第1話 邪心の呼ぶ声 前編
気付いた時には薄暗い空間にぽつんと一人、立っていた。
この視界の悪い空間はどこだろう、と思いながら彼は辺りを見渡す。
細い月の明かりによって薄っすらと木や草の輪郭が浮かび上がったようなその景色は、子供の頃に街灯のない山中を歩いた記憶を想起させたが、前後の状況は思い出せなかった。
現代日本で、防犯灯もハイウェイ灯もない場所を探すのは難しいと思うのに、何処を見渡しても人工の灯りひとつ、見当たらない。ならばと視線を上に向けても、薄暗い雲のような物が天を覆っている。
平坦ではあるが、森ではない場所で。木々の陰に、灌木の下に、何かが蠢いているような気がする。それが何であるのかは判別できないが。
(多分、夢だな……)
こんな状況は、多分夢だ。彼はそう思う事にした。
歩いているのに、その感覚が薄い。確かに脚は動いているのに、足下には踏みしめる感触もない。
どこからか、微かに鈴の音が聞こえた気がした。
御守りの類や猫の首についているようなそれの音ではなく、もっと厳かなその音に、彼は聞き覚えがあった。軽やかな複数の鈴が同時に奏でる音。
(あぁ、これってよく祭事とかで巫女さんが鳴らしているような……神楽鈴、だっけ?)
──しゃん、しゃらーん……
(やっぱりそうだ。でもどこから……? どうしてここで聞こえるんだ? 誰が鳴らして──)
気付くと、足元に白い何かが彼と並ぶように歩みを進めていた。
白地に銀の縞。
(猫? いや、この足の太さだと……虎か? 子供の、ホワイトタイガー?)
白い虎が彼を見上げる。その深い青の眼が彼の姿を映し込んだ。
(え? これ……俺、子供? 子供になってる?)
虎の瞳に映った自分の姿を認識した途端に、夢の中の彼の姿も変わる。
子供の頃に──この世界の陰に生きる不思議なモノたちを認識していた、あの頃の姿に。
* * * * * *
ベッドの上に上体を起こした彼──采希は身動ぎもせずに眼を閉じたまま、座っていた。
眼を閉じたまま前触れもなく起き上がり、そのまま動かなくなった。
十二畳ほどの部屋の反対側に置かれたベッドから、采希の様子を不思議そうな顔で眺めていた彼の弟、那岐には、その身体が僅かに発光しているように見えた。
自分が寝ぼけているのか、そう思いながら那岐は眼を擦る。
兄の采希。
母親似のその容貌は、子供の頃、よく女の子に間違われていた。
中学を卒業する頃には頬の丸みも消えて細面になったものの、濃い睫毛に縁取られた目のせいで、美人と言われていた母親と並ぶと、いまでもそっくりだと言われている。
薄ぼんやりと光ってはいるが、邪気は感じられない。どちらかというと、人里離れた自然の『気』に近そうだ、と思った那岐が静かに兄に声を掛ける。
「兄さん、大丈夫? 起きてる? 変な夢でも見た?」
寝癖の残るふわふわの髪を手櫛で直しながら、那岐はベッドから足を下ろす。
采希とは違う父親似の那岐は、切れ長の目を眇めながら兄の方へと近寄る。
半分眼を開け、ゆっくりと弟に顔を向けた采希は、頷こうかどうしようか少し迷うように視線が揺らいだ。
「那岐……ご先祖様の、警告──」
そう呟くと、ぐらりと身体が傾ぐ。枕の方ではなく、不自然に斜め前方に倒れた。身体がベッドから落ちそうになる。
「──!! 兄さん?!」
慌てて采希の身体を抱き起こし、意識を失っているのを確認した那岐は、何かに気付いたように采希の額に手を当てる。
──熱い。
大急ぎで自分たちの住処である『離れ』の階段を駆け下り、玄関から飛び出して母屋へ向かった。
「母さん!」
大声で呼ばれた女性が二人、同時に振り返る。一人は母、もう一人は叔母。
一卵性の双子の姉妹である二人の顔は、ほぼ同じ造りをしていた。
気の強い姉と、心配性の妹。その性格は二人の表情と雰囲気に現れていて、成長するにつれて簡単に見分けがつく程になっている。
「那岐? どうした?」
双子のうちの、ショートカットの姉──那岐の母親が声に応えて玄関に向かう。セミロングの妹が不安そうな顔で後を追った。
