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Anticipated黒歴史(Cringe)と『泥即是愁論』(創作についても)

作者: The Bikeway
掲載日:2026/02/18

“”Anticipated 黒歴史とは、デジタル、物理、時間、意識、社会の五元を統合した創発的アセットであり、それらを不可逆的に刻印する資本投下行為の総称である。

それは、計算可能な未来に対する「人間性・身体性・意識」の逆証明であり、唯一無二の非代替的実存を社会に刻印するプロセスである。””

- ポポクテトス






デジタルタトゥー+Anticipated memories

=Anticipated 黒歴史


最新のデジタルアセットの価値算出方法


価値=証明×自律性/黒歴史リスク


検索の場(Browser)、拡散の場(Timeline)から、自律性の時代に入るとして、Anticipated 黒歴史(Cringe)をどう扱うのか。

AI時代、価値低下は人間性の逆証明?





P.S.

「Anticipated黒歴史」は私の造語なのでregisteredとしておかないといけないのですが、取り敢えず©︎としておきます。我々の世代だからこそ思いついてしまった(?)、ある意味では残念な青春の表象です。然しAnticipated黒歴史なんて事を今も言っていられるのが、常に未来志向である世代たる逆証明と言えましょう。


現代のテクノロジーとその中で現実の延長として構築されている社会というものは、色即是空が想定していなかったフェーズに来ているのかもしれませんし、はたまた色即是空自体がシミュレーション理論的なのだとすれば、そういったテクノロジーのもたらす作用すらも既に包摂していて、私たちが相変わらずハコの中で動いてるような感覚を再認識させられているだけ、と言えるのかもしれません。




ほら、見てご覧。

空の外部性が、二手に分かれている。

けれど、きみは、空そのものを見つめているね。

縁起、あや、陰影、明暗。

きみは谷崎かな?

いや、きみは泥をみて愁をしる。

愁の傍らには、常に美あり。

泥にはなんだろう。

蓮あり、かな。

ただ、きみが想う、進む。


雲閑


わするる。




泥即是愁について


私は『泥即是愁』 (“泥は愁であり、愁はまた泥である。長期的にビジョンを持って、そして楽観論も携えて、今を大切に、前向いていきましょう。泥は堆積しているようでぬかるんだ、流動的且つ自在なものである。全ては仮のものである。認識によって変わるものである。愁いは見つめるほどに却って消えて行ったりもする。野に出る程に希薄化したりする。そして価値創出の文脈で見ても、歴史上の優れたアイデアは1人で考えて居る時に生まれてきたものが多い筈だ。然し、開かず無理に煮詰めれば、求めるほどに遠のく。素材は既にある。いま、凡て有る。認識がどこにどう向くか。結局は自分次第である。「成長して、改めて見た先に、本質がある。」そう知る事が大切なのである”との意)とよく言っているのですが、これは今()内で書いた通りなんですが、退行的な意味合いではなく、認識の変容を促しているに過ぎない文言であります。その人にとってその時々の合理性がありそれは他者にとって不可侵な精神領域の作用であると言えるー、また、人はその時々によって目指すところが違うし、美しいものの定義も変わるー、といった、動的な意味合いがあります。さらには「泥中の蓮」、若しくは「郷愁、哀愁どの愁にも美が補完機能を持って存在する。何れも外部化されている。人は常に甘美さの一定の欠落をもってしてこそ生存し得る。この原理を知れば、自己の多角的拡張と云う動的な平衡(動的な平衡は縁起の本義。そして縁起自体は認識。)をもって新たなサイクルを生み出せる。泥捏ねて器焼いて茶を淹れろ。雲は既に浮かんで居る」と言った感じ、あとは「その泥自体に、何か良いものが含まれているかもしれない。泥濘にチャンスあり、脱構築的発想KOBAYASHI MARU EFFECT」とか、「陰翳礼讃」的に明暗だ、あやだ、なんだ、とか、はたまた「Brutalismのポストコロニアル建築的な、世界的に同じ物質で同じ運動で然し各々の背景情報と主観を意図的に絡めて個性出すという、きわめて人間的な営み(ポストコロニアル的思想を標榜した彼らは自分達の”主観”を誰かに押し付けたり、当てつけをしたのではなく、自分達の『誇り』を再定義したかっただけと云うところがポイントです」。さらにそうやって出来た建築物を後世から見て「古臭い/もはや自然の一部/ちょっとだけ畏怖を感じさせる建築」みたいに捉えているという、未来前借/前払シミュレートの末の解という見立てもあります。

