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境界の地図師  作者: あお
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01.境界の地図師

 世界がその形を保つのをやめ、泥のようにうねり始めてから、もう五百年が経つ。


 地殻変動シフト――。

 この惑星アムネ・テラが抱える、絶対的な物理法則。大地は生き物のように蠢き、昨日までの正解を無慈悲に塗り潰していく。家も、畑も、そこに住む人々の思い出も、シフトの奔流に飲み込まれれば、座標ごと虚無へと散り散りになってしまう。


 そんな狂った世界において、唯一、不変のくさびを打ち込める存在がいる。

 人々は敬意と、それ以上の哀れみを込めて、彼らをこう呼んだ。


 ――地図師レコーダー


「……東側、第三境界線の空間安定指数、0.04パーセントの低下を確認。微細な『剥離』の予兆です」


 背後に立つ自動人形オートマタ、シオンの淡々とした報告が、リフェの街の静かな朝に響く。

 若き地図師エルムは、欠伸を噛み殺しながら、真鍮製のペンと古い白地図を取り出した。


 エルムがこのリフェの街に腰を落ち着けてから、三ヶ月が過ぎようとしていた。彼のような流浪の地図師にとって、一つの場所にこれほど長く留まるのは珍しい。だが、リフェは彼が師匠から受け継いだ白地図に、自分の手で初めて「座標」を刻みつけた特別な場所だった。


 エルムは村の境界線に立ち、白地図の上にペン先を置いた。

魂刻こんこく――局所固定」


 微かな魔力がペン先から大地へと流れ込む。目には見えないが、エルムの感覚の中では、キャンバスの端に打ち込んだ画鋲がびょうを、指先でギュッと押し込むような手応えがあった。

 空間が小さく軋み、歪みかけていた空気の陽炎がスッと収まる。


 これが地図師の日常だ。

 大規模なシフトが来る前から、彼らは世界が「ほころび」を見せるたびに、自分の魂を削って作ったインクを注ぎ込み、一針ずつ世界を縫い留めている。それは華やかな英雄譚などではなく、穴の空いたバケツで水を汲み続けるような、果てしない維持作業メンテナンスだった。


「調整、完了。……個体名:エルム。累計の魔力消費量が規定値を超えつつあります。休息を推奨します」


「……わかってるよ、シオン。でも、ここの連中はいい人たちばかりなんだ。僕がいなくなったら、次のシフトでこの村は確実に消える」


 エルムは、村の子供たちが広場で笑いながら走り回る姿を見た。彼らは自分たちの足元の大地が、一人の少年の細いペン先によって辛うじて繋ぎ止められていることなど、知る由もない。


 だが、その平穏は唐突に終わりを告げた。

 正午過ぎ。空が禍々しい紫色に染まり、太陽の輪郭が歪み始めた。



「……空間安定指数、急落。計測不能。……大規模な広域シフトが発生します。臨界点まで、残り四十二秒」


 シオンの声に、これまでにない警告のノイズが混じる。地面が獣の咆哮のような地鳴りを上げ、生き物のように大きく波打ち始めた。


「嘘だろ……。朝、微調整したばかりなのに!」


「否定。今回の変動は外部からの『連鎖剥離』によるものです。……リフェの街全体が、現在の座標から完全に剥離。予測される消失確率は、99.8パーセント」


 村の家々が陽炎のように揺らめき、空間がガラスのようにひび割れる。

 エルムの目の前で、先ほどまで笑っていた子供たちが、空間の裂け目に飲み込まれようとしていた。


「させるもんか……。ここは、僕の場所だ!」


 エルムは左手の甲にある、燃えるような紅い紋章――『聖印』を天に掲げた。

 これまでの微調整とは次元が違う。村という巨大な「質量」を、荒れ狂う世界の奔流から強引に引き戻し、再び固定しなければならない。


「全アーカイブ、解放! 魂刻――座標、完全固定ッ!」


 エルムの叫びと共に、白地図から溢れ出した青白い光の奔流が、村全体を包み込んだ。

 全身の血液が沸騰し、脳髄を直接針で刺されるような激痛が走る。地図師が魔法を行使する時、彼らは自らの脳内に蓄積された「過去の記憶」を、高純度の魔力燃料として強制的に燃焼させるのだ。


