4話 冒険する準備はできていた 前編
「むぅ、朝か。時刻は……5:40。随分長く眠ってしまったようじゃの……」
まるでSF映画に出てきそうなくらいに発達した、近未来的な設備が立ち並んでいる一廓。
その中の一つの部屋で、虚空に浮かぶ電子時計を眠気眼でぼんやり見つめながら、もうここにきて何度目かになるその言葉を空木は独り呟いた。
今まで包まるようにして眠っていたふわふわの布団を足で跳ねのけ、今の空木にはやや大きすぎるベッドからぴょんと飛び下りる。
部屋に付属している小さな小窓からは、あまりに美しい朝焼けが爛々と輝いて見える。
それど同時に、それ以外は昨日とあまりに同じままの風景にがっくりと肩を落とし、諦めの混じったため息を吐いた。
「やはり事態は好転なんぞしとらん、のう……。ドッキリの札を持ったスタッフなんぞ待つだけ無駄、という訳じゃな……」
誰にでも言う訳でもなくそう呟くと、もう一度だけ軽くため息をついて、洗面所へと足を進める。
そこで顔と漱いで寝癖を整えると、ちょっと重たい足取りで部屋を後にした。
空木らがこの世界に降り立って既に5日もの時間が経過していた。
「おっす、おはよう! 今日も朝が早いねェ!」
まだ眠っているらしき薄氷を待たずに一人中庭で適当に食事を終えて建物内を歩いていると妖精が声を掛けてきた。
「どうも。あなたも朝から元気ですな。この世界では目覚ましに事欠かないみたいで何よりですじゃ」
「ハハハ、言うねぇ。でも目が覚めることはいいことじゃないか」
「ほんと、これが夢なら今すぐ目覚めたいですわい」
あの衝撃的な説明を受けた日から数日。当初はなんとなくギクシャクしていた妖精とも、今では普通に会話ができるようになっていた。
当然、巻き込まれた側としては運営側である妖精に禍根の一つでも抱かなかった訳でもないのだが、一寝れば頭も冷える。
そうすれば彼も哀れな被害者であることはすぐに理解できることだ。
空木とて感情に生きる人種ではない。長い付き合いになるだろう相手といつまでもつまらない意地を張るつもりはさらさらなかった。
2日3日ならまだドッキリや妖精の勘違いの可能性もまだ捨てきれなかったものの、5日目にもなると空木らも諦めと共にこの現実を受け入れ始めていた。
だが幸いにも食事や生活には困っていない。
中庭には瑞々しい果実が尽きることなく生っているし、スタッフ用の休憩室にはコーヒーとミネラルウォーターが無尽蔵に手に入った。運営用の宿泊用の区画には柔らかなベッドと暖かなシャワー、そして高性能のランドリーが備え付けられていたので、衣食住にはまったく問題はない。
残念ながら、リラクゼーションルームや図書室。またビジター用の宿泊施設といった所はスタッフルーム外にあったため、多くの冒険者に荒らされてしまっていたが、AVルームでは映像装置は壁や天井に埋め込んであるためか無事だったため――操作盤の方はかなり壊されてはいたが――いつでも映画や音楽を楽しめた。
しかしそれでは『生きている分には』大丈夫というだけだ。もう一生ここで暮らすとなれば話は随分と変わってくる。
そもそもアフターライフ内では基本的に寿命は存在しない。なのでそれこそ何もせずここに居続けるのなら、文字通り世界が終わるまで永劫に暮らし続けるハメになる。そんなことは到底耐えられる訳がなかった。
だが、だからといって安易に冒険に旅立とうと決断することもできない。
アフターライフ内では死亡しても、バックアップデータから記憶と肉体の復元が可能だが、システムから孤立したここでは生き返られる保証はどこにもなく、無茶はできない。
それに、今となっては救助の希望はほとんど抱いてはいないものの、それでも自分らが勇気を出して命を掛けて冒険に旅立った途端にシステム復旧するだとか、そんな馬鹿げた事が起こり得ない保証もない。