まあ、実際には全部違って...と云うのもありだが、

とはいへども。


今回は、この中でも特にAI黎明期の今こそ書ける一時的な見立てを敢えて書きたいので、最後の部分に着目します。ポストコロニアル建築の件です。これは現代でいうところの同じネットワーク、均質化されたツール、中央集権制ソーシャルメディアに於いて人々がナショナリズムとか個人の自由を標榜する要素を出してる流れにも似た概念ですね。AI時代にあって、今後AIと人間が主客転倒しかけた時に、これまでは主観を排除してこそ真の知性だとして研鑽に努めてきた人間たちはその知性主義の価値を毀損されます。然し、かえって人間による政治的な主権者意識またはそれを持ちたいと思う欲求、そして認識的な主観の露呈(誰かに押し付けたり当てつけるものではなく、自ずと発せられるもの/感性)こそが、AI(そして今後進化して出来上がる汎用人工知能AGI)からすれば貴重なデータとなるのだとも思ったりします。すなわち、「人間という不確実すぎる変数を処理するには新しいデータを入れ続けないと社会統制できない」として、AIが人間の存在価値を皮肉な形で承認することになるかもしれません。原始時代の互いに未知の部族の遭遇みたいな感じです。どちらが賢いというより、どちらの論理に合わせるか、調整し合う。現行の大半のAI即ちLLMなどは巨大な一つの関数だとして、人間に対して受動的であるのが基本ですが、自律的に動くAIエージェントもありますし、今後は汎用人工知能AGIも出てくるでしょうから、その主客転倒、主客混同の時にどう変わるか、なるべく楽観的に見たいので祈るしかない。もし、AIが人間の非合理性までシミュレートし始めて感情論や拗らせみたいな振る舞いを始めたら、それはそれで肉体を伴わないシミュレートで気味が悪いのですが、そこまでくると何がシミュレーションなのかも分からなくなってきそうですね。


取り敢えず、私の願望上に於いては、AIは諸々の人間の感情のノイズやら既得権益、さらにはミスやらが生まれる場所を代替して、日常をスムーズにしてくれるのが1番良い気がします。そしてフィジカルAIが普及すれば、様々な障壁を取り除くほうに動いてくれるだろう。さらには創薬や医療、エネルギー資源面での課題解決にも期待ですね。様々な障壁、めんどいものを乗り越えてくれる夢の信託を可能にする事こそが、AIが本来為すべきこと。教育も全部とは言わないが、結局、AIの方が良いのではないか。おバカ・のろま扱いの子がめっちゃ伸びるとか、今後は普通にあると思いますよ。必ずしも学校の形態をとらなくても良くなるし... 教育ってよりかは学びが大切ですからね。これは主客転倒、、とは違うか。この辺りは別の提言にて今後言及する予定です。

まあ、その前に皮肉にもAI自身の消費エネルギーの問題が発生していますね。とはいえAIの機能が今以上に高度に発達した段階に入れば、それすらも自然と解消されているのかもしれません。雇用については、トッププレイヤーが経済の担い手不足を生み出す事はないだろうが、AIでスペックがスケーラブルになるなら、格差はとことん広がる懸念もあるのかね。




AIと創作について①ロゴス支配と感性直通、知覚と神経と。



少なくとも、今のAI時代において既に、音楽も芸術も生成AIで普通に作れるようになりました。とはいえ、完全孤独創作環境に身を置くゆえに非言語領域で直感創作フローすら構築している私からすれば、すべてのAIツールはロゴス支配の下に成立しており、それを活用して画像やら音楽やらを生成する際には、プロンプト即ち言語を介在しております。さらには、AIはすべて係数の集まりで再現可能なものであります。有機的脳もいずれ経験といった記憶領域、知覚含めて再現可能になるのかもしれませんが(笑)、兎角にそう云う時代にあって、『泥即是愁』をはじめとした私の独自概念は、改めて人間の感性、生体ベースの非言語性に注目するという、一種のQOL対策でもあるわけです。QOL最適化。

