俺の好きはストーカー
名前は佐藤美千。ニックネームはみっちゃん。A型。7月4日生まれ。蟹座。文学部日本文化学科。
アパートは東モニュメント305号室。大学へは徒歩圏内のアパートだ。
好きな色は深い青。それも吸い込まれるような深い青でないとだめらしい。ラピスラズリは合格だろうか。
好きなタイプは末永く稼ぐ男。265年も続く江戸幕府を開いた徳川家康が理想とのこと。ふふふ、ちょっと変わった子。
マイブームはシュシュ集め。そのシュシュでよくポニーテールをしている。
皆には内緒だけど、実は腐女子。休日はよく、変装してBLコーナーに行く。おかげで俺もBLに手を出してしまった。
美千たちがお喋りをしながら帰っている。アパートまで美千を見送るのが日課だ。今日はどんな話をしているのだろう。残念ながらこれ以上近づくと怪しまれてしまうので近づけない。でも言葉の端々から話の内容を推定するのも、また一興である。
「とめあい君」とか「告白」という単語が聞こえてくる。
恋バナかな?
恋バナだな。
かわいいな。
そうこうしているうちに東モニュメントに着いてしまい、美千が部屋に入るのを見届けた。明日も会えるけれど少し寂しい。
ベランダサイドへ周って電柱と同化し、美千の部屋のベランダを見つめる。305号室は3階・向かって左から2番目の部屋だ。美千がこのカーテンの向こうで料理やお風呂・勉強そして眠っていることを想像するだけで幸せな気持ちになる。この幸せな時間が少しでも長く続くことを願わずにはいられなかった。美千は人生で4人目の相手だ。
神様、どうか、お願いします。
始めてストーカーしたのは高校2年生のとき。でも、このときはまだ、自分がストーキング行為をしていることに気がついていなかった。
その子の名前は梨花。彼女は学校の準ミスで、ガーベラのように明るく華やか、しかし上品な人だった。ちょっとした動作が他の女子とはなんとなく異なり、俺にはひと目で良いところのお嬢様だということが分かった。キリッとした優等生のような雰囲気があり、どちらかというと女子から人気があった。ミスは男子の人気者。準ミスの梨花は女子の人気者。クラスにはこのような概念が生まれていた。女子たちはよく、梨花の噂話をしていた。何度も会話に混ざりたいと思ったけれどそんな勇気もなく、俺は、虚しくも男友人とミスの噂話ばかりしていた。その度に、
「ミスって、やばいよな。人形みたい。」
と言われ、俺は
「まあ、梨花の方が1億倍はかわいいけどね。」
と言い返してやった。
初恋だった。
恋をすると、景色に恋色が加わることを初めて知った。見ているだけで本当に幸せな気持ちになれた。毎日が楽しかった。だからまさか、自分の好意がストーカーに変換されているとは夢にも思わず、想いのままに気持ちを膨らませていった。
おぉ。梨花の家はここなのか。大きいお屋敷だなぁ。
梨花って学校に来るのがギリギリだから早起き苦手なのかと思ってたんだけど、意外と朝早いんだね。机に座っているから勉強しているのかな?
梨花の、あのさりげない編み込みはお手伝いさんがやることもあるのか。ひょっとしてお手伝いさんに教えてもらったのかな?
梨花歩くのがゆっくりでかわいいな。
梨花を好きになって3ヶ月。
警察からつきまといに関する警告を受けときには、理解の範疇を超えた出来事に頭が真っ白になった。全く納得はできなかったけれど、なによりも、好きな人を警察に頼るほど怖がらせてしまったことがショックだった。
それ以降、罪悪感に駆られ、顔すらまともに見られないまま学年が上がって、クラスも変わり、初恋は終わった。あのときの周囲の反応や奇異な物を見る視線を思い出すと、もう二度と人を好きになんてなりたくないと思った。
しかし、3年生になるとまた恋に落ちてしまう。これが人生で2回目の恋。涼香という女性だった。この子は女子サッカー部のエースだった。
「また同じ結末になったらどうしよう」と思ったけれど「あの警告は何かの勘違いだったのだ」という考えが頭から離れなかったため、恋心のままにルンルンな生活を送った。
涼香はA(Rh+)型かぁ。何かあっても血液は提供できないな…。骨髄の方も調べてみようかな。
あんなスポーティだけど涼香はピンク系が好きなんだなぁ。
涼香、エースなのになんで主将にならないんだろうって思っていたけれど、結構内気で人と争いたくないタイプなんだね。試合中は強気なプレーなのに。
涼香の家は2階建ての一軒家。妹が3人いる。妹3人は2階なのに、涼香は、1階・母親の隣部屋。本当は姉妹4人で2階を使う予定だったのに、引っ越してきたらお父さんがどうしても2階が良いって言い出したから涼香が譲ってあげたみたい。優しいな。
よし!今日も涼香を学校まで見送るぞ!
