プロローグ前編
「……では、手筈通り開始いたしますよ」
――誰かの声が聞こえた。
「はい。先生、よろしくおねがいします……」
どこか聞き覚えのある女性の声が返事を返し、しばらくしてその声が息子の嫁である優子さんの声だと気付く。
薄ら目を開くと真っ白な天井がぼんやりと揺れて映っており、視界の両端には自分の顔を覗き込む孫たちの姿が見てとれた。
2人とも目を腫らして泣いていた。両目から流れる涙を拭おうともせず、ただただ自分の両目を見つめていた。
「さあ、お前たち。お爺ちゃんにお別れを言いなさい」
「お爺ちゃん……ばいば、い。か、加奈……ぐすっ……加奈のこと……忘れな、いでね」
「爺ちゃん……爺ちゃんっ……! おれ、絶対爺ちゃんのこと忘れねぇから……!」
ほとんど感覚の消えうせた両手に暖かい雫が伝う。
そんな年老いた手に縋りつく、愛しい者たちの頭を撫でようと己が腕に力を込めたが、最早持ち上げることすら叶わない。
ちょうど頭の上あたりでで何かの機械が作動したような音が聞こえた。
同時に意識がぼんやりと掠れていく。まるで夢を見ているかのようにふわふわした不思議な感覚。
――あぁ。あれが始まったのだ。
そう悟り、静かに目を閉じた。
孫たちの泣く声が一層強くなる。握り締めたれた両手から、暖かな体温が伝わる。
その体温も、少しづつ消えてゆく。声もだんだんと遠くなってゆく。
まるで体の先端からゆっくりと溶けていくかのように。ゆっくり、ゆっくりと。
――せめて最期にこの子たちに残さなければ。自分のこの気持ちを。最期の、真心を。
ほとんど消えてしまった感覚を、体の一点に集中させる。
動け、動け。そう念じながら、残された力を振り絞り、ゆっくりを動かしてゆく。
そして意識ももはや露へと消えそうな、最期の瞬間。
「いままで本当にありがとうな。お袋には少し寄り道していくって、ちゃんと伝えておくからさ。……じゃあな。お休み、親父」
そんな息子の声を聞き届けながら、男は意識を手放した。
「16:38。ご臨終なされました」
白衣を着込んだ壮年の男が、沈痛の面持ちで静かに言葉を紡ぐ。
それを聞いた子供たちが、堰を切ったようにわっと大声をあげて泣きだした。
最期に声を聞いたのはいつであったか。病魔に冒され、もはや手の打ちようがなくなってからは、ほとんどをベッドの上で寝て過ごしていた。
晩期は意識もほとんどなく、一方的に話しかける日が続いた。そう思うとどこか切なくてたまらない。
今年で45になるのにな、と空木和弘は自嘲気味に窓の外を眺める。そこには父親の大好きであった夕焼けが鮮やかに空へと映えていた。
――せめて最期にこの光景を見せてやりたかったな。
今更そう言っても手遅れではあるが、そう考えずにはいられない。
自分の無力さと不甲斐なさに思わず目頭が熱くなった、そんな時。右のわき腹をツンツンと小突かれた。
振り返ると目を腫らしつつも微笑んでいる妻の顔。そして妻が目で父親の方を見るように促す。
つられてベッドの上の父親の顔を見ると――
――あぁ。届いていたんだな。
そう。一瞬で理解した。
「お爺ちゃん……。ひっく……やだよう、やだようっ……」
「うっ。ううぅぅぅ……。爺ちゃぁん……ぐすっ」
娘と息子は未だに逝ってしまった己の父親の亡骸に縋りついている。
和弘はそんな2人に近づくと、そっと2人の頭を優しく撫でた。
「加奈、竜樹。お爺ちゃんの顔をよく見てみなさい」
父親の声を受けて、加奈と竜樹は祖父の亡骸からそっと顔を上げた。
そして涙と鼻水まみれの顔をゆっくりと動かし、それを見届けると少しだけ目を見開いた。
きっと彼らも自分と同じように理解したのだろう。
「お前たちの声はちゃんと聞こえていたよ。ほら、あんなに幸せそうな顔……。お父さんも初めて見たよ」
そこには意識のないと思われていた祖父の満面の笑顔があった。
それが男、空木裕満の残した、家族へと向けた最期の真心であった。