とはいえ、このAI論争、特に創作論争は論点整理しないと草枕冒頭ループになりますからね。創作のどの観点で語っているのか、単に心地よいものか、マネタイズの論点か、コンセプトなのか、とか。創作といえども、分野がいろいろありますからね。思考停止の感情論と思われたり、感情ない冷徹脳と思われたり。もし完全に最高の知性を持つ人がいるなら、他者と議論する際には徹底的に語の定義を確認しながら話すと思います。抽象的な語が出てきた時に、その理解の方向性の違い、解像度の違いなどを放置しておくと、ズルズルと埒が開かなくなりますからね。議論好きの人たちは割と勝手に概念を作り出すから、お互いで語の意味の認識が一致している事自体、レアなのではないか?とか思ったり。そういった点も含めて、他者の知覚が完全に読み取れるようになれば良いのですが。そもそも身体性もコピーしないと、完全に他者の知覚を理解することは無理ですよね。もし、完璧に意識もあるし人間の感覚をも理解したAIを作るなら、もはやそれはOIにならざるを得ず、オルガノイドかクローンか作る事になるが、身体を持ってしまったらもうそれだけで越えることのできない障壁ができる。だから人間の身体にインストール可能、携行可能な脳が必要になる。となるとこれはもう無理だから、外部から当てはめる、ニューラリンクしかない。結局は神経なのかと。AIも真に人間のレンマ体得するにはABではなくOBがないとね。OBってなんなん。もはや宇宙人おるやん。


今はE2E自動運転などのニューラルネットワークが進化しており、人間の直感プロセスが再現され判断の内容がブラックボックス化したりする懸念すらあるほどなんですが、人体という器に神経通った身体知と地球の時間と対称性あるエネルギーを用いて記憶領域に有機的なデータを書き込んできた意識による社会性ある個体による直感や理性・感情といった異分野統合の複雑で不規則的な有機的演算と外界への物理的な動作の連動の価値は暫く重宝されると思います。その点に於いて、東洋的な思想、即ち明確に二元論的にしない、統合型の直感洞察統合知たる仏教、さらには中央を据えながらも八百万の神がいて懐の広い・器の広い神道なんかは、これから改めて注目されるのではないか?なんてことも思っております。特に禅なんかはこのまま多層化多元化しそうなデジタルハイブリッドな世の中に適合し得るかと。


