第1章ー6
では、なぜ独軍内で5つもの作戦計画が立てられ、そして、「ミヒャエル」が採用されることになったのだろうか。
5つもの作戦計画が立てられたのは、それだけ独軍の選択肢が多いことの表れだったが、逆に言えばどれも勝利の可能性が低いということだった。
ルーデンドルフ将軍以下、独軍首脳部の多くが仏軍よりも英軍をまず叩くべきだと考えた。
昨年、仏軍内で抗命騒動が起きる等、仏軍は最早ガタガタだと考えられており、まず強力な英軍を粉砕することで、英仏の抗戦意欲を失わせて、講和に持ち込もうと考えたのだ。
そして、仏軍を攻撃すると、ヴェルダン戦の際にソンムで戦わねばならなくなったように、英軍が攻勢を取り、独軍が防勢に回る危険性があるとも考えられた。
となると仏軍に対する攻勢計画である「アヒレス」、「カストルとポルックス」は採用できない。
では、残る3つの計画ではどれが最良か。
「ゲオルグ」は英軍の補給拠点となっているハーゼブルクを目指すもので、戦略的には極めて妥当に思われた、だが、地勢が悪く、悪天候になれば泥の海の中へ独軍は突撃することになる。
下手をすると膝まで埋まる泥の海を独兵は進まねばならない、これでは攻勢は取れない。
独軍の攻勢計画は、米軍の来援がまだ少ない3月には遅くとも発動せねばならないと考えられていたが、3月では悪天候に見舞われる公算が高く、「ゲオルグ」を採用した場合、4月まで独軍の攻勢は見送られねばならなかった。
「マルス」は英軍が最も集結しているアラス地区へ独軍が攻撃を掛けようとするもので、確かに英軍を叩くのに最良かもしれないが、逆に独軍は文字通り英軍の堅陣の中に突撃を仕掛けることになる。
余りにも危険が大きすぎると独軍首脳部は考えた。
となると、「ミヒャエル」を独軍は採用するしかなかった。
だが、「ミヒャエル」にも問題点が多々あった。
「ミヒャエル」は英仏軍の結節点であるサン=カンタン地区を攻撃する計画である。
だが、このサン=カンタン地区は昨年春、1917年2月に独軍が徹底的に「荒らした」地区であった。
街は破壊され、道路は掘り返され、橋は独軍に落とされた。
ヒンデンブルク・ラインという要塞群を独軍は築いていたが、そこへ独軍が撤退する際に英軍の進撃を妨害しようと、独軍は撤退途中の地区を「荒らした」のである。
サン=カンタン地区はその「荒らした」被害が最も大きい地区だった。
独軍が進撃することは、その「荒らした」地区に突っ込むことであり、兵站の悪夢を独軍に引き起こすものだった。
そして、英仏軍の結節点を攻撃するということは、英仏両軍を最悪の場合、相手取らないといけないという事態を攻撃側の独軍に引き起こすことになる。
ヴェッツエル中佐らは、そのことを「危険極まりない」冒険であると主張した。
更にサン=カンタン地区は地形上そもそもが最前線を突破した後の進撃に向いていない地形だった。
そして、独軍の攻勢計画にはもう一つの問題点が秘められていた。
第一次世界大戦の死闘は、参加した各国軍に様々な戦訓をもたらしていたが、その中には後知恵で言えば誤った戦訓も多々あった。
その一つが「純粋に戦略的な目標は、戦術的成功が可能でない限り追求しても無駄」という戦訓であり、それを当時の独軍首脳部は信奉していた。
そのために、サン=カンタン地区の英軍戦線を突破したとして、その後をどうするのか、という発想が独軍首脳部には全く欠けていたのである。
「サン=カンタン地区の英軍戦線を仮に突破したとして、その後、我々第18軍はどうすればいいのでしょうか。どこを我々は目指すのですか」
大尉参謀の問いに、フティエア将軍は沈黙した。
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