5話目
5話目です
誤字・脱字があったら申し訳ありません
部長が考えていた空間さんをヒロイン役にさせる多少不安のある計画を海柱さんに伝え、月曜はそれにて解散。
翌日、火曜朝。
ホームルームが始まり、文化祭実行委員の男女二人が、雑談が静かに走る教室の黒板の前にたんと並んで立つ。
「えーっとじゃうちと隣でやる劇の配役、決めてくから。あー、あと、昨日配った生徒会の投票の紙だけど、今週の金曜までに廊下のあの箱に出しといてください」
廊下の窓際に置かれた机の上、手作り感のある箱を委員は指差し、忘れないでと忠告してからチョークに手を伸ばした。その際、扉の前に立ってしまっていた暗い雰囲気の担任がぴゃっと驚いて指から逃れた。
まだあの人に出会ってから一ヶ月も経っていないこちらからすれば、その動きに目を引かれてしまうものだが、俺以外はとうに慣れっこなのか特にそれに何か声が飛ぶことなく、黒板にかつかつと委員の手で役職が書かれていく。
「まず主役から。誰かいる?」
立候補がいないかどうか委員が全体に目を向けるが、もちろん上に伸びる手はいない。…いや俺がその手にならなければいけないのだが、実際にこうしてその時を迎えるとすんなりと身体が動いてくれない。しかし、さっさと立候補しなければ誰かに取られてしまうかもしれない。
別に劇をやるという事についての不安は実際はそうでもないのだ。一番問題なのは手を挙げることただそれだけ。
誰も挙げていないという状況が、一層手を挙げられない状況を作ってしまい、今、俺のようなクラスの中心にいない人間が挙げてしまえば『なんでこいつが』という目が必ず来る。
良い方向に進まないと分かっているからこそ、意思は波打つ精神の底に沈んでいく。
誰がいくのかと雑談でひしめき合っていると、名も知らない一人の女子が委員に軽く手を上げて声を掛ける。
「隣の方ってさー、誰かもう決まったの?」
「いや、今こっちと同じで決めてると思うけど…」
「ふーん、そーなんだ」
そんな話を聞いてしまえば、尚更、立候補なんて出来ない。
これが誰だか判明していれば、例えばその人の事を好きと友人に話した奴がその友人の悪ふざけの結果主役になるなんて起こり得たかもしれないが、未知ではそうはならない。
本来、俺にとって誰もやろうとしないこの状況は喜ばねばならないのだが、相も変わらず頭止まり。
名も知らぬ女子に向けていた視線を机に戻そうと横に動かした時、俺の方を見ていた目に気付く。
「……」
西谷が昨日の時のように両手をぱしっと合わせて、周りに気付かれないぐらいひっそりと動きだけで頼んできていた。それは俺の心境を分かってか、単に念押しかは知らないがどちらにせよ答えなければ作戦は進行しない。頭の使いすぎで固くなっていた表情を意識してほぐし、ふーっと積もり積もった恐怖の感情を息に変えて吐き出す。
…言ってしまえば、俺が手を挙げて変な目で見られるのは大した変化でもない。
元々奇異と見られていた人間が異質な事を起こしただけで、静かに蔓延っていた俺への異なった物を見る目がほんの少し強くなるだけ。…本音はやりたくないのだが、それで作戦をおじゃんにしてしまうのも居たたまれない。
「……」
「あ…初橋さん、やるの?」
諦観してこの指とまれと言わんばかりに手を上に挙げれば、見事、このクラスの全員の視線が俺に集まった。
やはり、予想していた通りの目の群れ。
心臓がぶるっと震えるのを感じながらも、委員の質問に怯えた喉を使って声を放った。
「…良いなら」
「あー、うん…うん。やりたいんなら…じゃあ」
あからさまに嫌そう…というか不安そうな態度で主役の所に俺の名前がかつかつと書かれていく。委員としては俺みたいなやつにして本番盛り上がるのか不安がきっとあるだろうが、誰も挙げない状態で立候補されてしまってはそれを優先させるしかない。
…これで、空間さんがなっていなかったら骨折損のくたびれ儲けになるが、果たしてどうなっているか。
