アンブレラ・ランプ
暗闇の深まった街に、革靴の音が響く。閑静な住宅街を薄く白で照らす電灯は、むしろ暗闇を際立たせている。人気はなく、蛙や虫の声さえも遠い。田舎と言い切るには少し灰色の多いこの街は、誰も彼もいやに静かだ。
初夏の夜は、夏仕様の制服では少し心許ない。周りの女子よりはだいぶ長いスカートでも、中に入ってくる風を完全には防げない。そういえば、今日は夜から雨が降るという予報だった。何も考えずに家を飛び出してきたことが悔やまれる。でも、しばらくは戻りたくない。今はとにかく少しでも家から離れたい。一歩たりとも、家に向かって足を踏み出したくない。
とはいえ、まだ家からはそう遠くない場所にいる。学校へ行くときにいつも自転車で通る道だ。何百と通り過ぎた道は、今まで見たこともない表情で私を見ていた。
考えてみれば、夜中に一人で家を出るなんて初めてだ。高校生にもなって、と思う。つくづく真面目に生きてきてしまった。非行にも走らず、反抗期らしい反抗期も迎えず、これまで生きてきた。
その結果がこれだ。生まれて初めて両親に真っ向から反対されて、どうしていいか分からずに逃げてきてしまった。そうして今も、迷子のようにふらふらと歩いている。両親の困惑する顔が浮かぶ。きっと彼らもまた、私と対立することに慣れていない。
私には行きたい大学があるけれど、両親にも行かせたい大学がある。家出の発端は、言ってしまえばこれだけ。とても簡単だけど、根本的な対立。私の目的は学問で、彼らの目的は就職なので質が悪い。私にとっての大学の魅力は、彼らにとっては魅力に映らない。
彼らの責めるような口調が何度も頭の中で響く。受験勉強してるからって、あんたが偉くなったわけじゃないのよ。そんなこと分かっている。これでも私は、それを常々忘れないようにと気をつけていたんだ。
陰で親や先生のことを上から目線で馬鹿にしている男子生徒たちを軽蔑しながら、いつも心に刻みつけていた。私をここまで育ててくれたのは親。私に勉強を教えてくれたのは先生。
だから、それを言われたときは裏切られた気分だった。
そんなに私は偉そうだっただろうか。確かに私も、両親につられて真っ向から彼らの意見を否定した。大学は学問の場なのに、就職しか考えていないなんて浅ましいというのは言い過ぎだったかもしれないし、少し上から目線になってしまったことも否定はできない。
でも今までは、受験生になったからといって家の手伝いを怠けることはなかったし、参考書だって自分で買った。塾へ行くのも遠慮した。できる範囲で親に負担をかけないよう頑張ってきたつもりだった。それなのに、どうして自分の行きたい大学へ行きたいと主張するだけで「偉そう」などと言われなければいけないんだ。考えれば考えるほど、ふつふつと苛立ちが湧いてくる。
私の知り合いには、親の金で煙草を吸っている人もいれば、塾に行かせてもらっておきながら勉強せずに留年した人もいる。もしも彼らが、大学へ行きたいと真摯な目で彼らの親に告白したらどうなるだろう。くだらないとは思いつつも、そんなことを考えてしまう。それならいっそ私も、だなんて、馬鹿みたいだけど。
親の言うことを守ってきた結果として親に裏切られるなんてあんまりな話だと思うが、これは当然のことなのかもしれない。反抗しなければ奴隷はいつまで経っても奴隷のままだ。
でも、そもそも私はご機嫌取りで両親の言うことを聞いていたわけではないじゃないか。煙草を吸わないのも、留年しないのも、私自身がそうすべきでないと判断したからだ。彼らはそれを勘違いしているのかもしれない。
私はもう、親なしには動けないような人間ではない。手を引っ張ってくれなくもいい。これは道を間違えているわけじゃない。この道を歩きたいんだ。
まもなくして、やはり雨は降ってきた。最初こそ小気味のよかった雨音も、すぐにただのノイズに変わった。シャツも雨を弾くのを諦め、ぴっちりと肌に吸いつく。嫌な寒気が背筋を走り、思わず立ち止まって家のある方へ頭を向けた。だけど、すぐにまた前へ向き直り、歩き出す。今は理性でものを考えたくなかった。私は代わりに感情に頼って体を動かした。感情は前進を選んだけれど、その足取りは重かった。