もちろん空木としてもずっとここの建物に閉じこもっているつもりはサラサラなかったのだが、どうにも勇断を下すことができず、そのままここで燻っているのだった。
妖精もそのあたりの事情は汲んでくれているようで、無理に空木らを冒険に急かすようなことはしなかった。
「それで、今日ものんびり映画観賞かい? どうせならオススメの映画でも教えようか?」
「いや。今日はちと外をぶらついてみますわい。たまには身体も動かしませんとな」
「そっか。じゃあ前にも伝えたように、エリア外には出ないようにな」
それだけ会話を交わすと、妖精はひらひらと手を振ってどこかへ飛んで行ってしまい、その場に空木一人がポツンと残される。
あの妖精は空木らを信じているのか、或いは単に放任主義なだけなのか。成績を鑑みると、後者である気がしてならないが。
「さて……今日も無為に過ごすとしますかね」
暖かな日差しが射しこむ中、空木はうんと伸びをしてから何処へ行くでもなくふらふらと歩き始めた。
日も既に中天を迎える頃、空木は崩れたテーブルの天板の上でちょこんと体育座りをして、ただなんとなく森の方を眺めていた。
先ほどまではAVルームで懐かしの映画を見ていたものの、どうにも気が落ち着かず、仕方がないので気晴らしとばかりに建物の外へと足を踏み出すことにしたのだ。
妖精の言っていた『エリア外』がどこまでの範囲かは分からないが、建物が見えている範囲内では別にかまわないだろう。
空木の見つめる先には、様々な樹木が鬱蒼と生い茂っている。樹海と呼んでも差し支えないほどの大森林だ。
初日から何度も見た光景ではあるのだが、改めてじっくり見てみると何だか異様な圧迫感がある。
木々の隙間から指しこむ木漏れ日には華があるし、青々とした草木や花々もなかなか爽やかなものなのだが、一度妖精から魔法ありきのファンタジー世界だという説明を聞いたからか、それすらも何だか妖しく感じてしまうのだ。
「剣と魔法と言われてものう……。『蒼の英雄譚』みたいな世界なんじゃろうか」
誰に言うでもなく呟きつつ、空木は自らの子供時代を思いだしていた。
子供の頃も、大人になっても、空木はそれほど多くのゲームを嗜んだことはなかった。別にゲームが嫌いと言う訳でも、親が買ってくれなかったという訳でもないのに、なぜか気が乗らなかったのだ。
ただそんな空木でも唯一心の底から楽しんだゲームソフトがあった。
そのゲームの名は『蒼の英雄譚』といい、選ばれし一族の勇者が世界崩壊を止めるために旅立つという実にオーソドックスなRPGで、かなりマイナーなゲームであったと空木は記憶している。
ゲーム容量もそれなりに多く、その割にはゲームバランスが非常にシビアで、攻撃、防御、妨害、回復、補助をキチンと考えてこなさなければ小ボスすら倒せないという、まだ鼻たれ小僧だった空木からしては、非常に難易度の高いゲームであった。
しかしその戦略性が当時捻くれ者――厨二病とも言っていたが――だった空木の琴線に触れた。
あれよあれよとゲームの虜となり、ゲームを譲り受けてからおよそ1ヵ月。友人の遊びも家族とのドライブも断り、我を忘れて遊び続けた。
そして一ヶ月後、見事に世界崩壊を食い止めて英雄となった空木は、何とも言えぬ満足感と達成感。そして終わってしまったという一抹の寂寥感の中で、ゲームの素晴らしさを知った。
……と、ここまで言えば、ゲームの素晴らしさに目覚めた少年とその序章とも聞こえるのだが、空木はその後がマズかった。
何せ、ゲームを面白いものだと思い込んだ空木が、なけなしの小遣いを注ぎ込んで次に手を出したのが『フェアリーハート』というゲームなのだが、これが空木の求めるものとはまったく真逆のものであったからである。
攻撃ボタン連打したら、大ボスがあっさりと倒れた。
補助系、防御系、妨害系能力は死に設定。使う暇があったら、その分を攻撃に回した方が遥かに良かった。
エンカウント率が異常に高い割に、出てくる雑魚敵は全てワンパンで沈んだ。