 光の鎖が虚空から現れ、崩れようとする大地を強引に縫い留めていく。空間の歪みが軋んだ音を立てて静止し、荒れ狂っていた風が嘘のように凪いだ。


「固定……成功。……リフェの街、座標の確定を確認しました」


 シオンの声が、静まり返った広場に響く。

 だが、それと同時にエルムの意識は深い闇へと沈み込んだ。

 脳の奥底で、何かがパチンと弾け、砂のように崩れ去る音がした。




「……ここは?」


 エルムが意識を取り戻した時、彼はシオンの膝に頭を乗せていた。

 夜の帳が下りた村は、静寂に包まれている。


「目が覚めましたか、エルム」


 シオンが無機質な瞳で彼を覗き込む。

 エルムは起き上がろうとして、酷い眩暈に襲われた。頭の中が、まるで一部のページが破り取られた本のように、妙に軽く、空々しい。


「シオン……。僕は、何を捨てた?」


 地図師にとって、それは生存確認と同じくらい重要な問いだ。

 世界に形を与えるたび、地図師は自分自身を構成する「形」を失っていく。昨日の夕餉の味、幼い頃に見た空の色、そして、愛する者の名前。


 シオンは僅かに間を置き、彼女の内部にある膨大な記録アーカイブを照合した。彼女は地図師の脳波と常に同期し、彼が「何を失ったか」を客観的に観測し、記録する役割を担っている。


「……個体名:エルム。今回の広域固定の代償として、一つのアーカイブを焼失しました。……それは、あなたの幼少期における**『母親が作ってくれたスープの味』**に関する全感覚データです」


「……あぁ」


 エルムは乾いた笑い声を漏らした。

 試しに、今朝の出来事を思い出そうとする。確かに、シオンと一緒にパンを食べた光景は思い出せる。だが、それを口にした時の満足感も、パンの香ばしさも、記憶の引き出しの中には何も残っていない。


 さらに奥の、幼い頃の記憶に手を伸ばす。

 優しく微笑む母の顔は思い出せる。彼女が台所で鍋をかき混ぜる音も聞こえる。

 だが、そのスープがどんなに温かく、自分を力づけてくれたのか――その「核心」となる感覚だけが、綺麗に削ぎ落とされていた。


「もう……思い出せないんだな。母さんの料理が、あんなに好きだったのに」


「はい。あなたの味覚中枢における『母のスープ』の定義は、現時刻を以て抹消されました。記録、完了しています」



 エルムは、自分の左手を見つめた。

 人々を救い、世界に形を与えるたびに、自分という人間が薄まっていく。


「……皮肉だね、シオン。君は機械なのに、僕が忘れたものを全部覚えている。……君も、僕と同じ『記録機レコーダー』なのにね」


「私は『保存アーカイブ』するレコーダーです。対して、あなたは白紙の世界に『書き込む(レコード)』レコーダー。役割が違います」


 シオンの答えはどこまでも論理的で、冷たかった。

 エルムはふらつく足取りで立ち上がった。広場では、命を救われた住民たちが、地図師への感謝と畏怖の念を込めて、祈りを捧げている。だが、エルムは彼らの輪に加わることはなかった。


 彼が求めているのは、感謝の言葉ではない。

 かつて師匠が最期に語った、おとぎ話のような場所。


「行こう、シオン。……この白地図が全部埋まった時に、僕の中に何が残っているか、確かめに行かなきゃならない」


 すべての地殻変動が収まり、誰もが何も失わずに済む場所。

 世界のどこかにあると言われる、固定された楽園――『約束のオリジン』。


「了解。方位磁盤、起動。……次なる目的地を検索中」


 月の光に照らされて、真っ白な地図が夜風に翻る。

 そこには今、エルムの人生と引き換えに刻まれた「リフェの街」という一点だけが、誇らしげに、そして残酷に輝いていた。


 少年の心から「味」が消え、人形の記録に「痛み」が蓄積されていく。

 すべてを忘れていく少年と、すべてを記録する人形。

 二人の、世界の果てを目指す旅が、ここから始まる。

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