うら若き秀一少年の悩み 1
「ね、秀ちゃん」
ある日。
夕飯の準備をしていたら、仕事から帰ってきた母さんがおもむろにこう告げた。
「秀ちゃん、家庭教師に通うことになったからよろしくね」
「はい?」
勢い良く流れる水道の音に紛れて、聞き間違えたのかと思った。
家庭教師に、通う?どういう意味だ?
「今度の土曜日に挨拶に行くから。覚えといてね〜」
あっさりそう言うと、今日も疲れちゃったーと言いながら鼻歌交じりにお風呂場に消えていく母の姿をポカンと眺めて、それって俺が勉強を教わりに行くってことだよな…とその言葉が何を意味していたのか察する。
本人の意思はまるっと無視して、母の中ではもう決定事項らしい。
こうなってしまうとどう抵抗しても覆せないことはこれまでの経験上良くわかっていた。
そんな母さんの一言から、俺は半ば強制的に勉強を教えてもらいに行くことになったのだった。
国語の成績が致命的。
そんなことは誰よりも俺が一番わかっていたけど、母さんは俺より危機感を抱いていたらしい。
母さんのいとこ、俺からするとまたいとこ、ということになるけど、その女の人が国語が得意だったらしく俺に教えてくれることになったようだ。
最近の母さんはなんだか忙しそうだったので意外だ。俺のことを思っていたより気にかけてくれていたみたいだ。
というより、週末必ず家にいる俺が鬱陶しかったのかな…。おちおちデートもできないし。
とにかく、国語の成績を上げないと志望校に合格するのが難しいことはわかってる。
でも、あまり気乗りしないんだよなあ…。教わること自体はいいんだけど、相手が女の人、というのがどうしても引っかかる。
鳥海先生みたいな人じゃなければいいんだけど…。
人のせいしてはいけないのは分かってる。でも言わせて欲しい。
俺が国語が苦手なのはあの人が原因だ。
去年、鳥海先生はうちのクラスの副担任だった。担任や国語の先生が休みの時は代わりに壇上に立つこともあり、学級委員として何度か話をしたことがある。
ある日クラスの皆から集めたプリントを鳥海先生のところに持って行った時のこと。
普通にプリントの束を渡して戻ろうとした時、頭をそっと撫でられた感触があって振り向いたら、鳥海先生はニッコリと笑って小首を傾げた。
「あ、ごめんなさい。綺麗な髪だなって思ったらつい…」
「ああ、いえ…」
ゴミか何かが付いていたわけではないらしい。
ちょっと困惑しつつ頷いたら、先生はスッと身を寄せてきて俺の腕に手を添えた。
「柏くん、ありがとね。ちゃんと期限までにプリントを持ってきてくれたのは柏くんのクラスだけよ。助かっちゃった」
やけに近い。
目線を合わせると必然的に胸の谷間が見えてしまう気がして、俺は目をそらしながら一歩後ろに下がった。
「いえ、普通に仕事ですから…」
先生はふふ、照れ屋さんね、と笑ってさらに近づいて耳元で囁いた。
「柏くんみたいに真面目な子、先生、好きよ」
あの時のネットリとした吐息。腕に感じるふくよかな感触。
俺はこれ以上ないくらい鳥肌が立った。
もちろん、断じて、興奮したわけじゃない。
心底ゾッとして鳥肌が立ったんだ。
だって先生だぞ?生徒に色目使うなんてあり得ない!何考えてるんだこの人は!!
色目っていうのがどういうものなのか知らなかったけど、この時心の底から理解した。そしてそれがいかに気持ち悪いかも。
俺は震えそうになりながらも鳥海先生を腕から引き剥がし、「失礼します」と言って回れ右で逃げた。
その時先生は艶然と笑っていた気がする。
後ろから「国語がわからなかったらいつでも聞きに来てね」という声が聞こえてきたけど絶対に鳥海先生にだけは聞きに行かない!と心に誓った。
そんなことがあってから、鳥海先生が近くにいる時は常に視線を感じるようになった。
その度にゾクゾクして仕方ない。(もちろんそっちの意味じゃない)
特に国語の授業中は酷くて、絶対に朗読で当ててくるし問題解いたりグループで話し合いをしている時は80%の確立で半径2m以内で俺を見つめている。気がする。
誰か俺を自意識過剰だって言ってくれないかな…。
そういう経緯で、俺の中で国語=鳥海先生=寒気・吐き気・鳥肌という図式が出来上がり、テスト中は問題を解くどころじゃなくなってしまった。
だけど病気なわけじゃないから保健室に行くわけにもいかないし、どっちにしろテストは受けなければならないしで、毎回散々な結果を出してしまったのだ。
女の人が皆そうじゃないっていうのは分かってるんだけど、どうしても苦手意識が出てしまう。
ああ、今度の週末か…。憂鬱だなあ。
実際は俺のまたいとこ、榎本杏花さんは鳥海先生と全然違うタイプだった。というか正反対だった。
鳥海先生みたいにメイクは濃くないし、俺みたいな子供に色目を使ってくることもない。
あ、いや色気がないって言ってるわけじゃないんだけど、とにかく気さくで優しそうなお姉さんだ。
俺が家庭教師に前向きじゃないってことを敏感に察して気も遣ってくれた。
それにしても母さん、なんでそんなに俺がここに通うの嬉しそうにしてるんだよ…。
やっぱり部活もしないで家にいるから邪魔だったのか?
ただの疑心暗鬼だってことは分かってるんだけど、少しでも母さんの役に立てればって俺なりに考えてたんだけどな。かなり複雑だ。
とにかく、杏花さんは昔から国語が得意だったらしく、とても分かりやすく長文の解説をしてくれた。現役の学生じゃないのに凄い。
今年は担任が鳥海先生になって国語の成績は絶望的だなと思っていたけど、杏花さんならなんとかしてくれるかもしれない。
というより、勉強教わってる=それなりの成績を残さねばならない、っていう強迫観念があれば、あの呪いを打破できるかもしれない!
逆に自分の首を締めることになってないか?というのは気付かなかったことにする。
何事も気持ちの問題だと思う。頑張れ俺。
ちなみに、3年になって鳥海先生が側にいる回数は増えたけど、視線の回数は少し減った。
時々目が合うと少し悲しそうに笑って俯かれる。彼女、できたのね…。とでも言いたいのだろうか。気のせいであって欲しい。
というかそんな仕草されてもちっとも良心が痛まないんですけど…。
ということで、毎週土曜日は杏花さんに国語を教えてもらうことになった。
何度か通って分かったことは、杏花さんはメーカーの経理職として働いているということと、日本の文化が大好きだってこと。特に漫画にかける情熱は誰にも負けないと思う。
あと恋バナ好き。俺と鈴原さんのこと聞いたって大して面白くないと思うんだけどな…。
それとなんといってもとにかく人を褒める。褒めまくる。「凄いね」「良くできたね」「さすが秀一くん」などなど、国語の指導中は褒め言葉のオンパレードだ。欧米の匂いを感じる。
聞いてみると大学時代イタリア人の留学生と友達になり、人を伸ばすのは叱るより褒めること、と習ったそうだ。
確かにこうも褒められると何でもできる気がしてくる。気持ちって本当に大事だな。
この調子で国語のテストを乗り切って行きたいと思う。負けるな俺。
実際にテストを受けてみると、これまでの発作は嘘だったかのように、スラスラと問題を解くことができた。
試験官が鳥海先生だったのにもかかわらず、だ。
多分俺の中で国語=杏花さんっていう図式に書き換わったからなんだろうな。良かった…。