よっしゃー!今日も涼香を家まで見送るぞ!
でも2ヶ月後、警察から警告を受けた。
言いようもない真っ黒い虚しさが心に宿り、何かがパリンと破れる音がした。
このときに初めて「ああ、自分はストーカーなんだな」と認識した。
1件目の事件を受けても僅かに残っていた友だちや両親からの信用は、この2件目で完全に失うこととなった。自分への自信も失った。毎日のように自己否定を繰り返して、すっかり暗い人間へと変貌してしまい、残り半年の高校生活は記憶にないほどドン底だった。どこまでも広がる暗闇の中を、たった1人、惰性のみで歩く。思い返そうとしてもそんな姿しか思い浮かばない。
しかし良いこともあった。正月休み、布団に埋もれてぼーっとしていたら、母親が人生を変えるアドバイスをしてきたのだ。
「都外の大学にいったらどう?」
えっ。
と、声を漏らす。
俺はテストの成績が甚だしく良い。さらに家のすぐ近くには東京大学がある。だから東京大学に通う。それ以外の選択肢を考えたことがなかったのだ。このアドバイスがきっかけで俺は都外で一人暮らしをすることを模索し始め、ぼんやりとした希望をもつことができた。
そして、4月。色々と考えた結果「絶対にイメチェンしてパーリーピーポーになってモテモテになる」と心に決め、都外の大学に進んだ。
大学生になると、心の誓い通りバイトで作った金をひたすら散財した。自分の趣味とは異なる高価なブランド服を纏い、髪も真っ赤に染めてイメチェンした。
全く好きじゃないクラブに通い、好きじゃない女の子をナンパした。知らない後輩に奢りまくった。話術を鍛えて合コンを盛り上げた。こうして努力を重ねパーリーピーポーになると、やがて目標のモテ期が訪れ、よく告白されるようになった。でも、俺は本来、クラスの隅っこで本を読んでいるタイプの人間である。つまりは、正直、派手なタイプの人間とは分かり合えないところがある。誰とも付き合うことはなかった。
そして無理は祟り、前期が終わる頃には疲れ果て「二度とやりたくない」としか思えなくなってパーリーピーポーを辞めた。夏休みが始まると、ものの3日で髪型から部屋のレイアウトまで全て自分の趣味に戻し、前期累積してきたゴミをゴミ収集車に叩き込んだ。後期が始まるとあまりの豹変ぶりにこれまでの友だちが愕然とした。
3人目に好きな人ができたのはそれから間もなくのことだった。秋奈美という子だった。 彼女のことは、偶然同じ講義を取っていたことで知った。
チューリップのように可憐で絵が上手く、でもどうやら政治の授業にはあまり興味がないようで、授業中はよく先生の顔をスケッチしていて、これまたこれが激似で、そんな彼女を見ているといつの間にか好きになっていた。過去の悲惨な恋愛結果を考えると自分の気持ちに対して恐怖が生じたが、恋心を抑えることはできず、しかし同じ結果に終わるのは絶対に嫌だと思い、創意工夫を施した独自のストーキングルールを制定・遵守して、この恋に臨んだ。
するとどうだろう。
なんと、1年間警告されなかった。
高校のときの2ヶ月からしたら考えられない成果だった。1時間で作ったルールが、8ヶ月もの差を生み出すなんて思わなかった。警告を受けたときには失望もしたが、同時に恋が1年も続いたことに感動して、泣いた。
また、全ての友人を失うだろうと覚悟したけれど、大学の世間は広いようで友人を失うどころか知られることすらなかった。
「大学生では人生の練習ができるのです。まだまだだけど、今のあなたも1年くらいなら愛を持っていいのですよ。」
神様からそう言われた気がした。警告以来、秋奈美とは、申し訳なさすぎてほとんど顔を合わせることはなかったけれど、人生で始めて人を好きになって良かったと思えた。そんな相手だった。
それから半年後、俺は再び恋に堕ちた。それが、今好きな女性、美千だ。
呆然とするくらいの一目惚れだった。
それは、4限の始業前の出来事である。前の授業が長引いたため俺は急いで階段を上っていた。そのときふと顔を上げると、階段を下りている女性と目が合う。
その瞬間、時が止まったのだ。
階段を駆ける足も、ざわめきも、何もかも全てが停止し、一瞬を永遠のように感じながら、ヘーゼルの瞳を見つめた。
でもこのときは恋をしたことに気づかず一瞬後にはすれ違い、そのまま何事もなかったかのようにお互いの目的地へと向かってしまった。
しかし、次の日になっても、翌週、さらには翌月になっても、あのヘーゼルの瞳が頭から離れず、俺は恋に落ちたことに気が付いた。一目惚れは始めてだった。もはや「本当にあるんだ」と驚いた。
