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ハッピーピザ

作者: サトースズキ

旅行の備忘録を兼ねています。

「2ドルでね、ハッピーにできるよ。1ドルでスプーン1杯、2ドルでスプーン2杯。もちろん3ドルだってオーケーさ」

 そういってピザ屋のおやじはメニューを指さしながら笑った。

「でもね、うちのおすすめはスプーン2杯だ。1杯だとハッピーにならないし、3杯だとバッドになっちまうこともあるからね。うちのは何て言ったって2杯さ」

 おやじは自信満々にそう断言した。いつもと同じセールストークだ。もう半年も通っているっていうのに。やれやれだ。

「いや、いいんだ」

 僕はちょっとはにかみながら遠慮した。「今日はね、そういう気分じゃないんだ」

 おやじはちょっとびっくりしたようだった。まるで、びっくりしたついでに顔から笑みを床に落っことしてしまったんだ、という感じだった。僕は何かとても申し訳ないことをしてしまったような気がして、明日日本へ帰るんだ、それから会社へ行く、尿検査なんかあったりしたらまずいだろう?と言い訳した。本当は海外から帰ったところで検査なんかありはしない。今日は本当に、ただそういう気分じゃなかったというだけなのだ。

 僕は昔からしなくていい気づかいをして、一人で疲れてしまって、そして最後には何もかもから逃げ出すことがあった。言わなくていいことを言って大切な関係を台無しにしてしまうこともあった。大切なものはいつも自分の失敗でぶち壊してしまう。僕の悪い癖だった。でもこの時は、その言い訳はいいほうに転んだらしい。

 おやじは元気を取り戻して、そうか、それなら仕方ないもんな、と言って上機嫌で厨房へと入っていった。


 ピザができるまでの間に運ばれてきたコーラを飲みながら外を眺めてみる。東南アジア独特のむせ返るような熱気が肌に絡みつくのを感じる。それはアジアの活気とかいうなまやさしい言葉で表現されているものではなかった。まるでこの町に住む人々の、生きるんだという意思が皮膚の内側に浸透してくるような、そんなエネルギーに満ち溢れた熱気だった。


 物売りのばあさんがいんちきなブランド物のバッグをでたらめな値段で売りまくっていたし、靴磨きの男は、相手が旅行者であればだれかれ構わず足にしがみついて靴を磨き始めようとしていた。通りは何日も前に捨てられた生ごみやビニール袋であふれかえっていた。それが道路のわきに寄せられて歩道との境界を作っていた。誰かが立ち小便でもしたのだろう、ところどころから立ちのぼる胃をむかつかせる酸っぱい臭いが鼻をつく。すこぶる毛並みの悪い野良犬や、極彩色の小鳥が誰かの嘔吐物に先を争って顔を突っ込んで食えそうなものを探している。バイクタクシーの運転手はあらゆる通行人に、まるで昔からの友達だったよな、とでもいわんばかりに手を振ったり、口笛を吹いたりして客を探し求めていた。身なりのいい白人の靴を勝手に磨こうとしていた靴磨きはあまりにしつこすぎてその白人に顔面を蹴り飛ばされていた。

 

 そんな光景をなんとなしに眺めていた時、日本でいったら小学生くらいの男の子が僕のテーブルに歩き寄ってきた。ハンガーを曲げて作った針金に、明らかに手作りとわかる出来の悪いミサンガを何本もくくりつけていた。食事をしている旅行者のテーブルを回ってそれを売っていたのだ。

「アイ、ニード、マネー」少年はへたくそな英語と、くりくりの大きな目で僕をまっすぐに見ながらそう言った。僕は聞こえないふりをして、スマートフォンをいじり続けた。少年は少しの間僕をじっと眺めていたが、やがて椅子を引き僕の隣に腰かけた。

「ゴー、ツー、スクール」少年は感情のこもらない目で僕を見つめながら言った。僕は再び聞こえないふりをして、スマートフォンから視線を外さないようにした。


「ゴー、ツー、スクール」一日中歩き回り疲れ切っていたのだろう。少年はテーブルに突っ伏して、誰に向けるでもなく、独り言のようにつぶやいた。それでも僕が無視をし続けるのがわかると、スクール、スクール、と何かの歌のように何度も何度も繰り返した。やはりまだ子供なのだろう、お金でなく、僕の持っていたミッキーマウスの絵柄の書かれたスケジュール帳を興味深そうに眺めていた。

 僕はため息をついて、スマートフォンをしまった。

「学校は楽しいかい?」簡単な現地の言葉で話しかけた。

「わかんない」少年はちょっとびっくりしながら、そう答えた。それからはどちらも喋らなかった。


しばらくのあいだ少年はテーブルに指で意味の無い図形を書いたりしていたが、やがて元気を取り戻したのだろう、何も言わずに僕のテーブルを離れて隣の店の外国人のところへと歩いて行った。白人と現地人のカップルがミサンガを買っていた。カップルは優しさのこもった笑顔で少年に代金を払っていた。

 金を受け取って店を離れるとき、少年は何か思い出したように立ち止まると振り返って僕に手を振った。僕も小さく手を振り返した。彼がよりよい人生を歩めればいいなと僕は思った。そしてまた何かを思い出したかのように、悪臭の中へと駆けて出して行った。まるで少年を優しさの中に置きざりにしようとする何かに追いつこうとするように。


 店の中からおやじがピザを片手に持ちながら出てきた。

「あんたはいい人だよ」ピザを僕の前に置きながらそう言った。「少なくともあの子に対して誠実ではあったし、正直な人だ」

 僕は少し考えて、

「でも結局買わなかった」と言った。何かに対して言い訳しているような気分だった。

「そうだな」おやじは相変わらず機嫌よさそうに僕を眺めていた。

「きっと彼にとってはほんの少しのお金が、とても大切なんだ。それこそ、命と同じくらい」僕は自分の考えをまとめるために、自分に対してつぶやいた。

「だろうね」おやじはためらわずに肯定した。

 でもね、なんていうのかな、と言ったところで僕は笑ってしまった。僕は自分が言葉にしたいことをどうしても形にすることができなかったからだ。

 おやじはそんな僕から目を離し、通りに目をやりながら

「命よりもずっと大切なことだってあるだろう?」と言って優しく笑った。

「自分の人生で何が大切なのかってことはだね」とおやじは続けた。

「自分で決めればいい。それは誰からも妨げられないその人の権利だ」


 僕は少しの間考え込んでから、やがてピザにかぶりついた。ピザはいたってノーマルなやつだったが、とてもうまかった。

 最後のピースを、氷で薄まったコーラで胃に流し込むころには僕は少しハッピーな気分になった。

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