「母さん、兄さんの様子がおかしいんだ。一緒に来て!」
母の朱莉は慌てた様子の息子に黙って頷いて、玄関のサンダルを引っ掛ける。敷地内を小走りしながらほとんど無駄な肉のない息子の背中に声を掛けた。
「おかしいって、どんな様子なんだ?」
「身体は起きてるのに、頭が眠っているような感じで、しかも身体が何だか光ってたんだ。声を掛けたら『ご先祖様の警告』って言って意識を失って……」
「……ご先祖様ぁ?」
那岐の兄であるもう一人の息子、采希に特に持病はない。これまで意識を失うような出来事があっただろうか、と考えてみた。
ほとんど風邪もひかない息子の事を考えながら朱莉は眉を顰め、訝しんだ表情のまま離れの階段を駆け上がる。
ここは上代家の敷地内にある二階建ての離れ。
母屋と隣接したその離れには、朱莉と妹の蒼依の、息子たちだけが住んでいた。
二階の大きな二部屋を、それぞれ間を家具で一部仕切って使っていた。他の部屋もあるのだが、子供の頃のまま兄弟ごとに分かれ、既に成人した彼らが寝るためだけの部屋になっている。
倒れたままの息子の様子を確認し、朱莉は溜息をついた。
「寝てる……? ……だけに見えるなぁ」
「姉さん、とりあえず母屋に運ぶ? ご先祖様云々ってのも気になるし」
「う~ん……ひとまず様子を──あ、起きた」
唐突に目を開けた采希は、自分を見つめる複数の視線に気付いてびくりと身体を強張らせた。
「…………何?」
* * * * * *
「──で? 采希は自分が『ご先祖様の警告』って言った事は覚えていないって事か」
休日ならではの、少し遅めの朝食を頬張りながら采希が頷く。
那岐が指摘した『発熱』もなく、本人は起きたら何事もなかったかのように、けろりとしている。
「……まあ、身体も何ともなかったんだし、寝ぼけただけかな?」
「でも、姉さん、うちは──ほら、色々とあるから……気にならない? 母さんに連絡してみようか?」
「この程度の事で、旅行を楽しんでいる母さんの邪魔をする勇気は──」
「……ないわね」
双子の姉妹が揃って溜息をつくと、那岐が首を傾げた。わざわざ、旅行を楽しんでいるはずの祖母に連絡するほどの事ではないと思うのだが、何か不安要素があるのかと心に引っかかる。
「蒼依さん、色々って、何? うちに何かあるの?」
叔母の蒼依に尋ねると、少し目を伏せながら蒼依が口を開いた。
「うちはね、どういう訳か、むかーしから女系なの。男の子は産まれても育たなかったり、婿養子を貰ってもすぐ……」
言い澱んだ蒼依を察し、那岐はちらりと兄の采希を見る。
自分たちの父も、そして蒼依の夫も既にこの世にない。
長女である朱莉の夫は婿入りして上代の姓を名乗ったが、蒼依の夫は婿養子ではなかった。なのに二人の男性は子供たちが幼いころに鬼籍に入った。
朱莉には采希と那岐、二人の息子。
蒼依には双子ともう一人の息子がいる。合わせて五人の子供たちが残された。
妹の方が孫三人を一人で働きながら育てることに憂慮した祖母からの提案で、妹の蒼依は上代の家に戻り、祖母と姉妹が協力して五人を成人まで育て上げた。──とは言ってもやんちゃな五人の男児が相手だったので、子供達に空いていた離れをあてがって母屋の破壊を回避しようといった配慮はなされていた。
「女系? でも僕たちは全員男だよね? もう全員成人しているし」
そう言う那岐から、采希は何かを思い出すように視線を外した。
女系の一族だったとは、誰かに聞いた記憶がある。
凛と背筋を伸ばした、きりりとした面影が脳裏を掠める。
采希と視線を合わせながら『これは結果ではない』と自分に告げた彼女は誰だったか。誰が、何の事を指して告げたのか、全く思い出せない。なのに唐突に、その言葉だけが浮かび上がった。
何の事だろう、と采希は食事を咀嚼しながら眉を寄せる。
那岐の問い掛けに困ったように姉に視線を投げかける蒼依に、朱莉がちょっと肩をすくめてみせる。
「あのね那岐、随分と昔──何代前までかは分からないけど、うちは神職だったらしいよ。何らかの呪いを受けたとかの理由で神職からは降りたらしいんだけど、以来、成人したのはあんた達だけ。これまでは七歳までも生きていないらしい」
