「君を愛することはない」と宣言した夫は、王女殿下に身も心も捧げているそうです。騎士とは愛人の別名でしたっけ?
「君を愛することはない。私の剣も、心も、すべて王女殿下に捧げている」
結婚初夜、夫はそう宣言した。
私は少し考えてから、尋ねた。
「では、王女殿下の愛人ということでしょうか?」
「違う!」
夫の怒声が寝室に響いた。
「私は王女殿下の騎士だ! 殿下への忠誠を、そのような下劣な関係と一緒にするな!」
「失礼いたしました。では、私との結婚生活はどうなさるおつもりですか?」
「必要な務めは果たす。だが、愛情を期待するな」
「承知いたしました」
政略結婚なのだから、愛情がないこと自体は珍しくない。私も夫に恋をしていたわけではなかった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
「ところで、王女殿下はご存じなのですか? あなたが心まで捧げていることを」
「当然だ。殿下も私を最も信頼してくださっている」
「そうですか」
どうやら、ずいぶん面倒な結婚をしてしまったらしい。
◇
夫は王女殿下の近衛騎士だった。
武芸に優れ、容姿も整い、若くして高い地位を与えられている。
ただし、その地位は少々特殊だった。
王女殿下が個人的に推薦し、王女殿下が昇進を望み、王女殿下が自らの護衛に指名した。
つまり、王女殿下のお気に入りである。
結婚して一週間後、私はその意味を理解することになった。
「奥様。本日も旦那様はお戻りにならないそうです」
執事が申し訳なさそうに報告してきた。
「今夜も王宮ですか?」
「はい。王女殿下が夜会に出席されるため、護衛を務められるとのことです」
「昨日は?」
「王女殿下の観劇に同行されました」
「一昨日は?」
「王女殿下が体調を崩され、寝室の前で警護を」
「その前は?」
「王女殿下との乗馬でございます」
私は紅茶を一口飲んだ。
「ずいぶん忙しい騎士なのですね」
「……はい」
「ところで、ほかの近衛騎士の方々も、同じように勤務されているのですか?」
執事は黙った。
その沈黙だけで十分だった。
◇
結婚して一か月。
私は夫と夕食を共にした回数を数えてみた。
二回だった。
その二回も、王女殿下から急な呼び出しがあって途中で退席している。
そして三度目の夕食の機会が訪れた。
「今夜は王女殿下の誕生祝いだ。帰宅は遅くなる」
夫は出発前、当然のように告げた。
「お祝いでしたら、私もご挨拶に伺ったほうがよろしいでしょうか」
「必要ない。殿下は親しい者だけで祝われる」
「近衛騎士は親しい者に含まれるのですね」
「当然だ」
「その妻は含まれないのですね」
「君は殿下と面識がないだろう」
私は思わず笑いそうになった。
王女殿下は夫を毎日のように呼び出しているが、その妻である私には一度も会おうとしていない。
「では、行ってらっしゃいませ」
「……君は本当に何も言わないのだな」
「何をでしょう?」
「普通の妻なら、少しは夫の不在を寂しがるものだろう」
私は首を傾げた。
「愛情を期待するなとおっしゃったのは、あなたでは?」
夫は不機嫌そうに顔をしかめた。
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味でしょうか」
「もういい!」
夫は足早に出ていった。
私はその背中を見送り、執事に声をかけた。
「婚姻契約書を用意してください。離縁の条件を確認したいのです」
夫が王女殿下に忠誠を誓うのは自由だ。
けれど、私までその忠誠に付き合う義務はない。
◇
転機は、王宮の園遊会だった。
夫の妻として、私は初めて王女殿下に正式に挨拶する機会を得た。
「あなたがあの方の奥様なのね」
王女殿下は美しい笑顔を浮かべた。
「はい。お初にお目にかかります」
「いつも彼を借りてしまってごめんなさいね。でも、彼がいないと落ち着かないの」
「そうでございますか」
「彼は私のためなら、どんな危険にも飛び込んでくれるのよ」
王女殿下は隣に立つ夫を見上げた。
夫もまた、誇らしげに微笑んでいる。
「殿下をお守りすることこそ、私の生涯の使命です」
「まあ、頼もしいこと」
私は二人を眺めた。
王女殿下は夫の腕に自然に手を添えている。
夫もそれを拒まない。
周囲の貴族たちは、見事なほど何も言わなかった。