住宅街を抜けた先の橋を渡ると、駅前の商店街に着く。天蓋もない寂れた商店街で、一応駅前だというのに人気はない。いわゆるシャッター通りというやつだ。随分と遠くの方から楽しそうな声が聞こえてくるのは、何も聞こえないよりよっぽど寂しい。私を迎えてくれたのは、か細く光る街灯の列だけだった。
雨は酷くなるばかりで一向に止まない。店の軒先の下ならば雨もしのげるだろうけど、心の隅にいる影のようなものがそれを拒んでいた。理性で考えたくないというより、あえて理性に逆らっているような気がしてきた。いずれにせよ、理性の声は一向に届かない。
私は錆びついた街灯にもたれかかって、その姿勢のまま腰を下ろした。ざりざりと強い摩擦の音がする。きっと制服の後ろ側は酷く汚れてしまっただろう。影はそれで少し満たされたのか、少しずつ考える余裕が出てきた。薄い後悔の念が頭をもたげたけれど、足は動かない。
かろうじて動く頭を上に向けると、街灯が私を見下ろしていた。雨粒が顔面を叩くのも気にせず、しばらく私は街灯を見つめた。
商店街や公園によくある、カンテラに棒を生やしたような街灯。錆びていたり光が弱かったりと、なかなか年季の入った姿だ。だけど、同時にどこか感じのよいアンティークな雰囲気も醸し出していて、寂れた商店街には不自然なほど洒落ている。
ここにも、この街灯が似合うような繁栄が訪れていた時代があったのだろうか。見たこともない昭和の商店街を想像してみる。だけど、昭和の時代を生きたことのない私では、ノイズがかった歌と白黒の映像しか浮かんでこなかった。
この街灯は、きっと商店街の盛衰を全て見てきたのだろう。柄にもなくそんなロマンチックなことを考えた。いろいろと想像を膨らませていくうちに、私は少しだけこの街灯に愛着を覚えた。後ろに手をまわして街灯に触れてみると、冷え切った指でもなお冷たいと感じた。
街灯から手を離して、そのまま膝を抱えて体育座りの姿勢になる。所在ない顔を腕に埋めて縮こまると、この世界に私しかいないかのような錯覚に襲われて怖くなった。気を抜くと泣いてしまいそうで、私は一層縮こまった。必死に口を結んで嗚咽に耐えながら、なぜ泣くのを我慢しているのかと自問した。
そのとき、ふっと雨が当たらなくなった。でも、雨の音は変わらず耳を叩いている。何が起こったのかと上を見上げると、目の前が黒で塗り潰されていた。暗いからではない。実際に、黒い何かが頭上に浮いているのだ。
それが巨大な傘だと気づいたのは、街灯のおかげだ。街灯よりもなお高い位置に巨大な傘が浮いていて、それが雨を弾いている。到底、現実として受け入れることなどできない光景だった。
何が何だか分からずに辺りを見回すと、いつの間にか後ろに長い足が立っていた。私は、その足に寄りかかっていたことになる。足は妙に細長く、人間のものとは思えない。それでもそれが足だと分かったのは、ズボンらしき布と革靴が見えたからだ。布越しに足に触れている背中も、ひやりと冷たい金属の感触しかしない。
糸に引っ張られるみたいにしてもう一度上を見る。やはりそこには、街灯と傘がある。街灯の光は、傘の柄を握る白い手を照らしていた。手は黒い袖からひょろりと出ている。袖の元をたどっていくと、最後に目は真上を向いた。
街灯が、傘を差していた。
それには人間のような手と足が生えていて、垢抜けた感じのするタキシードを着こなしていた。白い手袋をはめていて、肌らしきものは一切見えない。そして、ちょうど光る部分が頭であるかのようにタキシードから出ている。彼は頭を下に向けて、私を見下ろしているようだった。
私は上を向いたまま目を見開いて固まってしまったけれど、それでも不思議とこの光景に恐怖は感じなかった。それどころか、この街灯と意思を疎通してみようという気さえ起きていた。
「あなたは……」
誰と尋ねるのもおかしい気がして、歯切れの悪い言葉だけが口から出た。街灯は何も答えなかった。言葉は通じないのかもしれない。よくよく考えれば、口もないのだし話すことができないだけかもしれない。それでも目は見えているようだけど。
