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境界の地図師  作者: あお
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03.オレスの穀倉地帯、停滞する豊穣

 風の音が消えた世界。

 視覚的には麦の穂がざわめいているのに、エルムの耳には不自然な静寂だけが横たわっている。数日前に「雨上がりの土の匂い」さえも失い、世界の奥行きがまた一つ削り取られた違和感を抱えたまま、二人は広大な黄金色の海――『オレスの穀倉地帯』へと足を踏み入れた。


 そこは、アムネ・テラにおいて「奇跡の地」と呼ばれていた。

 周囲の土地が激しいシフトで形を変え続ける中、この一帯だけは三十年もの間、一度も地形が変わることなく、豊かな実りをもたらし続けている。


「……個体名:エルム。空間安定指数の異常な高値を計測。……この領域の座標は、自然な状態ではありません。極めて強力な、そして『古い』術式によって、空間そのものが凍結されています」


 シオンの瞳が、黄金の海をスキャンするように青く明滅する。


 エルムは、腰の高さまである麦穂に触れた。指先に伝わる乾燥した感触。だが、風が麦を揺らす「サラサラ」という音は、彼の記憶からは既に失われている。

 ここには、彼が日々行っているような、崩れゆく土地を縫い留める「微調整」の必要さえ感じられないほどの、完璧な静止があった。


「……信じられない。こんな場所が本当にあるなんて。ここなら、誰も何も失わずに済むんじゃないか?」


 エルムが淡い期待を口にしたその時、村の中心部にある広場で、一人の老人が声を上げた。この地の長、バルトだ。彼はエルムが携える『白地図』と、左手の『聖印』を見るなり、吐き捨てるように言った。


「……また、新しい地図師レコーダーが来たか。よせ、若者。この地には、もうお前のペンが入る余地などない」


「どういう意味ですか? ここは、これほど豊かで、安全なのに」


 バルトは力なく首を振ると、広場の端にある古びた石碑を指差した。

「このオレスは、三十年前、一人の地図師が自らの『命のすべて』を楔にして固定した場所だ。……だがな、若者。止まった水が腐るように、止まった大地もまた、病んでいくのだよ」


 エルムは周囲を見渡した。

 確かに麦は実っている。しかし、農民たちの表情はどこか虚ろで、時間は泥のように緩慢に流れている。家々は修繕された跡もなく、ただ古びていく。「固定」された場所では、新しい変化も、新しい成長も、緩やかに拒絶されていく。それが、地図師がもたらす救済の、もう一つの顔だった。




 その夜、事態は急変した。

「警告。領域外縁部より、大規模な空間剥離を検知。……三十年前の術式が、限界リミットを迎えています」


 シオンの冷徹な声が響くと同時に、黄金の空がガラスのようにひび割れた。

 オレスを囲んでいた見えない壁が、ついに世界の流動性に耐えきれなくなったのだ。大地が激しく震え、黄金の麦が次々と土の口に飲み込まれていく。


「いかん……! 村が、みんなが消えてしまう!」

 バルトが叫ぶ。農民たちは、あまりの恐怖に動くことさえできない。


 エルムはペンを握りしめた。

 この地が「停滞」という病を抱えていたとしても、今ここで消えていい理由にはならない。


「シオン! 座標の再計算を! 僕は、この村をもう一度……!」


「拒絶します。個体名:エルム。……現在のあなたの魔力残量で、この広域を再固定すれば、あなたのアイデンティティに関わる深層アーカイブを焼失する可能性が高い。……それは、私の記録対象あなたの変質を意味します」


 シオンがエルムの手首を掴む。その力は、これまでにないほど強かった。


「離せ、シオン! 僕は書き込む(レコード)のが仕事だ! 目の前の光景を『無かったこと』になんてさせない!」


「……不合理です」


 シオンは短く呟くと、掴んでいた手を離した。

「了解。……演算リソースの半分を、管理者の精神保護に割当。……代価の回収を承認。……エルム、描いてください。あなたの『芯』を削り、この停滞を再び繋ぎ止めるための、新しい線を」



 エルムは聖印を輝かせ、白地図に渾身の一線を引いた。

 脳裏を、これまでにない激痛が駆け抜ける。

 大切な何かが、ゴソリと音を立てて剥がれ落ちる感覚。

 今回燃やされるのは、「味」や「匂い」のような感覚ではない。もっと、彼の魂を支えてきた、地図師としての根幹に関わる記憶。


「魂刻――『豊穣の揺りクレイドル』!」


 黄金の光がオレスを包み込み、崩壊しかけた空間を力技で縫い留めた。

 咆哮を上げていた大地が、ふっと沈黙する。

 村は救われた。黄金の海は、再び静止した。


「……はぁ、はぁ……っ」


 エルムは膝をつき、激しく喘いだ。

 頭の中が、不自然なほどに「静か」だった。

 正確には、記憶の奥底でいつも自分を導いてくれていた「あの音」が、消えていた。


「……シオン。……僕は、何を忘れた?」


 問いかけるエルムの声に、シオンはいつものように、しかしどこか「間」を置いて答えた。


「回答。……個体名:エルム。あなたは今、**『自分を導いてくれた師匠の声』**に関する全音響アーカイブを消失しました」


「……え?」


 エルムは、記憶の引き出しを必死に探った。

 師匠の顔は思い出せる。彼が授けてくれた地図師としての心得も、厳しい修行の日々も、映像や言葉テキストとしては理解できる。

 だが、その言葉がどんな響きで自分を包んでいたのか。自分を叱る時の、あの低く震える声。自分を褒める時の、あの僅かに弾むような温かな声。どれほど思い出そうとしても、脳内で再生されるのは、シオンのような無機質な合成音か、あるいは音のない字幕のような情報だけだった。


「……あぁ、そうか。もう、あの声で『よくやった』って、言ってもらうこともできないんだな」


 エルムは、溢れそうになる涙を堪えるように笑った。

 自分の人生を肯定してくれた唯一の「響き」を燃やして、彼は見知らぬ他人の土地を固定した。


「……管理者エルム。……あなたは、私を連れて行くことを後悔していますか?」

 シオンの問いに、エルムは首を振った。


「いいえ。……僕が忘れても、君のデータには残ってるんだろ? 君が保存レコードしている限り、師匠の声は、この世界から消えてはいない。……そうだろう?」


「肯定。私の内部には、師匠と呼ばれた個体の声紋データが完全に保存されています。……私がいる限り、それは失われません」


「なら、いい。……行こう、シオン。次の場所へ」


 エルムは立ち上がり、救ったはずの村の人々に背を向けた。

 感謝の声を上げる農民たちの声も、今の彼には虚しい空耳のようにしか聞こえない。

 師匠の声という、自分を繋ぎ止めていた最強の「楔」を失い、少年はさらに深く、白地図の深淵へと足を踏み入れていく。


 その先に待ち受けるのは、色彩さえも奪い去る、絶望の螺旋回廊であった。

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