ただ、視線だけが雄弁だった。
私はそこで、一つ質問した。
「殿下。失礼ながら、夫は勤務時間外も殿下にお仕えしているのでしょうか」
「ええ。もちろんよ」
「では、夜会や観劇への同行も、すべて公務なのですね」
「そうよ。彼は私の騎士ですもの」
「承知いたしました」
私は丁寧に頭を下げた。
「それでしたら、今後は王宮の正式な勤務記録に基づいて、夫の不在を管理させていただきます」
王女殿下の笑顔が、ほんの少し固まった。
「……勤務記録?」
「はい。公務でしたら、当然記録がございますでしょう?」
「そんな堅苦しいことをしなくても」
「いいえ。近衛騎士の勤務は国家の安全に関わります。公務と私的なお付き合いの区別は、明確にしておくべきかと存じます」
夫が険しい顔になった。
「君は何が言いたい」
「ただ、夫の仕事を正確に把握したいだけです」
私は微笑んだ。
「まさか、王女殿下とのご同行が公務ではない、などということはございませんでしょう?」
その場に奇妙な沈黙が落ちた。
そして、少し離れた場所から声がした。
「実にもっともな質問だな」
振り向くと、国王陛下が立っていた。
◇
国王陛下は、王女殿下を見た。
「昨夜、そこの騎士は何をしていた?」
「私の護衛ですわ」
「勤務命令書は?」
夫が答えた。
「近衛隊長が管理しております」
「では、隊長を呼べ」
しばらくして、近衛隊長が現れた。
「昨夜の勤務について説明せよ」
「王女殿下の特別警護でございます」
「特別警護を必要とした理由は?」
「王女殿下の安全確保のためでございます」
「具体的には?」
「……それは」
近衛隊長の言葉が止まった。
国王陛下は静かに言った。
「近衛の勤務報告には、王女の特別警護が毎日のように記載されている。私は以前から不自然に思っていた」
王女殿下の顔色が変わった。
「だが、隊長は毎回、警備上の必要があると報告していた。私は専門の責任者を信頼していたのだ」
国王陛下は近衛隊長を見据えた。
「ところが今、王女本人が、観劇も茶会も私的な外出も、すべてこの騎士に同行させていたと認めた」
「陛下、誤解でございます!」
「ならば、誤解を解こう」
国王陛下は侍従に命じた。
「王宮監察官を呼べ。近衛隊の勤務記録と、王女の側近たちが提出した報告書を、すべて調査させる」
「お父様!」
王女殿下が叫んだ。
「そこまでする必要はありませんわ!」
「必要がないかどうかは、調べてから判断する」
国王陛下の声は冷たかった。
「それとも、調べられて困ることがあるのか?」
王女殿下は答えなかった。
◇
調査の結果が出るまで、十日もかからなかった。
そして、その内容は私の想像をはるかに超えていた。
夫は王女殿下の私的な呼び出しに応じ、勤務時間外も長時間にわたって同行していた。
だが、近衛隊長はそれらを正式な警護任務として記録し、夫の勤務実績に加算していた。
さらに、王女殿下の側近たちは、王女の私的な外出を公務として報告していた。
観劇は「外交関係者との交流」。
乗馬は「警備経路の視察」。
茶会は「王族の公的会合」。
そして、王女殿下の私室で二人きりで過ごした夜は「緊急警護」。
私は報告を聞いて、思わず尋ねた。
「……王女殿下の寝室で、どのような緊急事態が発生したのでしょう?」
説明に来ていた監察官は、ひどく困った顔をした。
「それが、何も発生しておりません」
「そうですか」
「しかも、近衛隊長は虚偽の勤務実績を根拠に、旦那様の昇進を推薦しておりました」
「まあ」
「王女殿下も、その推薦を強く後押しされていたようです」
私は紅茶を置いた。
「つまり、王女殿下と親しく過ごした時間が、騎士としての功績になっていたのですね」
「……その通りでございます」
なんとも便利な出世方法である。
◇
国王陛下は、王女殿下と関係者を王宮の大広間に召集した。
私も、夫の妻として立ち会いを求められた。
「調査の結果、近衛隊において組織的な虚偽報告が行われていたことが判明した」
国王陛下の言葉が響いた。
「近衛隊長は王女の私的な行動を公務として処理し、勤務記録を偽装した。王女の側近たちは虚偽の報告書を作成し、国王への報告を欺いた」
近衛隊長は床に膝をついた。
「陛下! すべては王女殿下のご意向で!」
「お前は近衛隊長だ」
国王陛下は言い放った。