「あーいうのやる人だったんだねー」
「ねー、意外」
さっきまで俺についてなんて誰一人話していなかっただろうに、一瞬にして小声で開催されている会話の題は、俺で全て埋め尽くされている。それが心地よい筈もなく、困った視線の先を西谷にすればグッと親指を立てていた。
…主役を決めるのにはそこそこの時間を要したくせに、他の裏方や脇役はまるで裏で話をしてきたかのようにポンポンと決まっていき、西谷は結局衣装班に就くことにしたらしい。流石に女子の衣装は女子が作るだろうから、彼が空間さんと接触出来るかどうかは怪しいが、主役と何の接点も持てない小道具とかに就くよりはまぁ可能性はある。
次の授業に備え、黒板の白い文字が消されていくのを頬杖付いてボーッと眺める。あのまま主役になったという事実も消されていって欲しいが、叶わぬ願いは空しいだけ。
と、不意に肩がとんとんと叩かれる。
西谷かと思ったが、振り向いて見れば二人組の女子。お前に主役は似合わないと脅されてしまうのかと思ったが、用件は違うらしくクラス後ろの扉を一人が指差した。
「誰か呼んでるけど。文化祭の話で、ってさ」
「…ありがとう」
見れば、扉の傍で海柱さんが立っていた。
傍目には、その光景は主役の奴と打ち合わせか何かでもするんじゃないかと勘違いさせる図かもしれない。
がたりと席から腰を持ち上げ、海柱さんの元に向かう。
「何の話か分かるよね?」
「…まぁ」
その言葉に頷いて、近くの階段の踊り場まで移動する。
ここも人がいるにはいるが、数は少ないし、いても友人との会話に熱中しながら上や下に行くだけで、俺達の話を耳に入られるような余裕は見えない。
「まずよみだけど。ちゃんと主役にしたよ」
今、作戦を知っている人間で多分一番楽しんでいるだろう彼女は誇らしげにふふーんと胸を張って結果を報告する。
ちょっとだけ悪い目付きも大分穏やかに緩み、自慢げな顔は笑みを表にする。
「ちなみに、どうやって」
「ん、普通に、やってみたら?って。そしたら他の子も良いねってなって、で。あの子、押されると弱いから」
要は空気を使ってらしい。
きっと空間さんにも多少の勇気を求めてしまったかもしれないだろうが、海柱さんや友人がいたお陰で俺よりは周りの目は酷くなかったと思う。むしろ、チア部というポテンシャルの強さもあって歓迎されたかもしれない。
「初橋!」
「…ん」
名字を呼ばれ、声の来た方向を見れば、やっと見つけたと言わんばかりの表情の西谷がこっちに駆けてきていた。
「西谷くん」
「あー…えっと」
声を掛けてきた用件はまず間違いなく告白についてだろう。
俺の元まで来た西谷は海柱さんに視線を向け小さく頭を下げると、告白の話をして良いのかと俺に目を運んでくる。昨日の今日で、西谷には海柱さんに関して話をするのが出来ていなかった。
「空間さん主役にするのに手伝って貰った人だから、まぁ話しても大丈夫」
「君、文化祭で告白するんだよね?」
「ま、まぁ…うん。もう少し、小さく言ってくれると…」
「…ごめん」
辺りをきょろきょろとして潜めた声音で呟いた西谷に、海柱さんはしゅんとして申し訳なさそうに言葉を返す。
俺達の事を他の人達は全く気にしていないが、『告白』という高校生にとっては最高級の餌がうっかり耳に入ってしまえば、何処までその話が広がるかは想像が付かない。まさしく、壁に耳あり障子に目あり。
「それで」
油断禁物と三人で確認したところで、西谷が何のために俺に声を掛けてきたのか尋ねる。
西谷は俺の視線に気付くと一瞬はてなを浮かべたが、すぐにハッとする。
「忘れてた。…初橋にお礼言いに来たんだった。立候補、ちゃんとしてくれたから」
「いや…そうしないと、作戦が進まないし」
「でも、結局その作戦も俺の為だし…本当にありがとう」
なんか後で奢ろうかと明るい笑顔の西谷を他所に、海柱さんはあれ?と首を傾げる。
「ね、西谷くんが主役やるんじゃないの?八つ橋がするんだ?」
