最後の龍神
本作品はひだまり童話館「ぷくぷくな話」参加作品です。
山の実りが豊かな季節です。
樹々が紅葉し、柿や栗が実をつけます。
山道を歩いていたら、栗のイガがあちらこちらに落ちていて、気をつけないとうっかり踏んでしまいます。
秋茱萸は生で食べると渋いので、大人が果実酒に使ったりします。
それでも赤い実の彩りは目に鮮やかで綺麗で、翔太は見惚れてしまうのでした。
黒紫色に熟した小小ん坊はそのまま食べることが出来ます。
洋種山牛蒡の黒い実から出る赤紫の汁は、布に色が移るのだそうです。
山の実りはそれだけではありません。
木通の蔓や山葡萄の皮は籠バッグを作るのに向いていて、ふんわり婉曲した輪郭のバッグを編むのは難しいのだと、お隣の家のヨシ江お婆さんが言っていました。
翔太は美しい山の風景の中を、は、は、と息を切らしながら、小走りに駆けてゆきます。
秋の空は青く青く澄んでいます。
やがて見えてくる石段を登り切ると、そこには小さなお社と、小さな泉があります。お社は灰色の瓦葺で、注連縄が下がっています。鈍い金色の鈴は古びていて、形ばかりのお賽銭箱の、左手に泉が佇んでいました。泉の周りには石が並んでいます。そして泉とお社を囲むように鬱蒼とした樹が茂っています。
泉の水は透明で清らかで、そこには龍神様がお住まいなのだと、ヨシ江お婆さんはそうも言っていました。
龍神様に自分のいっとう大切な物をお供えすると、願い事を叶えてくれるのだとか。
翔太はそれを聴いた時から、龍神様に逢いに行こうと決めていました。
どうしても叶えて欲しい願い事があったのです。
泉には赤や黄色の葉が数枚落ちて、浮いてはいましたが、成る程、ヨシ江お婆さんの言った通り、水はどこまでも美しく水底までが見通せそうです。
青にも緑にも見えるその深いところを、翔太はじっと見つめ、やがて意を決すると、泉を囲む石の一つの上に、自分の着けていた腕時計を外して置きました。それは翔太が去年の誕生日プレゼントに両親から貰った、いつもテレビで観ている戦隊もののグッズの腕時計でした。
さてこれからどうすれば良いのだろう、と翔太は思いました。
泉からは何の反応もありません。
しん、としています。
ひょっとしてお供えと言うからには、腕時計を泉に投げ込まなくてはならないのかもしれません。それではせっかくの時計が壊れてしまわないでしょうか。
けれど翔太はしばらく悩んだ末、腕時計をそっと水面に置きました。腕時計は水底に向かって沈んでいきます。時計の影が遠く、遠くなります。
翔太は少し、泣きたい気持ちでした。何せとっておきの宝物でしたから。
けれど、これで翔太の願いが叶うなら、腕時計を手放した甲斐もあるというものです。
翔太は泉に向かって呼びかけました。
「龍神様、龍神様、僕の願いを叶えてください」
風はさわさわと吹き、樹の葉はざわざわと鳴っています。
しばらくの間、翔太が泉の水面を睨むように見つめていると、小さな小さな泡がぷくぷくと泉の表面に沸きました。泡はどんどん大きくなり、果てには翔太を呑み込んでしまいそうな大きさにまでなりました。
そうして実際、翔太はその泡に呑み込まれたのです。
うわあ、という声は泡に包まれて外まで届きません。
泡は内側から見ると虹色を帯びてぼんやりと光っていました。
気がつけば翔太は泉の中にいたのです。
水の中なのに、普通に息が出来ます。見たこともないような極彩色の魚たちが泳ぎ、細かな、そして宝石のように煌びやかな泡が無数に生まれては消えていきます。
泉の底がこんな世界だなんて、一体誰が思うでしょうか。
秋茱萸以上に、翔太はこの摩訶不思議な空間に魅了されてしまいました。
そして目の前には大きくて美しい白銀色の龍がいました。
龍は翔太が投げ込んだ腕時計を、珍しい物を見るように右手の爪と爪で挟んで持ち上げています。
「お前がこれを我に捧げたのか、人の子よ」
「は、はい」
「これが、お前の一番の宝だと言うのだな?」
「そうです」
「…では、お前の願いを言うてみよ」
「真澄ちゃんのお父さんとお母さんが、離婚しないようにしてください!」
翔太がそれを言った時、龍神が、例えば人が柔らかい肌を針で突かれたような表情を、一瞬だけしました。尤もそれは翔太にそう見えただけであって、本当は少し顔をしかめただけなのかもしれません。
「夫婦が離縁するを阻むか。それはできぬ相談だな」
「どうしてですか!お供えだってしたのに」
「…子供。お前は何歳だ」
「七歳です」
「では言うても詮無いかもしれぬが。この、お前の供物では、いや、この世のどんな宝を我に捧げようと、人の心ばかりは変えることが叶わぬのだ。それは世界を変革するも同じこと」
「そんな…」
翔太は呆然としました。
ヨシ江お婆さんの話を聴いた時、もしそれが本当なら、龍神はきっと願いを叶えてくれるに違いないと思い込み、意気込んでいたのです。その意気込みを挫かれた形となった翔太は脱力して、水底に座り込みました。水底はさらさらした白砂に青い砂が縞模様を描くように混ざっていて、翔太の足とお尻はその縞模様を乱しました。翔太を慰めるように、紅色の細長い魚が、その足に優しく尾鰭で触れました。
