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境界の地図師  作者: あお
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05.モノクロームの晩餐

狂ったようにねじれ、物理法則すらも裏切り続けた螺旋の地形。その座標を自らの「色彩」という対価で強引に繋ぎ留め、背後に置き去りにしてから数時間が経った。


エルム、シオン、そして案内人のロキの三人が逃げ込んだのは、地殻変動シフトの余波が届かない、岩山の狭間にひっそりと口を開けた洞窟だった。そこは世界の流動性から切り離された、束の間の「静止」が許された場所だ。


洞窟の外は、おそらく夕暮れ時なのだろう。

あの迷宮を突破するために支払った視覚の代償は残酷だった。かつて師匠と眺めた燃えるような茜空も、地平線を縁取る深い群青も、今のエルムの瞳には、明度の異なる「重苦しい灰色の層」としてしか映らない。


「……シオン。空は、今どんな色をしてる?」


エルムは岩壁に背を預け、震える声で問いかけた。色彩を失ったことは、単に色が消えただけではなかった。「美しい」という感情のフックが、視覚から根こそぎ引き抜かれたような、底知れぬ孤独感が彼を苛んでいた。


シオンは洞窟の入り口に立ち、外の世界をその銀色の瞳に映していた。

「回答。……現時刻、大気中の散乱角の影響により、空は波長620ナノメートル前後の『赤色』に染まっています。人類が一般に『夕焼け』と定義する、光学的現象です」


「……赤、か。……そうだったね。……もう、思い出せないな」


エルムは力なく笑った。

赤。情熱、血、あるいは温もり。それらを示す記号としての知識は残っている。だが、その色が自分の心をどう震わせたのか、その「実感」だけが記憶の海から蒸発していた。


「おいおい、そんなお通夜みたいな顔すんなよ。地図師レコーダー様」


洞窟の奥で手際よく焚き火の準備を終えたロキが、ひょいと顔を出した。第4話でエルムの覚悟を見届け、目的地までの同行を買って出たこの案内人は、手にした古い水筒をエルムに放ってよこした。


「味もしなけりゃ色も見えない。不便極まりないだろうが、あんたがさっき引いた『光の道』のおかげで、俺たちは今、こうして命を繋いでる。……色彩一色分でこの三人の命が買えたんだ、安い買い物だったと思えよ」


「……ロキ。あんた、本当に厳しいな」


案内人ガイドってのは、客を甘やかさないのが信条でね。……特に、自分から地獄へ飛び込もうとする客にはさ」


ロキは焚き火に火を灯した。

エルムの目には、その炎もまた、ただの「明るい灰色の揺らめき」にしか見えなかった。



ロキは焚き火の熱を手のひらで受け止めながら、じっとシオンを見つめた。


「……で、お隣の美しい『保存機レコーダー』さんはどうだい? 自分の主人が、色を失う瞬間をどんな気分で記録したのかな?」


シオンはロキの挑発的な視線を受け流し、エルムの隣に静かに腰を下ろした。


「……個体名:ロキ。あなたの質問は不合理です。私は記録機であり、主観的な感情評価機能は搭載されていません。……ただ、管理者の欠損を、私の内部にあるデータで補完し、保全するだけです」


「ハッ、相変わらずの鉄面皮だねぇ。だがシオン、あんたは『保存レコード』する側だ。主人が失った『赤色』のデータを、あんたは完璧に覚えている。でもさ、それをいくら精密な言葉でエルムに伝えたところで、彼の心に夕焼けの感動が戻ることはない。……あんたがやっているのは、中身の空っぽな宝石箱を磨き続けているようなものだぜ?」


シオンの指先が、微かに、本当に微かに震えた。

第1話から第3話を経て、エルムが何かを失うたびに、彼女の論理回路には原因不明の「ノイズ」が蓄積されていた。主人が失った情報を代わりに持つこと。それは地図師のシステムとしては正解だが、その「情報の欠落」自体がエルムという個体を変質させていくことに、彼女は自覚のない恐怖を抱き始めていた。


エルムは鞄から、乾いたパンの塊を取り出した。

味もしない。匂いもない。

色さえも奪われた今のエルムにとって、食事はただの「エネルギー補給」という冷徹な作業に過ぎない。


「……シオン。ロキ。……もし、僕が自分の目的さえ忘れて、ただの空っぽなペン先になったとしても。……その時は、二人が僕を導いてくれるか?」


エルムの灰色の瞳には、迷いではなく、ただ「目的地に辿り着かなければならない」という、燃え残った使命感だけが宿っていた。


「……約束します。管理者エルム」

シオンが、いつものように、しかしどこか必死さを孕んだ響きを込めて答えた。

「あなたが何を失おうとも、私があなたを記録し続けます。……あなたが『あなた』であることを止めても、私があなたの代わりに、あなたの人生を定義し、あなたという存在の証明者であり続けます」


「……ま、俺もそのつもりだよ。あんたが最後に何を『書き込む』のか。それを特等席で見届けるのが、俺が案内人ガイドを引き受けた理由だからな」


ロキは焚き火に薪をくべ、その炎を直視した。

第4話で彼がエルムに同行を決めたのは、単なる気まぐれではない。

世界を固定し、静止させようとする『聖団』。そして、何もかもを失いながら「書き換える」ことで世界を維持しようとするエルム。

ロキは、この少年の先にある「未完の結末」に、何らかの希望を――あるいは、この停滞した世界を終わらせるための「一線」を期待していた。




色のない世界。音の欠けた夜。

それでも、隣に座るシオンの硬質な温度と、ロキが焚べる火が放つ、目には見えないはずの「熱量」だけは、不思議と鮮明に感じられた。


エルムは、白地図を広げた。

そこには、これまでに彼が「自分」を切り取って世界に貼り付けてきた、眩いばかりの記録が刻まれている。

彼が記憶を、感覚を失えば失うほど、地図は彩りを増し、世界は形を取り戻していく。


「……きれいな、はずなんだ。この地図は」


エルムは、色を失った指先で白地図をなぞる。

「母さんのスープの味も、風の声も、師匠の声も。……そして、さっき失った螺旋の色彩も。全部この地図の中に、形を変えて残ってる。……なら、僕が空っぽになることは、決して無駄じゃないんだ」


「……その意気だよ、地図師様。あんたのその、不器用で、どうしようもなく人間臭い『喪失』こそが、この灰色の世界を塗り替える唯一のインクだ」


ロキは立ち上がり、暗い洞窟の先、明日進むべき道を見据えた。

「さあ、晩餐は終わりだ。……明日は、聖なる秩序の名の下に世界を凍らせようとする、お堅い騎士様たちの領域を通る。……心の準備はいいかい?」


エルムも立ち上がる。

五感を削り、感情の機微さえも魔法の燃料に変えながら、少年は進む。

地図師が世界を書き込み、自動人形が人生を保存し、案内人がその滅びと再生の軌跡を導く。


一歩進むたびに何かが欠けていく旅路は、静かに、しかし確実に、世界の心臓部へと迫っていた。

洞窟の外には、色のない、けれど確かに明日へと続く夜風が吹いていた。

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