そのくせ落とすお金や経験値が非常に多く、何もしないでもレベルがガンガン上がった。
まるで単なる作業。ボタン連打しないと進まない三流映画を見ているようで、ゲームの中盤当たりに差し掛かる頃には、空木の心は粉々に砕け散っていた。
そしてこのことを友人に愚痴ろうと、『フェアリーハート』のことを話題に上げた時、空木は衝撃の言葉を貰うこととなる。
半世紀以上たった今でも、なおのこと鼓膜の奥に焼き付いている言葉だ。
――あぁ、『フェアリーハート』だろ? あれって神ゲーだよな!――
――そういやお前に上げた『蒼の英雄譚』。どうだった。難易度おかしいクソゲーだったろ?――
――まったく、少しは『フェアリーハート』を見習ってほしいもんだよなぁ。ハハハハハ――
この友人の台詞で察したのだ。
世間では『フェアリーハート』は良作扱いされているということ。
駄作扱いされているのは、むしろ空木が心奪われた『蒼の英雄譚』の方であること。
そして空木が自分の求める物語は、今後もう現れることがないだろうということを悟り――そして静かにゲームの世界から身を引いた。
あれから幾十年。人ととしての生を全うしたその後に、まさかそのゲームそっくりの世界に閉じ込められるとはお笑い草である。
それも空木の立場としては攻略難易度が低い世界観であった方がありがたい。例えるなら、それこそっ雑魚敵しかいなかったフェアリーハートの世界のように。
「皮肉なものじゃ。あれだけ待ちわびていた『蒼の英雄譚』より、今は『フェアリーハート』の世界観が望ましいとはのう……。やはり私にはファンタジーとは縁がないんじゃろうか」
「ファンタジーに何か良くない思い出でもおありなんですか?」
突然背後から聞こえてきた声につられ、空木は軽く首を捻って顔だけを後ろに向ける。
そこには小さな青リンゴを手にした薄氷が、こちらへと歩んできてるのが見えた。
どうやら少し遅めの朝餉の最中のようだ。
「やあお嬢さん。いや、空想小説くらいは読みはしますがの。悉く駄作を引き当てておりまして、せめてこの世界はまともであってほしいなと思っておっただけですわい。お嬢さんの方こそ、昨日はちゃんと眠れましたかな?」
「いえ、実は寝付けなくて、お陰でこれだけ朝寝坊してしまいました。あと私は薄氷麗と言います。お好きに呼んでいただいて構いませんよ」
「おや、そうですか。それじゃあ改めて薄氷さん、こんにちは。それじゃあ今は朝餉の途中で?」
「えぇ、こんにちは。えっと、まぁ朝食は既にとったのですが、お弁当代わりにと妖精さんが一つ持たせてくれて……。空木さんの方はここで何を?」
「いや何。ちょっと外がどうなっているか気になったものでね。こうして見回ってるだけですよ」
当たり障りのない会話でお茶を濁しつつ、空木は薄氷の様子を伺ってみる。
寝起きなのかやや目が赤く充血しているが、どうやら心の方は初日と比べて随分と落ち着いているようだ。
それまでだと時折空木の方を見て黙り込んでしまう場面があったので心配ではあったのだが、何日か寝てだいぶ心を整理する余裕が出てきたのだろうか。
とりあえず良かったと一息つく。
「うーん……。やっぱり周りは森ばかりで、樹以外何一つ見えてきませんね」
「何十年にもわたり放置された影響でしょうなあ。初日も見た光景ではありますが、改めて見てみると……まあ心にくるものがありますの」
そう言って、目を細めながらその光景をまじまじと見つめる。
自然の力に浸食されたのか、はたまたここに足を踏み入れた冒険者とやらに荒らされたのか、石畳は軒並み崩れ、テーブルや椅子らしき残骸には苔が生えている。
花壇らしきが場所には、水草と思われる薄茶色の植物がわらわらと生い茂っており、雨水を貯め込んだ噴水は深緑色に濁りきってしまって底が見えない状態だ。
建物内部と違い、永らく野ざらしになっていたからであろう。この光景は、いかにこの場所が長く放置されていたかを物語っているようだ。