そこからは彼女に会うことに必死になった。しかし、これがなかなか大変で、彼女はあのとき偶然あの場所を通っただけだったから、同じ曜日・同じ時間帯に待ち伏せても会えないし、名前はおろか同じ大学生なのかすら分からない。つまり、皆無と言っても過言ではないほど手がかりが無かったのだ。それでも俺は諦め切れず、ただただ彼女を見つめたい想いだけを動力源に地道にリサーチを重ねた。
女子に変質者をみるような目で見られたこともあった。役所に行って追い返されたこともあった。友人にキモラリアットされたこともあった。
それでも諦めなかった。
そして2ヶ月後。なんと、苦労は実った。
俺はついに「美千」という存在に辿り着くことができたのだ。今では美千に関する大抵のことは知っているというのに、全く知らなかったあの時の事を思うとまったく恋とは不思議な力だ。
美千とは今のところ6ヶ月は何事もなく続いている。前回の反省も踏まえて美千が会話しているときには距離を保つように遵守している。一度怪しまれたら終わりなのはもう十分に味わった。
カーテンに美千のシルエットが映る。
今日も元気そうで、良かった。
心はルンルンだ。「ありがとうございます。毎日続きますように。」と神様に祈った。
そのときだった。電柱とコンクリート壁にほぼ同化している俺の前を、1人の大男が通る。黒いパーカーのフードを被り、黒いトートバッグを肩にかけている。辺りが暗い上に大男がマスクをしているため顔はあまり見えなかったが、タレ目に二重で、眉が見える髪型。眉は整えてある。年齢は20代後半か30代前半とみた。明らかにこの辺りのメンツではない。その男が立ち止まり、小声で指差しながら東モニュメントの階数を数え始めた。一体何をしているのだろう。男の行為を観察していると、ふと、中学校のときに見たサイコパスの心理テストを思い出した。悪いシチェーションが頭をよぎり、電光石火のごとく緊張が疾走る。命を懸けてでも美千だけは守らなければ
大男のことを睨むように観察していると、そいつは念入りに東モニュメントを触り、住人のポストや車を、1つ1つ舐めるように覗き込んだ。美千のポストが見られるたびに、階段に近づくたびに冷や汗をかいた。するとやがて何も起こすことなく大男は去っていった。胸を撫で下ろす。とりあえず何もなくて良かった。でも、と思い直す。でも、もし、大男が戻ってきて何かあったら…。
警戒せずにはいられなかった。いつもなら21時になったら帰るが、美千のことが心配で帰ることができず、不眠不休で朝まで見張り続け、朝、美千を大学まで見送ってから授業で爆睡した。
しかし、大男はこの後も出現し続けた。毎日同じくらいの時間帯に東モニュメントに来ては初日と同じような行為を繰り返し、去っていった。俺はとてつもない使命感を胸に昼夜逆転しながら見張った。
大男が危険であるという物的根拠はない。もしかしたらただの建設家なのかもしれないし、東モニュメントの管理人なのかもしれないし、はたまたただのアパートマニアなのかもしれない。しかし俺の観察眼からしたらそうとは思えなかった。大男にはあまりにも緊張感がなかった。むしろリラックスしているに近い。口角は自然に上がり、視線は安定している。動作も遅く、迷いがない。アパートやポストの構造が目的で来ているのであれば、もっと住人の目を気にしていいはずだが、大男は住人が通ろうと近所の人が通ろうと、不自然な挙動は一切示さなかった。俺には不審者と考えるのが妥当に思えた。
仮に本当に不審者だとしたらどんな類の不審者なのだろう。美千に危険を及ぼす可能性はあるのだろうか。
それだけはだめだ。絶対に危険な目には合わせない。
俺は、深夜の見張りと兼ねて、気配を消すために独自の訓練を重ね、同化の技術を上げた。男に殺されないために格闘技のトレーニングもした。そして、1ヶ月経った頃には、絶対にばれることなく男を追跡した上で生きて帰れる自信がつくまでに成長していた。
だから俺は、今夜、大男を追跡して行動の真相を暴く覚悟を決めた。
いつものように美千を見送ってからコンクリート壁と同化し、数時間じっと待機すると、大男は出現した。いつもと変わらない黒服・トートバッグ・マスクだ。大男が日課を遂行して去ろうとしたとき、俺は追跡を開始した。
電柱に身を移す。次は車に。その次は木陰に。いくら自信があるとはいえ、緊張で手が震える。
車通りが殆どないような暗い夜道を、順調に1kmほど追跡した。だが、ここで予想外の出来事に出くわす。大男が、突然踵を返したのだ。
ばれた!