確実に行われるらしい公開告白に関しては海柱さんに話していなかったが、クラスから女子一人男子一人で劇をする、と話があれば、やはり皆そういう考えになる。
「何か部長がそれでいけって言って」
「ふーん…じゃ西谷くんは文化祭何してるの?」
「衣装、だけど…」
「なら私と一緒だ。任せて、よみの傍に行けるよう私も色々頑張るから」
むんと張り切る海柱さんに、西谷は少し困惑しながらもありがとうとお礼を言う。彼からすれば何故ここまで彼女が異常に乗り気なのか、不気味な部分があるのだろう。
同じ衣装として関わっている内に、単純にそういう性格なのだと分かっていくはず。
というか海柱さんに頼んだのは、空間さんを主役にさせる事だけのはずなのだが、乗り気過ぎていつのに間か文化祭準備期間も手助けしてくれる事になってしまっている。
と、廊下に見えていた生徒が続々とクラスに帰っていくのが見えた。そろそろ授業が始まる時間らしい。
「西谷くん、絶対成功させようね」
二人もそれに気付いたようで海柱さんは西谷に一言応援すると、るんるんした足運びで自分のクラスへ戻っていった。
「…うん、絶対」
俺と西谷も、その後に続いた。
放課後から文化祭準備は本格的に始まり出す。
設けられた準備期間はおよそ二週間。来週の土曜日に文化祭は一日行われ、その日を全力で楽しむ為に廊下には絶え間なく、必ず何かを手に持った人が流れていく。一日しかない文化祭ではあるが、代わりに夜遅くまでの開催が自治体や市によって認められている。
夜七時までの出し物を終えると、お客や学生関係なしにグラウンドでキャンプファイヤーを楽しみ、完全に終わるのはおよそ九時頃。
パンフレットに書いてあったことを読むに、高校と地域の機関とが密接に関わる結果出来ている事で、そういう所もまた生徒達を一層奮い起こすとかなんとか。
投票うんぬんも、もしかしたらこういう事を続けるための手の一つなのかもしれない。
活気溢れた廊下を歩き、一階右側の扉を使って部室棟へ。
左側の廊下は中庭に出店する部活やクラスの人たちで埋まっており、結局いつもの道。部室棟に着いたら端から三番目の部室まで歩く。
…と、目の前に着いてから一つ気づく。
部長もいい加減目立った動きを起こしているかもしれない。なら、今の部室は誰もいない状態の可能性もある。
入部しに来た時も似たような事を考えたが、あの時は来ていた。しかし、今回ばかりはどちらかと言うと鍵が掛かっていて欲しい。
願望交じりに扉に手を掛け横に力をくっと入れれば、すいっとそれは横に動く。…動いてしまう。
扉の音に反応した椅子に腰掛けた部長が、身体を回しおぉと挨拶に軽く手を上げてくる。上がらなかった手にはスマホが収まっていた。
「主役やるんじゃなかったか?」
「何か衣装作るからってあちこち計られて、それで台本渡されて読んどけって。教室でも良かったんですけど、二クラスもあるから出入りとかごちゃごちゃしてて邪魔になるかと」
言いながら、部長の席からテーブルを挟んだ斜め前の席を引き腰を落ち着かせる。
読み合わせは明日。読まないと迷惑をかけることになるしと、テーブルの上に台本を開いてざっと読み込んでいく。
内容としては細かいとここそちょこちょこ変更しているが、ざっくり見ればロミオとジュリエット。恋をする二人がお互いの身分に嘆くお話。
部長も反対な為読めているかは分からないが、そうかと相づちを打ちながらその台本に視線を送っていた。
「そっちのクラスの他にも似てる劇やるみたいだし、負けてられないな」
「別に争ってる訳じゃないんですけど…」
「だが気にしてる奴は一人ぐらいいるだろ?」
「まぁ、いますね」
出し物の順番はもう決まっていて、他クラスの劇の次に俺達のクラスの劇となっている。場所は体育館の舞台。公開告白も本当に行われるのであればそこでとなっている。
順番的に印象に残る事になるのはこっちだろうが、だからと手を抜くのも文化祭の熱が冷める、と、中心を担っている数人の男女か決め、本格的を目指して絶賛準備中。