そうやってしばらく荒廃した楽園の名残を眺めていると、突然薄氷が「少し、この建物の周辺でも歩き回ってみますか」と呟き、ゆっくりと建物沿いに歩き始めた。
特に反対する理由も見当たらなかった空木は、「そうですの」とだけ返事を返すと、羽織をゆるゆると靡かせながら、その後をついていく。
雨風に曝されて機能停止してしまったらしき、案内板の一部。
冒険者に根こそぎ取られたのか、身体の一部や装飾品の一部がごっそり削られている銅像。
チュートリアルコーナー入口と書かれた看板と、乗ってもうんともすんとも云わない魔方陣。
ランキングカウンターと書かれた巨大スクリーン。
至る所に当時の名残が散らばっている。
別段この場所に思い入れがある訳でもない。むしろ不本意に行きついた場所と考えれば、不満の一つでも零れ出そうと思ったのだが、不思議と空木はそんな気分にはなれなかった。
ゆっくりとした歩調を緩めずに、空木は眼を細めて夢の亡骸を見回す。
本来ならばここも多くの人で賑わうはずの場所であったはずなのだ。始まる前に終わってしまったこの建物に憐みを持たずにはいられない。
「改めて見ると、寂しい光景ですね」
ふと先頭を行く薄氷から声がかかる。
一瞬だけ目を横にやると、足を止めた薄氷が、少し長めの前髪を風に靡かせながら、物憂げな表情で空木と同じ方向を眺めていた。
案の定、絵になっている。今言うべきことではないが。
「オープン記念のための飾り付けでしょうか。至る場所に歓迎の言葉が書かれたアーチや看板の名残が散らばっているんです。もう文字もほとんど掠れてしまってますけど……」
「そうじゃのう。あの妖精曰く、この世界にも人はいるようじゃが、これだけ見てるとまるで世界が滅んでしまったと錯覚してしまいそうですわい」
「……こんな場所で、あの妖精さんは独り待ち続けていたんですね。外部からの何かを」
その言葉に空木が薄氷の方を向く。
薄氷は未だ物憂げな表情のまま、その名残を見つめているままだ。
もしかしてこの精悍な少女は、あの陽気な妖精に同情しているのだろうか。
「薄氷さん。あなた、もしかして……冒険に出る決意を?」
「え? あぁ、いえ。そんな訳ではないです。そう簡単に決められることじゃないし、そもそも体良く達成できるような事柄じゃないですし。ただ……」
そんな彼を放っておいて、知らぬ顔のままここで過ごしていけるとも思えなくて。
突如吹きつけた風の音にかき消されてしまったが、掠れ掠れ聞こえてきた言葉はこのようなものだったと空木は思っている。
確定はできない。だが確かめるために聞き返すようなことはしなかった。
そんなことは野暮だと思ったからだ。
薄氷はすぐに歩みを再開させ、空木も何も言わずその背を追いかけた。
そして探索してから半時ほどを経て、ぐるりと建物を一周して出発した地点が見え始めてきた丁度その時。
最初に異変に気付いたのは薄氷の方であった。
エントランスが見えてくるあたりで急にピタリと立ち止まり、その鋭い双眸をぐっと細めて右奥の茂みの方を睨み続けた。
「? どうかしましたかの?」
「いえ。今茂みの方で何かが動いたような気がして……」
「茂み? どこじゃ? ……うーん、私からは見えないのう」
生憎、空木の身長では薄氷と同じような目線は持てない。
ぴょんぴょんと飛び跳ねてみてはいるが、瓦礫の山が邪魔でやはり薄氷の見ている茂みは見えそうにない。
「私からは見えないが……。あすこに誰かおるんじゃろかの? もしかして例の冒険者というやつじゃろか」
「分からないです……。あ、でももしかしたらモンスター……」
「ん? 何ですと?」
「いえ、ですからモンスターです。先日の説明では『恐ろしいモンスターがゴロゴロしてる』とのことでしたので……」
そこまで聞いて、やっと空木はあぁ、と納得したように声を上げた。
思えば確かに薄氷の言う通り、昨日聞いた妖精の説明の通りなら、当然モンスターもいるはずだ。