と、思った。これだけの体格差。戦闘になったらただじゃ済まないだろう。できる限りそれだけは避けたい。いかに上手く逃亡できるかを数秒間フル回転で思考したら、あることに気が付いた。
大男はこっちを見ていない。
もしや、まだばれていないのではないかと思った。それだったら!
覚悟を決め、車と同化する。一歩一歩、大男の足音が近づいてくる。
あ、前を通る。
苦しいほど、心臓が鳴った。だが、大男は、こちらを見ることはなかった。
胸を撫で下ろす。
良かった。
足音が一定距離はなれると、身体をそっと滑り出し、追跡を再開した。すると再開して間もなく、大男は洋服のポケットから携帯電話を取り出し、マスクを外した。凝視する。今は後ろ姿だが、振り返ったら顔を見ることができる。マスクを外したということは電話もするはずだと思い、見つからないぎりぎりのところまで距離を詰めて聴覚に神経を集中させた。
大男は、予想通り、電話した。
あ、もしもし。あのさ…。
言葉の端々を繋ぎ合わせる。周囲はとても静かで単一の声なので、雑音のある昼間に聴く美千たちの会話と比較したら、言葉を推定するのは容易だった。
もしもし。元気?
ふふふ、そんなこと言って。本当は分かってるくせに。
ところでさ、今度映画が公開されるでしょ?
え?
ううん、違うよ。何言ってるの?
君のことだよ、
みっちゃん。
突如、電話が終わる。わずか数秒の出来事だった。男は舌打ちし、携帯電話をポケットに戻して再び歩き出した。
思考が、身体が、硬直した。麻酔でも打たれたかのように感覚がなくなり、一瞬、上下左右すら分からなくなった。
そのとき、顔が見えた。予想より少し若い。堀が深く、顔は四角型。口角が下がっているため顔全体の皮膚も下がって老けて見えるが、若ければ誰にでも備わっている水々しさを感じる。歳は、25と見た。
大男は、突然走り出した。
はっとする。
何をしているんだ。このままでは美千が…!
一歩遅れて後を追う。長距離が得意なのか、大男の足はやたら速く姿を見失ったため、足音を頼りに追いかけた。大男の走る道は、明らかに東モニュメントを目指していた。悪い予感しかしない。その予感はやはり的中した。角を曲がると、大男は東モニュメントの階段を駆け上がっていたのだ。頭の中が真っ白になった。直後、俺の脳内に走馬灯のように美千が駆け巡り、同時に、内から信じられないくらいの闘争心とパワーが沸き起こり、喰う勢いで疾走った。東モニュメントの白い階段を3階まで駆け上がる
大男は、そこにいた。ドアスコープを覗き込みながら美千の部屋のドアノブをガチャガチャと回している。
「ねえ、みっちゃんってば。どうしてそんな意地悪するの?」
一瞬、あまりの馴れ馴れしさに、もしや美千の知り合いかと思った。が、そんなことはないと思い直す。美千に男兄弟はいない。美千に彼氏はいない。美千の元カレではない。美千の友だちではない。美千の先輩ではない。おまけに、美千のタイプでもない。それにも関わらず、この大男は「みっちゃん」という美千の大切なニックネームを連呼しながらドアを叩いていた。今、美千は震えるような恐怖を抱いているはずだ。そう思った瞬間、全身が憎しみのように強い怒気で支配され、心の奥深くからどす黒いオオカミが姿を現した。
「美千はお前のことなんか知らないだよ!ストーカーめ!」
大男が慌ててこっちを見る。いつもならびびるようなシチュエーションなのに、不思議と間抜けで弱っちいガキにしか見えなかった。
頭の前で腕をクロスさせ突進すると、大男が吹っ飛んで尻もちを着いた。大男が立ち上がり、黒いトートバッグから包丁を取り出す。口がぱくぱくと動き、何か喋っているようだったが、俺には何も聞こえず、ただ、足と手の挙動のみが聴覚神経を刺激した。男の包丁を避ける。噛みついて包丁を奪い、胸を斬りつけようとしたとき、男がもう一本包丁を取り出し、モーション中の俺を斬りつけようとしてきた。
これは、避けれない。
そのとき、美千の姿が視界に飛び込む。
どうして美千、危ないよ。こんなところに来ちゃだめだ。
そう思ったのが最後、記憶が途切れた。
気がついたときには、腕をロープで縛り上げられた血だらけの大男を、階段に打ち付けながら拷問している俺がいた。
状況が理解できず、自分の言動と行動に困惑する。
「えっと、あのね、そろそろ警察来るから!」
「ああ、ありがとう!」
ん?