俺も台本の読み込みが甘かったらダメ出しされてしまうかもしれない。ぱらぱら台詞ばかり書かれた台本を読んでいると、部長は「そう言えば」と何かを思い出す。
「二年の方でも転校生が主役をやるって話、ちらほら聞いたぞ」
話を聞いて途中までページを捲っていた手が止まる。
掴んでいた紙をその際離してしまい、自由落下で台本は次のページに進む。
「あの」
「ん?」
「知ってたんですか、俺が転校生ってこと」
話の流れからして、その転校生とやらが俺ではない誰かな訳がない。
知ったところで…まぁ、特別部長への態度を変えるつもりはないが、俺がその名を気にしている為につい口が勝手に聞いてしまった。少し冷たい、突き放すような声音になってしまっていただろうか。
答えはすぐに返ってきて、落ちていた瞳を上に向かわせた。
「転校生がいること自体は聞いてたが、それがお前とは知らなかった…話しちゃ悪いやつだったか?」
「いや…すみません。あ、文化祭の方、それで少し変わったりしますか?」
話題を終わらせ変えれば、部長は点けっぱなしにしていたスマホの電源に触れ、んーと唸る。
「今回の作戦、になってるか分からない作戦はとにかく体育館に人が欲しい。話題性をくれたのはむしろ助かった」
「…そうですか」
自分の放った言葉に何も続けられず、流れる沈黙。
動きを止めていた手をまた紙へ運び、台詞のほとんどを読まずにまた次へと歩ませた。
「と…そうだった」
「…?」
部長が独り言の声量でそう言葉を漏らす。
文化祭の影響で間近のグラウンドも静かなもので、声量は小さくとも耳に聞こえてきた。下に向けていた瞳をまた持ち上げれば、部長がいやと少し躊躇うようにして喋り出した。
「八つ橋、あれこれやってもらってるお前にまた頼みたい事があるんだが…」
「…」
「もちろん申し訳ないとは思ってる。だがな…」
やりたくもないのに主役をやることになった俺にまだ何かあるのかと温度を下げた瞳を送れば、あちらの視線は横に逸れ申し訳なさそうな表情になる。
「…何頼む予定なんですか」
「公開告白で…空間さんを指名してほしいんだ。告白するために」
「西谷がですか?」
どう考えても流れからして俺が、だろうが、信じられずに彼の名前を使って尋ねてしまう。無論、部長の頭は違うと横に振られる。
「…八つ橋が。舞台に彼女を呼び出してくれ」
主役をやった俺が、同じく同じ劇でヒロインをやった空間さんに告白する。
それは、主役を西谷にして行うのではないかと、しかし結局違うと言われたまず真っ先に思い付いていた作戦。
「そろそろ何したいのか、作戦、教えてもらえません?」
「無理だな」
「必ず西谷が告白することになるんですよね?」
「あぁ」
ならと自分の頭を鈍足でこくりと頷かせた。
正直、今頷いたのはヤケクソに近い。というかヤケクソそのもの。これで結果が伴わなければ骨折り損から木っ端微塵に昇格となる。
もしも成功したとしても、きっと後々になってどうしてあんな事をと、酷い後悔に襲われるのだろう。
「本当に、西谷の告白成功するんですよね」
「まぁ…大丈夫だ。…大丈夫」
辞めとけば良かったかもしれない。
アパートの階段をたんとんたんとん上りながら鞄の中の鍵をがさごそと探す。
三階まで上り、ふと思い立ち景色を見ればそこにあったのは夕焼けに照らされた街ではなく月明かりに覆われた街。
文化祭の準備をしていたらそこそこ良い時間になってしまっていた。
いや、今日の俺の仕事は台本を読むだけでわざわざこんな時間まで学校に居座る必要もなかった。だが、クラスの全員が熱心に取り組んでいる中、こそこそと人目を気にして家に帰るのもバツが悪い。
結果、終わると言っていた時間まで部室で台本の暗記に励み、教室をこそっと覗いてみたらまだほとんどの奴等が頑張っていた。更に教室で居心地悪くも待って、そして家に着いたのが8時の手前だった。