天井からは光が差し込み、ただでさえ色鮮やかな泉の世界を祝福するかのように輝かせています。
龍神が翔太に尋ねました。
「その真澄とやらは、お前の大切な娘なのかね」
翔太は少し顔を赤くして頷きました。
「…優しいんだ。僕は喘息持ちで、それで都会からこっちに引っ越してきてだいぶん具合は良くなったんだけど、動物はまだダメなんだ。学校で飼われてるアヒルとか、兎とか、近づくと咳が出る。でも色んな係を決める時、飼育係が余ってさ。臭いし面倒だし皆、やりたがらないからね。クラスのガキ大将みたいな奴が、僕に係を押しつけようとしたんだ。皆、それを見て見ない振りする中、真澄ちゃんだけが反対してくれた。僕は喘息持ちだから、係は無理だって」
「思い遣りのある娘なのだな」
翔太はまた頷きました。今度は力強く。
「それでしばらく僕と真澄ちゃんは冷やかされたけど、真澄ちゃんは何てことないって笑ってた。―――――――でもね。真澄ちゃんは、お父さんとお母さんが離婚するんだって、こないだ僕にこっそり打ち明けてくれたんだ。真澄ちゃん、いつもよく笑ってるけど、笑ってたけど、辛い気持ちを隠して頑張ってたんだよ。僕はそれを知って、堪らなくなったんだ」
白銀の龍神はゆっくりと一つ瞬きをしました。
「それもまた人よな…。お前の気持ちは察して余りあるが、夫婦の離縁を止めることは我には不可能だ。その痛みはな、娘が己で超えるしかないのだよ。余人の手出しできぬ事柄だ。例え神であっても」
「…………」
翔太は項垂れました。龍神の声は低く優しく、翔太を慰撫してくれるように心地好く響きました。
唇を噛み締めた翔太は、しばらく無数に生じては消える泡や色とりどりの魚たちに見入っていました。
「願い事を叶えてやれないのだから、この供物は返そう。それから、お前にこれをやろう」
龍神は自分の身体から一枚、鱗を剥がすと翔太に渡しました。
きらり、と光る鱗は手に持つと不思議と心が凪いでゆきます。
それからふふ、と龍神は笑いました。笑うと長い髭が揺れます。
「本来であれば供物を捧げたとは言え、人をここまでは招かぬのだがな。これも最後かと思うと人恋しくてお前を招き入れてしまった。願いを叶えてやれぬのはすまぬが」
「最後?」
「何でもない。人の子よ。憶えていておくれ。心を変えるも変えぬも人自身。如何な神とて手を出せぬのが人の心という不可侵の領域。…時にこうべを垂れ、受け容れるしかない運命もある。それは神とて同じこと。憶えていておくれ。心に触れるのは、心しかないということを―――――――――――」
龍神の声がどんどん遠くなります。
翔太の身体をまた、あの大きな泡が包み込み、水の上のほうへ、上のほうへと運んでゆきます。無数の泡がざらりと翔太を包む泡を撫ぜて消えゆきます。
淡い虹色がぱちん、と爆ぜると、翔太は泉のほとりに立っていました。
手には腕時計と、白銀色の大きな鱗が一枚。
腕時計は水に入れたのに壊れてもおらず、チクタクと正確に動いています。
翔太自身も泉の中にいたというのに濡れていません。
あの場所は、この泉と繋がる異界だったのかもしれません。
数日後、真澄の両親は正式に離婚し、真澄は母親について村に残ることになりました。
真澄の父が家に戻ることは二度とありません。
翔太は真澄にだけ、あの泉であった出来事を話しました。放課後、学校からの帰り道のことです。
今日も良い天気で、少し冷たいくらいの風に乗って、赤蜻蛉が二、三匹飛んでいます。
真澄は驚いて翔太の話に聴き入り、それから翔太に告げました。
「あのね。あのお社の一帯ね、土地開発がされるんだって。住宅地になるって、お母さんがそう言ってた。だから泉もきっと、埋め立てられるんじゃないかなあ」
翔太は愕然としました。
あの美しい泉が無くなってしまうなんて。
それでは優しい龍神は、もう人と触れ合うことも叶わなくなります。
山の実りはどうなってしまうのでしょう。
〝憶えていておくれ〟
〝時にこうべを垂れ、受け容れるしかない運命もある〟
龍神の最後の言葉の意味が解りました。
龍神は人を恨むでもなく憎むでもなく、ただ、世の理を翔太に説いたのです。
翔太は龍神から貰った鱗を、真澄にあげました。今、慰めが必要なのは自分ではなく真澄だと思ったからです。
「良いの?龍神様からの、大事な思い出の品でしょう?」
真澄が小首を傾げた拍子に、肩までの髪が揺れます。
「良いんだ」
「……ありがとう、翔太君」
真澄の、無理のない笑顔を久々に見たと翔太は思いました。
〝心に触れるのは、心しかない〟
翔太は龍神に、とても大切なことを教わりました。
そのお礼を伝えたいけれど、もうあのお社の近くは封鎖されていると真澄は言います。
(僕は、あなたの心に触れたのかな。あなたの心は、僕の心に確かに触れたよ)
神ですら叶えられない難題がこの世にはある。
心だからいつまでも残るものがある。
美しい秋のことでした。
翔太は龍神の願ったように、いつまでも、大人になってもこの秋の出来事を忘れませんでした。