「王女の機嫌を取るために、国家の警備組織を私物化してよい立場ではない」
「ですが、殿下のご命令に逆らうことなど!」
「ならば、私に報告すべきだった」
近衛隊長は何も言えなくなった。
「お前は隊長の地位を剥奪する。階級を降格し、国境警備隊へ異動を命じる。今後、指揮権を持つことは認めぬ」
近衛隊長の顔から血の気が引いた。
王宮の近衛隊長から、国境の下級警備兵へ。
その落差は、誰の目にも明らかだった。
続いて、王女殿下の側近たちにも処分が下された。
虚偽報告に関与した者は、鞭打ちのうえで王宮から追放。
再び王宮に仕えることも禁じられた。
そして、夫の番になった。
「お前は近衛騎士としての勤務を偽装し、不正な昇進を受けた」
「陛下! 私はただ、殿下への忠誠を!」
「忠誠?」
国王陛下の声が低くなった。
「近衛騎士が守るべきものは、王族個人の機嫌ではない。王家の安全と秩序だ」
「ですが、殿下は私を必要とされて!」
「だから何だ?」
国王陛下は冷たく言い放った。
「お前がいなければ王女の警護が成立しないというなら、近衛隊の組織そのものに問題がある」
夫は何も言えなかった。
「お前の騎士身分を剥奪する。以後、王宮への出入りを禁ずる」
夫はその場に崩れ落ちた。
そして最後に、国王陛下は王女殿下を見た。
「お前は、王族としての公的権限をすべて失う」
「お父様!」
「近衛隊の人事への関与、私的な護衛の指名、王宮の予算の使用。すべて禁止する」
「そんな! 私は王女ですわ!」
「だからこそ、責任がある」
国王陛下は厳しく告げた。
「お前は王族の立場を利用し、国家の組織を私物化した。しかも、私を欺くために側近たちを巻き込んだ」
「私は……ただ、信頼できる騎士をそばに置きたかっただけですわ!」
「ならば、なぜ既婚の騎士一人に固執した?」
王女殿下は答えられなかった。
「ほかの騎士では駄目だったのか?」
沈黙。
「それとも、そこの男でなければならない理由があったのか?」
王女殿下は唇を噛んだ。
夫が叫んだ。
「陛下! 私と殿下の間に、不適切な関係などございません!」
「不貞を働いたかどうかなど、もはや問題ではない」
国王陛下は言い放った。
「お前たちは私を欺き、王宮の警備を私物化し、国家の職務を偽装したのだ」
大広間は静まり返った。
国王陛下はそこで、私に目を向けた。
「夫人。そなたからも申し立てがあると聞いている」
「はい。夫との離縁を希望しております」
夫が勢いよく顔を上げた。
「何だと!?」
「婚姻以来、夫は王女殿下への私的な奉仕を優先し、家庭を顧みませんでした。婚姻契約に定められた義務も果たしておりません」
「私は生活費を渡していた!」
「それは契約で定められた家政費です。私が求めているのは、契約違反に基づく離縁でございます」
国王陛下は監察官に確認した。
「婚姻契約と勤務記録は?」
「確認済みでございます。夫人の申し立てには正当な理由がございます」
「ならば認める。持参金は全額返還させよ」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
夫が叫んだ。
「陛下! 私は離縁に同意しておりません!」
国王陛下は夫を見た。
「お前は妻に愛情を与えず、家庭にも帰らず、王女に生涯を捧げると言っていたそうだな」
「そ、それは!」
「望みどおりになったではないか」
夫は口を開けたまま固まった。
「夫という立場から解放してやる。これで心置きなく王女への忠誠を貫けるだろう」
私は思わず微笑んだ。
実にありがたい裁定だった。
◇
それから数日後。
私は王宮から届いた知らせを読んでいた。
隣国の王弟殿下が、王女殿下との婚約を正式に破棄したという。
理由は、王女殿下と元夫の関係だった。
不貞の証拠があったわけではない。
しかし、既婚騎士を私的に独占し、王宮の勤務記録まで偽装させていた王女を、王弟妃として迎えることはできない。
その知らせを受けた国王陛下は、しばらく黙っていたそうだ。
そして、こう言ったという。
「当然だな」
国王陛下は報告書を机に置いた。
「では、この損失をあの馬鹿に埋めさせるか」
それから数日後。
南方の砂漠王国との、新しい婚姻交渉が始まった。
砂漠王国は、以前から我が国との交易拡大を望んでいた。