それにモンスターというからには敵役であろう。ならば最初からこちらに悪意を持っている生き物の可能性も低くはない。
思わず腰を低くする空木だが、ただでさえ小さい自分が頭を下げても大して意味がないということに気づく。
「妖精さんの話では、ここがスタート地点らしいですし、あまり強いモンスターではなさそうですけども……」
「それでも警戒するに越したことはないじゃろうな。今は武器らしきものも持っておらんし……」
「あっ! 茂みが動きました! こっちに出てきそうです!」
「うむ?! もう出てきおったのか! 薄氷さん、急いで中に逃げる用意を――!」
姿は見えずとも音は聞こえる。
ガサガサという茂みを掻きわける音と、何か重たいものが石畳を踏み鳴らす鈍い足音、そして何やら地響きのような唸り声。
これはとんでもない化け物が現れたとふんで、急いで逃げるよう促す空木であったが、一方で薄氷の脳はと言うと反応は薄い。
「い、いえ。待ってください。あれは――」
そうこうする間に、のしのしと足を踏み鳴らしながら、その噂の主が瓦礫の山から姿を現した。
筋肉を束ねたような太い足。岩でも楽に噛み砕けそうな発達した顎。分厚い脂肪に守られた大型犬並みの体躯を持った、そんな世にも恐ろしいモンスター――
「ブヒ?」
「…………ぶ、豚?」
……ではなく、豚がひょっこり現れた。
思わずポカンと口を開けて呆気にとられている二人を後目に、豚はしばらく瓦礫の上で鼻をすんすん言わせて当たりをうろついている。
何かを探しているようで、まだこちらに気付いている訳ではないようだ。
空木らは顔を見合わせて、豚に聞こえないくらいの声でこそこそ話し始める。
「豚、ですよね?」
「豚、じゃなあ。まぁあの背中を見る分には、まともな豚ではないとは思うが――あれは甲殻かの?」
「ですね。まあ遠目なので断定はできませんけど……。あの子もモンスターに分類されるのでしょうか」
「分からぬのう。戦闘音楽でも鳴り始めたら分かりやすかったのですがの」
そういって空木は、瓦礫の山でぶいぶい言ってる豚に目をやる。
一見すれば普通の豚ではあるが、その実、岩山にも見える、いかにも硬そうな甲殻をその豚は背負っていた。
大きな一枚貝の殻が豚の背中にピッタリとくっついて同化している……と言えば分かりやすいだろうか。
さながらその姿は鎧を着込んだ豚ではあるが、それでも邪気のない仕草にはどうも悪意があるようには感じられず、どうにも二人はこの豚を脅威の目では見られなかった。
しかしそれはあくまで二人の主観によるもので、実際はどうなのかは分からない。
それに、ただの豚だったとしても、豚も豚で人間を軽く殺せるだけの力を持つ猛獣だ。
その異様な容貌も相まって、とりあえずは警戒しておくことに越したことはないと、踵を返してその場から立ち去ろうとしたその時。
「ブ?」
「うげっ」
不意にひょこっと顔を上げた豚と空木の目が合ってしまい、思わず変な声が出る空木。
少しだけ大きな声が出てしまったので、豚を刺激してしまってはいないかとちょっと身がまえたが、一方で豚はただただ物珍しそうにつぶらな瞳で二人を見つめたまま佇んでいるだけだった。
その双眸からは別段何の敵意も感じられない。
「気付かれたみたいですが……襲ってこない?」
「少なくとも、見つかったら問答無用でバトル開始、と言う訳ではなさそうじゃの。不幸中の幸いじゃ」
「もしかして『モンスター』じゃないのでしょうか。私、そのあたりの事情は良く分からなくて」
「どうじゃろうなぁ。私も半世紀以上前にゲームをしたことはあるが、昨今のこういう界隈の話には明るくないのでのう。ただあの外観からして普通の豚ではないじゃろうし、用心するに越したことはないじゃろ」
モンスターか否かは、後で妖精にでも聞いてみればいいだろう。
とりあえず今はできるだけ豚を刺激しないようにこの場から退散するのが先決である。