ただ、彼は答える代わりに、こちらへ向き直り膝をついて私に手を差し伸べてきた。私の三倍はあろうかという長身が近づいてくるのは、なかなかに迫力がある。でも、私はなぜだか安心していた。
私は素直に手を取った。腕に力を入れると、ふわりと体が浮いて自然と直立の姿勢になる。立ってみて、自分のすぐ後ろに彼がいることがどうにも落ち着かなくなってきたので、ぎこちない動きながらも彼の隣に並んだ。彼ももう立ち上がっていて、私のことは見ていないようだった。
先ほどまで触れていた彼の手を横目で見てみる。彼の手の感触は、やはり冷たい金属だった。本当ならこんなに滑らかに動くはずのない硬い感触。それでも、その手には温もりがあった。変な感じだ。
その安心と温もりの理由に、私はゆっくりと気づき始めた。父と母を拒絶してまで飛び出してきた私が、こんな道端の妖怪の隣に立っている理由。
とどのつまり、私が求めていたのは彼のような手だったのかもしれない。私を引っ張って道案内する手ではなくて、立てないときに差し伸べてくれる手。あるいは傘を忘れたとき、代わりに差してくれる手。
甘やかされるのも嫌、放っておかれるのも嫌。とんでもないワガママ娘だ、と苦笑してしまう。でも、自分の意外な姿を認めることは、案外清々しい気分だった。心に居座っていた謎の影も、なんてことはない、光を当ててみればただの女の子だったということだ。光はいつか消えてしまうけれど、そこに彼女がいると分かってさえいれば話し合える。少なくとも、いきなり殴りかかられることはない。
これなら帰れる。つま先を家に向けることができる。でも、せめてこの雨が止むまではここにいよう。彼の隣に。私は、無心で雨が止むのを待ち続けた。
雨がノイズから小気味のいい音に戻って、私は今まで雨宿りしていたことを思い出した。はっとして状況を確認しているうちに雨が無音になり、私は静寂に包まれた。
寝て起きたときのような、時間と意識が飛ぶ感覚。時間の経過を感じられるのは、消えた雨の音以外に何もない。ただ、長い間彼の隣にいたという感覚は、なんとなく残っていた。
もう彼ともお別れか、と寂しい気持ちで横を見ると、街灯は微動だにせず立っていた。雨が止んだというのに、傘を閉じる素振りすら見せない。気づいていないのだろうか。
そのとき傘に意識がいったことで、彼はずっと私を傘の中に入れてくれていたのだということを今さら実感した。
「あの、ありがとうございました」
私は横に向き直り、街灯に向かってお辞儀をした。伝わるかどうかも定かではないけど、どうしても言っておかなければならないと思った。顔を上げると、街灯はこちらを向いていた。そして手を軽く上げ、頭をクルクルと右へ左へ回転させた。いえいえ、お気になさらず、そう言いたいのだろうか。
「私、もう行きます」
街灯はそれを聞くと、巨大な傘を閉じて手のひらを空に向けた。そして数秒固まった後、頭の後ろを手でかいた。世界をひとつ隔てた隣人は、頭のどこが正面なのかすら分かりづらいのに、なんだか人間らしさを感じてしまう。
「本当に、ありがとうございました」
再度お礼を言いながら歩き始めると、街灯は短く、だけどゆっくりと手を振った。
少し歩けば、もう頭上に光はなく、星一つない空が広がっている。商店街と住宅街の間に、あまり電灯はない。前の方に薄明かりは見えるけど、到底私の足元を照らしてくれそうにない。もうここは、これまでの十七年間と同じ世界だ。
祭りの人波から抜けたような、温もりを残す寂寥感に後ろ髪を引かれて振り返ると、もう街灯の列は火の玉みたいにぼやけていた。ここからでは、どれが彼なのかも分からない。彼はまだ手足を生やしているのだろうか。それとももう、他の街灯と同じ姿に戻っているのだろうか。どちらにせよ、今さら戻るのは無粋だ。今は前へ向かって歩こう。
辺りは暗いけれど、道が分かっているのなら迷うことはない。ここから先は一人で大丈夫。今なら雨だろうと雪だろうと存分に降ればいい。どうせもうびしょ濡れなのだから関係ない。それに、目の前の光が、雨で消えてしまうというわけでもないのだから。