動作が止まる。
今のって…。
数分後、数台のパトカーが暴走族のようなサイレンと赤ランプを派手に光らせながら到着し、ぼろぼろの大男を回収していった。その間、俺はあっけにとられてぼんやりと虚空を見つめていた。微動だにしない俺との会話を諦めた警察は美千と話を決め、美千と俺はパトカーに連れられ警察署で尋問を受けることとなった。
車内では、遠くから見るだけのはずの美千が手を伸ばしたら届くような距離に存在していることが信じられず、パニックで倒れそうだった。
署に着くと、別々の部屋に案内されて尋問された。うわの空で何を喋ったのか自分でもよく分からなかったけれど、訊かれたことをバカ正直に答えていたことはなんとなく覚えている。
そして、約2時間にも及ぶ尋問を終え部屋から出ると、なんと、美千が居た。思わず口があんぐりと開く。人生で一瞬しか合ったことのない美千のヘーゼル色の瞳が、俺の瞳をじっくりと覗き込んでいた。
「あ、あの。」
かわいさのあまり堪らず一歩引いたら、なんと、美千は、一歩近づいてきたため、そのオーラで圧死しそうになった。
「あのね、今日は、ありがとう。」
美千がブルースターのように淑やかに微笑むと、俺の顔は熱くなった。そして、真剣に鼻血が出ないか心配になったところで、警察官が帰りのタクシーが到着したことを知らせに来て、2人でタクシーに乗り込んだ。先程からあまりにも信じられない展開に夢じゃないかと頬をつねろうとしたけれど、本当に夢だった場合、覚めたら困るのでやめた。車内では、運転手を含めて無言だった。俺は、本当は喉の奥から手がでそうなほど美千を見たいが、緊張のあまり外の景色をガン見していた。すると、道半ば、美千が話しかけてきた。
「あの、同じ大学の人だよね?」
えっ。
っと、声が漏れ、振り返る。まさか、自分が美千に認識されているなんて夢にも思っていなかったので、舞い上がる。幸せすぎて涙が溢れそうになる。しかし、次には、
それで、どうしてあのとき私の部屋の前にいたの?
そう訊かれるに違いないと思った。色々な言い訳が頭を過ぎったが、美千に嘘をつくなんて有り得ないから「ああ、正直に話して、これで終わりなのだな」と悟った。言いようのない悲しみがこみ上げる。
でも、俺よ。せめてプラス思考でいこう。
好きな女性を遠くで見るだけではなく、会話ができた。隣に座ることができた。目を合わせることができた。こんなこと高校時代の絶望からしたら考えられなかったことだ。
「あ、えっと、ごめんね。あの、こんなときにこんなこと言うって引いちゃうかもしれないんだけど、あのね、あなたと大学で1回だけすれ違ったことがあって、なんとなく忘れられなくて、えっと、その、まって、ナシナシ。今の一旦忘れて。」
美千は、両手で顔を覆い、胸の前で握り直し、その手を膝に下ろしてから言った。
「あの、今度、お礼がしたいので、名前と連絡先を教えてくれませんか?」
数秒間、理解が追いつかず間抜けな顔を晒す。そして、ごちゃごちゃと考え出した。
こんなことが許されるのですか、神様。嬉しい。だけど、俺は…。
美千が俺の瞳を覗き込んでいる。
ごちゃごちゃ考えていたはずなのに、気づいたら、
「はい。」
と、返事していた。