国王陛下は、交易条件を整える代わりに、王女殿下を砂漠王国の王へ嫁がせることを提案した。
ただし、正妃ではない。
すでに多くの妃を持つ王の、側室の一人としてである。
交渉は驚くほど早くまとまった。
砂漠王国は望んでいた交易協定を得た。
我が国は、隣国との婚約破棄によって失った外交上の利益を、別の形で補うことができた。
そして王女殿下は、遠い異国へ嫁ぐことになった。
「私は王女よ! なぜ側室にならなければならないの!」
王女殿下は激しく反発したという。
しかし、国王陛下の答えは簡潔だった。
「お前は王弟の正妃となる機会を、自ら失ったのだ」
「お父様! 私はあんな国へ行きたくありません!」
「そうか」
国王陛下は頷いた。
「では、王弟との婚約を破談にした責任を、ほかにどう取るつもりだ?」
王女殿下は答えられなかった。
「王族としての義務を果たせなかった者が、王族としての待遇だけを要求するな」
それで話は終わった。
◇
王女殿下の出発が近づくにつれ、元夫の噂も耳に入るようになった。
騎士身分を剥奪された彼は、王宮への出入りを禁じられていた。
それでも、王女殿下への忠誠だけは変わらないと主張し続けていたらしい。
何度も王宮を訪ね、面会を求めては追い返されていたという。
一方の王女殿下は、元夫との関係を否定することに必死だった。
『あの男が勝手に私を慕っていただけです』
『私は騎士として信頼していただけです』
そう主張しているらしい。
私はその話を聞いて、少し驚いた。
生涯の忠誠を誓った相手から、ずいぶん簡単に切り捨てられたものだ。
もっとも、すでに離縁した私には関係のない話だった。
◇
王女殿下が砂漠王国へ出発する日。
私は買い物の帰りに、王宮近くの広場を通りかかった。
「殿下! 私もお連れください!」
馬車の前で叫んでいたのは、元夫だった。
「私はあなたに生涯の忠誠を誓ったのです!」
王女殿下は馬車の窓から顔を出した。
「やめてちょうだい! あなたのせいで私は王弟妃になれなかったのよ!」
「ですが、殿下! 私たちは互いに信頼し合っていたではありませんか!」
「必要だったのは、私の言うことを聞く近衛騎士よ! 騎士でもなくなったあなたに、何の用があるというの!」
元夫は呆然とした。
「……私は、あなたのために妻も地位も失ったのですよ?」
「私だって、あなたのせいで地位も婚約者も失ったわ!」
王女殿下は吐き捨てた。
「そもそも、側室になる私があなたを連れていったら、愛人を連れ込んだと思われるでしょう!」
「愛人ではありません! 私は殿下の騎士です!」
「だから、もう騎士ではないでしょう!」
王女殿下は馬車の窓を閉めた。
「……では、私は何のために……」
元夫の声が震えた。
「妻を捨て、騎士の誇りまで失って……私は、何のために……!」
彼はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。
やがて馬車が動き出す。
元夫は顔を上げたが、もう呼び止めることさえできなかった。
最後まで二人は、自分たちが周囲からどう見られていたのか、理解できなかったらしい。
私はその姿を横目に、帰路についた。
◇
その日の夕方。
私は久しぶりに、実家の食卓を囲んでいた。
「おかわりは?」
母がスープ鍋を持ち上げる。
「いただきます」
「遠慮しなくていいのよ。あなたの好きなものばかり作ったんだから」
父は焼きたてのパンを私の皿に載せた。
「しばらく泊まっていけばいい。部屋はそのままにしてある」
「お父様、私、もう子供ではありませんよ?」
「知っているとも。だから、帰ってこいとは言わなかったんだ」
父は少し照れくさそうに笑った。
「ただ、いつ帰ってきてもいいんだぞ」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
結婚していた頃、夫と夕食を共にできたのは二回だけ。
その二回も、途中で王女殿下に呼び出されて終わってしまった。
けれど、今は違う。
「明日は三人で出かけましょうか」
私がそう言うと、母が嬉しそうに笑った。
「まあ、どこへ?」
「どこでも。お父様とお母様と一緒なら」
父が咳払いをして、母が笑う。
私もつられて笑った。
食卓には温かいスープと、三人分の笑い声。
今夜の夕食は、いつまでも続いてほしいと思った。