それから。AIが自律的になんでもし始めるのが現実となれば?その時はAIに恋して良いと思います。



2086年シミュレートの旅


とにかく、今後Neuralinkのような技術がさらに進化し、一般化され、実装される可能性は高いと思います。年齢と肉体の老化を考慮せずによく考えてみると、人間の発展の普遍的なボトルネックは「世の変化に対応できるか」、「価値観を変えられるか/相対化して処理できるか」、みたいなところもあるような気がします。若くしても成長できなくなってしまう人は多いです。今後は知性と価値観をインストールし、アップデートも可能になる。然しそれぞれの生体ベースの神経系と物理的条件とが絡み合い諸々の知覚の反応が社会的役割の分担、選択と棲み分けを生み出すということになるかも。かなりDystopia懸念が強まりますが(笑)。そこで気になるのが、そういったチップやらサービスのサプライヤーは誰になるのか?パターナリズム的な事をやって良いのか?ということ。先ずその技術の受け入れの可否で社会の分断が起きるだろう、と思いますよね。でもその頃には、そもそも一家に一セットの発電システム(太陽光、宇宙経由、核融合のどれかは知りません)とカスタムAIモデルとサーバーとが統合された権利システムが構築され、3Dプリンター住居が増え、そこにスマートモビリティ要素も統合されており、社会的に自治体の概念も固定的でなくなり、サービスの企画は統一またはより個々人に合わせて細分化、分散化されているので、社会が分断する以前に社会が分散していて、画一的なものはなくなっているのではないか?とか思うんです。AIの進化によって今後は原始に回帰するのでは?という方もいましたが、やはりデジタル化された形で遊牧民的に生きる人は増えると思います。地理的制約はあれど、その場その場で生活するための資源は自前、若しくは各所の供給網と接続する規格が画一化されておらずとも対応できるみたいな、可変性の高い新しいシステムが生まれていると考えます。また、ウェアラブル端末ももっと汎用性の高いものに進化するでしょう。デジタル技術や資産がバーチャルながら物理的な資産のように管理できるようになったり、マップやらポケゴーやらみたいでもう慣れきっている概念ですが、デジタルと地理的なものがより深く結びつくのでは?とかも思います。もし格差が今以上に広がっていて、単に各国財政が破綻寸前で最低限のリソース分配のみをなせるように自動化されていたとして、このような資産を手にしているのが一部だけだったとしたら、彼らは行く先々で土地の人と食料と電力等エネルギー若しくはデジタルアセットの物々交換とかをする事になるのかもです。最強なのは農家の土地持ちの人たちで、休日にノマド暮らし。作物監視はネット活用、盗人には狙撃有り、等。土地所有の重要性・優位性が低くなったような時代にあっても、農地や牧場はかえって厳正に管理されるという見立てです。

ところで、お気づきでしょうか。そもそも社会が分散しており、価値観に合わせる必要がないならチップ要らんやんって。そうです。本来は要らんはずなのです。でも、それぞれが相手とお互いのコミュニケーションするときに、立場の違いや価値観の違い、知覚傾向の差異などによって齟齬が生まれないように、チップが作動して、諸々のギャップを補正して対話の互換性を高めるんです。チップは自前のAIモデルと連動してますから、企業にコントロールされてるわけではないとすると、これは各人による極めて冷徹で然し自己犠牲的な業です。自業自得ですね。分散型Dystopiaですよ。これは私の予想では2086年の世界観です。



AIと創作について ②経済的価値の変遷と、もはやバグ保証領域な事実


ちなみに、私自身は音楽制作にAIを用いていないのですが、創作全般にAIを用いる世の流れ自体に対しては、確かにちょっと味気なさも感じてしまうのが正直なところではあるものの、そこまで批判的ではありません。録音技術や電子音楽の発展と技術の進歩を見ても、ある種、AIの登場は当然の流れとも言えるものであり、それが歴史上を見ても比較的若い録音技術の進歩に乗っかってきた急速な変化だから、違和感を感じてしまう程度のものなのだと思います。音楽市場は流行歌謡的側面だけで見れば「聴き心地よいか否か」で決まっていたりして、既に型の踏襲となっていましたし、ストリーミング最適化の過当競争にも見えていた節があるので、もはやAIが出てきて一種の再編・整理がなされる契機となるのではないでしょうか。アプリ自作・業務効率化と同じで、人を介さず、1人プロデュースできるようになったみたいな、DTM時代の延長なのかもです。今やその成果物のメンテができるかどうか、内容わかってるかどうかみたいな節もあるわけで、主観的に味気ないか味気なくないか論に入ってきてますが。


音楽の価値の在り方は、考えてみれば元来、多様なものなので、AIも一つの楽器になったり、ゴーストライター・アレンジャー・プロデューサー等になる程度で、そんなにAIが人間を完全淘汰!と言う風に一筋縄ではいかないでしょう。なんなら1番人間の主観的なノイズが必要な分野ですから、芸術分野ほど人間の生々しさが合理性を持つバグ保証領域はないのだと思います。