「とりあえず念のため……。薄氷さん、その手にあるリンゴをくれてやりなさい。注意を惹きつけられるかもしれんしの」
「え? あ、そうですね。運よく持っててよかったです。妖精さんに感謝ですね……やっ!」
空木に言われて、薄氷は手に持っていた朝食代わりのリンゴを豚の方へと投げつける。
ほんのりと甘い芳香の漂う青リンゴは、大きな山なりを描いて豚の出てきた茂みの方へと飛んでいった。
豚も最初は投げつけられたものを眼だけで追ったようであったが、飛んでいるのがリンゴがと分かった瞬間、すぐに身体を反転させてリンゴを追って茂みの中へと消えていった。
どうやらひとまず危機は去ったようだ。
空木らは一先ず胸を撫でおろし、先ほどの豚が戻ってこないうちに足早に建物の中へと入ることにした。
「そりゃあハニービュートだな。近くの農村が森に放してるうちの一匹が結界を抜けて迷い込んだかしたんだろ」
夜、中庭での食事中にひょっこりと現れた妖精に昼間のことを話してみると、なんてことない風にあっさりと答えた。
口ぶりからすると、この世界ではさして珍しくもない家畜ということか。
「奴らの背中の甲殻は見たろ? あいつらの好物は蜂蜜でサ。あの硬い甲殻と分厚い脂肪で身を守りながら、蜂の巣とかを齧るんよ。ここから北に行けば『アマゾネス・ビー』っつー、厄介な蜜蜂モンスターが巣食ってる危険地帯があるんだけど、そういう場所に野生種は生息してる。でもこっちの森に現れたのなら農村の奴らが森に放したハニービュートだろ。ま、野生種じゃないのならそこまで危険な奴らじゃないサ。放っておけよ」
妖精は、そう大したことじゃないという風に言い放ち、山のように積んである果実の中からイチジクを引っ張り出して齧りつく。
妖精が小さいせいか、ほとんどイチジクに顔を埋めているように見える。ファンシーななりをしてる割には、随分と粗野な食べ方である。
「まあそれなら別に構わんのじゃが……。しかし動物が紛れ込むということは、モンスターも入り込めるということなんじゃないのか?」
「安心しな。一応魔物避けの結界もあることはあるから、あまりに強力なモンスターは入ってこない。後な、ハニービュートは立派なモンスターだぞ?」
「え、そうなのですか? あまり害意みたいなのは感じられなかったですが」
背中に甲殻みたいなのが見えたし普通の豚ではなさそうとは思ってはいたが、それでも対峙した二人からしても、あの豚からは何の敵意らしきものは感じられなかったのだ。
モンスターというのはいわゆる敵役で、人を見かけたら襲いかかってくるようなものじゃないか。
そのような疑問を薄氷が投げかけてみると、最近じゃあ誰彼敵対するような敵役ばかりじゃないぞ、との答えが返ってきた。
どうやらゲームというやつは色々と変化しているらしい。
「モンスターって一言で言っても、この世界じゃ奴らも一種の生物サ。バッチリ生態系のシステムの中に組み込まれてる。一応『魔族』とか『リスキーモブ』とか、プレイヤーと積極的に敵対するモブも存在するけど、そういう奴らを除けば生物らしい行動しか起こさないよ」
「そんなものですか……。じゃああそこまで警戒する必要もなかったということですかの」
「いや。話を聞く限りじゃ、あんたらの判断はおおむね正しいよ。いくら家畜用つってもモンスターはモンスターだかんな。人間くらい軽く殺せるだけの力は持ってるし、無理に手を出すよか遥かにいい判断だよ」
どうやらあの時の判断は間違ってはいなかったらしい。
それについては一安心だが、お陰で一つの懸念事項ができてしまった。
「それならまあ一安心じゃが……とりあえず最低限の自衛手段が欲しいのう。モンスターとやらが侵入できるのなら、もう迂闊に外も歩けませんぞ」
「そうですよね……。鉄砲みたいなのがあればいいんですけど」
そう言って二人して悩むようにして黙りこくる。