那岐は益々不思議そうな顔になった。
「んー……でもさ母さん、だったらどうして今、僕達はこうして元気でいるの? 五人も元気に育っているなら、女系っていうのは気のせいとか偶然なんじゃない?」
「どうなんだろうね。私にはそういう力がないから分からない。もしも呪いとかの類じゃなくて偶然だったらそれはそれであんた達にとっては良いことだし。──そうなると今度は采希の『ご先祖様の警告』って言葉が気になるんだけど」
「ふぁ?」
一斉に自分に向けられた視線に、考え込んでいた采希は思わず呆けた声を上げてしまった。
「…………俺?」
「うん。単に寝ぼけていただけなら気にすることもないんだろうけどね。あんたは小さい頃、那岐よりも変わった子だったから」
そういえば、と、そんな事を何度か聞かされていた事を采希は思い出した。『不思議な子供だった』と曖昧な表現ではあったが。
弟の那岐は『霊感少年』として近所では有名人だった。霊を認識し、その声を聴く。そんな那岐よりも変わっていると言われても、自分では全く覚えていなかった。
「──もしかして采希、能力が戻ったとか?」
母の言葉に采希は片方の眉をちょっと上げて首を横に振った。
能力って何の事だ、と言いたげな采希を、那岐は隣でじっと見つめていた。
* * * * * *
微かな声で、誰かに呼ばれた気がして後ろを振り返る。
母に頼まれた買い物を済ませて帰路についていた采希は、小さく溜息をつきながら眉を顰めた。
隣には、荷物持ちとして付いてきた采希の従兄弟、琉斗。蒼依の息子、双子の弟の方だ。
父親似の精悍なきりりとした顔立ちに、短い髪。鍛えられた身体も相まって、武骨な印象があった。
采希が振り返っても誰も知り合いはおらず、声は聞こえなくなる。
何度か同じことを繰り返し、とうとう采希が立ち止まると、隣を歩いていた琉斗が怪訝そうに尋ねて来た。
「さっきからどうかしたのか? 何度も振り返っているが、尾行でもされているのか?」
「いや、誰かに呼ばれたような気がしてな。ずっと視線を感じる気がするんだけど」
「それは俺のファ……」
「俺は真面目に話してるんで。ふざけると殴るぞ」
「──采希、殴る前に言ってくれ」
不機嫌そうな采希を和ませようとした琉斗の発言は失言に終わる。
思わぬ反撃に合った琉斗が涙目になった。
「ここ数日、ずっとなんだ。何となく気味が悪い。お前は何か感じなかったか? 冗談抜きでな」
「念を押さなくても……俺には特に」
「やっぱり、気のせいか?」
自分に言い聞かせるように呟いて、采希は再び歩き出す。
二、三日前からずっと誰かに見られている気がして落ち着かない。
呼ぶ声やその気配にも采希に覚えはない。気のせいと断定できない程度の不快感に、つい溜息が漏れた。
「帰ったら那岐に相談してみるかな」
「……俺には相談してくれないということか?」
「だってお前、オカルト系は苦手だろ」
「…………そういう、話なのか?」
「もしかしたら、だけど」
「……」
采希の隣で琉斗が盛大に冷や汗を流す。
琉斗はきりりとした見た目に似合わず、どうにもそういう類の話が苦手だった。だから心霊番組も絶対に見ない。
「心配しなくてもお前には相談しないって」
「いや、采希が困っているなら俺も……その……身内として……」
采希は大きく息を吐いて、頭を掻いた。うっかり怖い映像を見てしまった日の夜は、部屋の電気を消して寝られないほど怯える、と双子の兄の方から聞いている。こんな事で安眠を妨げるのはどうかと思った。
「無理しなくても、当てにはしてないから」
「……」
軽くへこんだ様子の琉斗に構わず、采希は再び歩き出そうとした。
《くすっ》
耳元で聞こえた音に采希の身体が硬直する。一瞬、耳鳴りがして、背筋に悪寒が走る。
息遣いまで聞こえてきそうな程、ごく近くから聞こえた気がした。
「……おい、急ぐぞ」
琉斗に声を掛け、返事を待たずに走り出す。
(何だ? やばい、すごくやばい気がする)