そんな時間まで待っていると、ヤケクソで頷いた公開告白にやはり後悔の念が現れ、渋い顔をしていると知らない誰かから「頑張ってね」と励まされてしまった。多分、演技方面で悩んでいると思われたのだろう。
本当に、文化祭ではとことん頑張る事になる。
鞄の中から鍵を見つけると同時に、自分の家の扉の前に到着する。
この時間なら、もしかしたら姉さんが帰ってきているかもしれない。
ドアノブに手を掛け捻ってみれば扉がぎぃっと声を上げ、出来た隙間から光が溢れてくる。ついでに脱ぎ散らかされた靴も視界に入ってきた。片方に至ってはひっくり返させれてしまっている。
扉を引いて玄関に入り、俺も靴を脱いで自分のと一緒に姉さんのもしゃがんで整えておく。
と、廊下の奥、リビングの扉が開けられる音がして振り向けば、姉さんがその後ろに立っていた。
「おーかえりっ♪」
「ただいま」
手をひらひら振って俺の側までとたとた近寄ってきて、同じようにしゃがむ。
「今日遅かったね。何かあったの?部活?」
「いや文化祭近くて」
「ほー、文化祭。懐かしいなぁ…あぁ…」
過去の楽しかった頃の記憶を思い出しているのか、何処か寂しげで辛そうな声で喋る姉さんに、脇に置いた鞄からパンフレットを取り出してこれと渡す。役決めの後に委員から配布されたのだが、ざっくりと表面を見ただけで新品同様。
「来週の土曜かぁ…土曜…」
姉さんはそれを受けとるとふむふむと読みながらリビングへと戻っていく。
俺もその背中を鞄を拾ってから追いかける。
テレビの音広がるリビングのテーブルには、まだ開けられていないレモンサワーがおつまみと一緒に並び、その目の前のソファに姉さんはパンフレットから視線を離すことなく座った。
「ね、クラスなんだっけ?」
「1-C」
自室に服を片付けに行こうとしていると、姉さんの声が俺に質問してくる。それに端的に答えて扉をガチャンと開けた。洗濯に放り込む服と放り込まない服をちゃっちゃと分け、放り込む服を抱えてリビングに戻る。
「一年のはー…二階だ」
お酒諸々が端に寄せられ、代わりにテーブルに広げられたパンフレット。
表側は高校の説明文だったり文字による出し物の一覧や説明になっているが、裏側を広げると高校全体の見取り図になっている。ふーんと見ていた姉さんだったが、ねーと俺に声を飛ばしてくる。
「二回目だね、文化祭やるのー」
「あぁ…うん」
転校前の高校は他よりも文化祭が少し早く、夏休みが終わると体育祭よりも先に行われるのだ。だから、文化祭をやるのは言葉通りこれで二度目。しかし、一回目の時はそんなに目立つような立ち位置ではなく、喫茶店で注文取ったり料理を運んだりで終わった。
劇の主役も公開告白も、今回が初めて。
新鮮味があると言えば良く聞こえるが、実際は先が不透明なだけである。
人間、一番怖いのは分からない事だと聞く。
一度廊下に出て洗面所に向かい、洗濯機に服を放り込んでまたリビングに。
扉脇、キッチンの隅に置かれた冷蔵庫をかぱっと開けてみれば手付かずの野菜や肉が置かれ、つまりは姉さんも晩御飯はまだ食べていないのだろう。そうであるなら酒にはまだ手を出してほしくなかった。
夕食作りのためがさごそ準備していると、奥で姉さんがとたとたと俺の部屋に行き、少ししてまた帰ってくる。
あの性格故勝手に部屋に入られるのはよくある事で、さして気にはならなかったが手に持たれていた物には視線が釘付けにされた。
「それ…」
「劇やるんでしょ?台本あるんなら読ませてよ♪」
パンフレットから情報を得たらしく、クラスの誰かお手製の台本片手に、ソファで晩酌を始める。主役と察せられるような、例えば自分がやる役の名前を丸で囲んだり、台詞に細かい書き加えなんてのはしなかったから良かったものの、まだ懸念はある。
キッチンに並べた材料を手付かずにして、心に巣食う懸念の答えを求めた。
「来るの?文化祭」
「んー、行くよ。仕事は有給でも何でも使って絶対休む」