いざとなれば籠城も可能だろうが、いつ出会うかもしれぬ外敵に怯えながら暮らすと言うのはとても健全な生活とは言い難い。
周りに落ちてる瓦礫と木の枝を組み合わせて、武器の一つでも作ろうかと思い始めたその時、自身の身の丈ほどあるイチジクを、顔じゅう蜜まみれにしながら貪っていた妖精が、何言ってるんだコイツ、と言いたげな顔を向けてきた。
「んなもん撃退しちゃえばいいじゃん。ここら一帯、あの鎧豚含めて雑魚しかいないしサ」
それを聞いた空木もまた妖精に、何言ってるんだコイツ、と言いたげな顔を向けそうになるが、寸でのところで堪えた。
しかし空木が何か言おうと口を開く前に、補足とばかりに妖精は説明を続けた。
「忘れたか? ここスタート地点。この世界に降り立った人が丸腰のまま化け物が跋扈するフィールドに叩きだされる訳ないじゃないか。ああいう『モンスター』に対抗できるよう、予めここで装備が整えられるようになっててサ。あの鎧豚を退けられる武器程度なら、明日にでも用意できるぜ」
そう言って満足げに腹を擦りながらふんぞり返る妖精。話すべきことは話したと言いたげだ。
そんな様子の妖精に向けて、薄氷が恐る恐るといった風に尋ねる。
「えっと……。それじゃあ妖精さんは私たちに装備品を提供してくれる用意があると……?」
「もち。というか、武器や道具に関しては、今日の様な事がなくても明日か明後日にはこっちから提案してたと思うよ。説明しなきゃいけないことも沢山あるしね」
「説明したいこと……? 先日聞いた話の補足ですかの」
「違う違う。そんな深刻なもんじゃなくてサ。この世界独特の法則だとか風俗だとか、或いはお前らについて……だな、うん。まあ言葉じゃ上手く説明できねーや。まあ聞けば分かるよ。ま、そういうことで、明日昼ごろに広場の方に集合な」
何がそういうことなのだろう。前後の文が全くつながっていない。聞く限りでは、武器の提供と世界観について教えてくれるみたいだが。
しかしあのタフそうに見える豚を退けるどころか、打ち倒すことができる武装とは何だろう。ファンタジーの世界であるならば、魔法を駆使した兵器のようなものがあるのだろうか。
空木は顎に手を当て、ふわふわと想像する。
火を纏った剣、雷を呼ぶ杖、レーザーを放つ水晶球。
現実世界では実現できない摩訶不思議な力を秘めた武器。想像しただけで胸が高鳴った。ゲームこそ縁がなかったが、こういう武器を想像するのは実のところ嫌いではなかった空木は、自ずと口元に笑みが浮かんでしまう。
だが一方で、妖精は冷めた様子でいろいろと想像してわくわくしている空木をじっと見つめてる。
そしてちょっと気まずそうに頬を掻くと、不意に口を開いた。
「あぁ、装備つっても普通の青銅製のナイフとか槍とかそんなんだから、期待はすんなよな」
「は?」
今度こそ空木は妖精に、何言ってるんだコイツ、と言いたげな顔を向けた。
【設定用語集】 ハニービュート Honey butte
北大陸から西大陸にかけて分布する豚型モンスター。雑食性であるが甘い果物や蜂蜜が大好物。
蜂蜜を得る際に襲い来る蜂モンスターから身を守るために、背面が甲殻のように硬く変質している。
そんな姿が小さな丘を背負っているように見えるために『ビュート』の名で呼ばれるようになった。
やや独特の臭いがあるものの、微かに甘みのある肉は非常に柔らかく大変美味。
これはハニービュートの肉質というより、単に餌に甘いものを食べすぎて糖尿病になってるだけ。
ちなみに悪食なのは普通の豚と変わりはしないので、餌の少ない土地や、果実や蜂蜜のような餌が少なくなる冬場には、肉質が悪くなる傾向がある。
ハニービュート自体の性質はおだやかで、積極的に人間と敵対しない。そのため西大陸の多くの村では、このハニービュートを家畜として飼っている。
ただ野獣であることは確かなので、気が立ってたり身の危険を感じると反撃してくるので注意が必要。
総合的な危険度はEランク程度。