えていくのは、あまり見ていて気持ちのいいものではなかった。
琉斗はというと、ほとんど顔を背け薄目を開けて見ていた。
見た目と真逆なその仕草に、采希は視線を逸らして笑いを堪える。
「……もう、終わりか?」
「終わりましたけど。お前なぁ……」
「すまない! 次は任せてくれ!」
「次って……ロクでもない予告はやめてくれ」
「……采希、さっきから何かおかしな臭いがしないか?」
琉斗が気付く以前から、采希にはずっと焦げたような臭いがしていた。人気が無ければ火の気もあるはずがない。
ケモノ系の呪でもない、ヒトの悪意の塊。
それを那岐は焦げたような臭いに感じ取っていたはず、と采希は思い出す。
「俺だけじゃなくて、琉斗にまで分かる程の強大な悪意って事か? ちょっと、警戒した方がいいかもな。琉斗、ロキから降りろ。歩くぞ」
「わかった」
何かあった場合、白狼と白虎が動きやすいように、と思い采希と琉斗は歩き出す。
左手に握っていた弓のままの琥珀がぶるっと震えた。声は聞こえなかった。
「──琥珀?」
弓が波打つように震え、その形が徐々に崩れていく。
「……え?」
采希の脳裏に、突如閃いた。
あの時──琥珀を見た晴海さんは、何て言っていた?
『……だってこれ……ご神体レベル……』
ここは聖なる存在を拒む空間。そして琥珀の本体は神社で祀られている。
「──!! 琥珀! 待て、俺の気を……俺の力を使え!」
すでにその長さが半分ほどになっている琥珀を、両手で握りしめる。
最後の仕上げに巫女の気で練り上げられたと聞いている。ならば俺の気でも代用できないだろうか、というか、代用させてくれ、と強く思った。
采希は琥珀に向けて一気に力を流し込む。
「頼む琥珀……頼むから……」
必死に握りしめていると、琥珀の形状が弓に戻り始めた。
采希が安堵の息を吐いた次の瞬間、白狼が慌てたように振り返る。それと同時に聞こえて来たのは、琉斗の悲鳴に似た叫びだった。
「采希! 危ない!」
一瞬で体躯を返し後方に飛び出した白狼に、視線を向ける。
眼で追えない程のその速さに遅れないように視線を移動させていくと、視界に収まらない高さの長いモノが唐突に現れた。
白狼が飛び掛かろうとしているのは、巨大な三つ首の蛇。高く、鎌首を持ち上げている。
その首の一つに牙を立てる。
白虎もそれを追うように、別の頭部に頑強な爪を振るう。
残った最後の首が一瞬後ろに反らされ、その口から真っ黒な槍のような【気】が吐き出される。
槍は真っすぐに采希の心臓を目指して向かっていた。
防御しなければ、と頭の片隅で考えた瞬間、琥珀が反応して大きな淡い虹色の盾のような防御壁が現れる。
ゆっくりとスローモーションのように映るその光景が、脇から飛び込んで来た気配で覆われた。
「……琉斗……?」
采希は眼の前で崩れ落ちる身体を無意識に抱きとめる。
「……琉斗」
手の平が生暖かい液体でぬるりと滑る。
脈打つたびにこぽりと音を立てて溢れるそれを止めることもできずに、采希は呆然と琉斗の身体を抱きかかえていた。
琉斗の背に突き立てられた黒い槍は、溶けるように消えて行く。
徐々に下がっていく琉斗の体温を感じながら、采希の身体は震えが止まらない。
琉斗の震える手が采希の頬に触れ、閉じてしまいそうになる眼を懸命に開けて、采希を見つめる。
「……さい……呼ぶんだ……巫女……あき……このままでは……お前……も……」
途切れ途切れの声を聞き取ろうと、慌てて耳を寄せる。
浅く短い呼吸音が、ふっと小さく吐いた息を最後に途絶える。
采希の頬に添えられていた手がぱたりと落ちた。
「……琉斗……?」
──その瞬間、采希の視界が真っ黒に染まった。
轟々と、耳元で風が唸る。
視界には風に切り裂かれ、散り散りになっていく三つ首の残骸が映る。唸りを上げる風はその中に真空の刃を作り出し、三つ首の邪霊を切り刻んでいく。
白虎と白狼が風に耐えるように身体を伏せた。
采希は自分の手に視線を落とす。この手が受け止めた琉斗の血はまだ温かい。
なのにどうして琉斗の身体はこんなに冷たいんだろう、と思った。
──冷たい身体。
その中の、命の炎が消えようとしているのが采希には分かった。
邪霊を粉々に切り裂いても、風は止まない。
采希の心の中は凍り付いているようだった。狂ったように暴れまわる風の中心で、瞬きも呼吸も出来ずに座り込む。
地面にべったりと座り込んだまま、天を仰いで声にならない叫び声を上げる。
喉が張り裂けそうなほど叫んでいるはずなのに、采希の耳には風の音だけが届く。
(琉斗、どこだ? 俺は……)
采希の眼から光が消える。
激しい耳鳴りで周囲の音を遮られていた采希の耳が、微かな声を捉える。
《采希さん! 戻りなさい!》
(──戻る……? どこに? ……もう、いないのに)
「采希さん、お願いです! 早く戻ってマスターを呼んでください! 今ならまだ間に合います! あなたが呼ばないとマスターの力はここに届かないのです!」
(間に合うって……何が? …………間に、合う……?)
『今ならまだ追える。力を貸して欲しいんだ』
懐かしい少女の声が頭を過る。
(……追う? 何を……? 魂……琉斗の……)
(──!!!)
采希の眼がようやく周囲の風景を認識する。空中に浮いた、青銀の肢体とエメラルドの眼。
張り付いたような喉から声を絞り出した。
「……シェン……間に、合う、のか?」
《そうです! 急いでください!》
──彼女がマスターと呼ぶのはただ一人。
現実に引き戻される意識が、ものすごい速さで采希の記憶を検索する。
陽が昇る。太陽に向かって祈りの舞を捧げる巫女の手には神楽鈴。通常と違うのは、その右手に剣が握られていること。五色の細い布で結ばれた神楽鈴と細身の直刀を両手に掲げ、巫女は舞う。
くるりと回ってこちらを向いた、その姿。
合うはずのない視線が交わされる。金色を帯びた眼が、その名を采希に思い出させた。
「頼む、琉斗を、助けてくれ──あきら!!」