「前のは来なかったのに?」
しかし、姉さんはだから行くんじゃんと文化祭に対して参加意欲を強く見せる。加えて、何やら教師をやっている疎遠になりかけの友人にも久しぶりに会いたいしと言う。
そして、当然の質問。
「でさ、劇、何やるの?」
「…普通のよくある話」
「そっちじゃなくて、役の方。けっこー大勢出るみたいだけど」
無理と分かりながらも劇の内容で挑んでみるが、姉さんは軽く流してしまう。
一口お酒を喉にぐいっと流すと、どれやる予定?と言葉を含んだ視線をキッチンで固まる俺に向けてきた。
「…それは」
主役、と答えよう物ならまず間違いなく姉さんは見に来る。それだけならまだしも公開告白の場面なんて見られたら、未来永劫からかわれる事になる。考えも無しに暴露するのは明らかに危険で、となれば興味を別の場所に惹かせるしかない。
幸いにして、劇の時間は六時からぴったし30分間。
盛り上がる文化祭の30分なんてのは、気づけば一瞬で終わる時間。ましてや終わり際。…その時間であれば確か。
「…そう言えばグラウンドで確か…六時ぐらいからキャンプファイヤー始めるらしいけど」
記憶が正しければ七時に終わる出し物後すぐに点火を行えるようにと、六時から形だけ作っておいたキャンプファイヤーの準備が始まり出す。
部長は体育館にとにかく人が欲しいと言っていたが、流石に一人いなくなるぐらいなら結末は揺るがない。一人欠けて失敗するような脆い作戦であれば、俺は全て辞退する。
最後に、見に行ってみればと付け足して、姉さんの表情を恐る恐るちらっと窺うと、あちらの瞳が俺の瞳をじっと一点に捉えていた。
さっきまではテレビに向いていた身体までも俺を正面にしていて、その行動に謎が募る。
視線を逸らせば話題逸らしがバレそうな気がして、俺も姉さんを一点に見つめる。
…少しの間、まるで何かを探るようにほんの僅か姉さんの瞳が動くと、お酒を飲んで潤った唇が抑揚の一切無い声を放った。
「主役?」
軽々と真実が見抜かれ、表情の筋肉がぴしっと凍りつく。
まぁ露骨と言えば露骨だったし、もう少し上手くちょっとずつ変えていくみたいな行き方にすれば良かった。
「…」
なんて、欠点を発見している場合ではない。
俺の表情の停止が発言の的中を教えてしまった。
声を放ったばかりの姉さんの唇がゆっくりと三日月の形へなり始め、暖かな息をふぅんと吐く。
そして悪意が底に潜んだ笑みをにんまり浮かべた。
「絶対行くから、文化祭。何がなんでも」
「主役って言っても別にそんな特別何か…」
「高校の文化祭だもん、それぐらい分かってるよ。あ…折角だしカメラとか買っちゃおうかなぁ」
くすくす上機嫌になりながら、姉さんはレモンサワーをぐいっとまたあおる。
飲んだことがないから詳しくは分からないが、酸味を楽しんでいるだろう姉さんとは真逆に、こちらはレモンの皮を食わされたみたく顔全体が苦くなってくる。
いっそ、主役になった経緯をバラして見方を変えさせるという手もある。
今の姉さんは理由を知らないからこそここまで悪気だらけでいられるが、それが人の為と聞けば流石にカメラぐらいは止めてくれるんじゃないだろうか。しかし、無闇やたらに話して良いものかとうーんと頭を悩ませていると、姉さんの身体がぱたんとソファに倒れた。
「ふふ~…♪」
寝落ちしてしまったらしい。
ソファで眠るその顔は幸せそうで、酒気にやられた頬はうっすらと紅く染まっている。台本が抱き枕のように胸に包まれてしまい、あれではしばらくは練習が出来ない。
カメラの件についてはまぁ…後々本気で止めて欲しいと話せば止めてくれるだろう。
長々付き合ってきて、嫌だと素直に話せば止めてくれる人であることを俺は知っている。文化祭自体は無理だろうけれど。
毛色は少し違うが、部活の件だって本気で話したから姉さんは受け入れてくれたのだ。
夕食を作っていれば匂いでその内、自然と目を覚ますだろうとキッチンで自由にさせていた材料に手を伸ばした。