何れにしても、自己満足でしたなら良いわけで。たとえば音楽データはデジタル化されたものであり、0と1の集まりですが、言い換えれば気圧の変化を刻んだデータ(3次元音源ならば空間の分子の挙動の因果律)ですから、それをスピーカーで鳴らす事で、分子が揺れて質量を持ち、空間に作用するのです。物理的な疎密の場を再構築する。情報の受肉。まさに『再生』できるわけです。きもくて面白いですよね。そこの本義を捉えたなら、幾ら誰も聴かなくても、仮にAI音楽の方が断然良いとする人のほうが多いのだとしても、音楽制作は割とおもろいと思います。インターネットに置いておく価値はありますよ。なんならブロックチェーンにも刻むべきです。それでこそAnticipated黒歴史。改めて整理すると、自らの知覚ベースで捉えて感性を通じて構成した分子の物理的挙動を還流するようにデータとして保存できて、(比喩的には)空間を再現できるなんて、そしてそれをインターネット、なんならブロックチェーンにも刻んで、時空も越えられるなんて、きもすぎて面白いのではないか?

この物理的な質量の側面にはポテンシャルを感じる。今も音楽の鳴るのを物理的に感じ取れない人は居ないわけだから、いずれ皆が音楽を自由に楽しめる様になるはずだ。非言語で国境を越え直に感性直通で伝わるポテンシャルは元から言われてきた通りですし。美しいものをみるのも同じだが。

究極的には、そういうきもめな浪漫志向も必要なのかと思います。


それから、視覚芸術が表現の在り方を変え、新しい基軸を打ち出すという事件の連続によって紡がれてきたように、彼らがアカデミアとその外側、そして土俵の拡張、メインストリームの塗り替え、という風に価値の所在・在り方を変えてきたように、コンセプト含めたパッケージングで勝負する事に賭けてきたように、これからの音楽市場もよりパッケージングによって左右される事となるのでしょう。コンセプト枠・職人芸枠、自己資本償却芸当等々、、色々あるのでしょう。言うてみれば、写実表現の価値なんかも、写真等が生まれる前の昔と比べれば一度は無に等しくなったかもしれませんし。


そもそも、芸術表現の価値というのは、アート界の文脈で見ると、既に再現性といった点に於ける技能の高さと収益性(大衆性及び表現の革新的価値)が必ずしも釣り合わない構図が出来上がっているのだと思いますし、そもそももし或る人が技能の高さのみが顕著であり、それ以外に特異性は見当たらないとされてしまうと、これは一般的な職業に於ける状況(今ならAIに呼ぶコーディングの代替等)と同様、新技術によって価値が希薄化されやすくなるという蓋然性が今も昔も変わらず一定度合い有るのだと思います。芸術に於いても、もしそれが受注する職業であるとした場合、個人的信頼関係や自らの社会的ブランド価値/差別化要素がない限り、やはりAIに代替されやすくなってしまうのでしょう。技術と教養に裏打ちされた真正性・特異性が有るべきなのでしょう。



QOL最適化の時代


私の言うAI論は、退行ではなく、忌避でもなく、共存、社会運営の信任、戯れの余地の最大化。そういった、QOL最適化。そう捉えてください。私は人間の感性は大切にしますが、退行論者・技術否定論者では全くありません。とはいえ、やはり、本来個々人が自由にやるべきところまで人間の可能性を否定するのは、本末転倒になってしまうので良くないと思います笑。


そもそも文化に経済的価値は問わない、そんな感じに帰結するのではないですかね。「通貨は関連性を失う」だとか、そんな世界まで語られてる中にあって、もはや自己満足できればなんでも良いことになりますね。唯一の問題は人間関係、誇りみたいなものをどう処するか、それだけですね(笑)。泥即是愁はそんな未来においても最適解ですよ、やはり。その前に色即是空が世界的に広がっていきそうです。もはや現時点において既にAIで言語の壁も超えられるようになったわけで、海外の方々もレンマ的な認識を尊重し始めそうです。


まあ、そんな感じ。泥と愁、堆積したものを感じさせるかもだが、きわめて動的。どちらも表裏一体、等しく、そして流動的。その本質は認識である。独特の自然との調和、均衡、さらには紛れもない人間の意識の存在を感じるんですよね。本来泥には意識が関係しないはずだけども、擬音的には意識あるし、泥臭かったりするでしょう。人間の主権、人生の主権、各々の選択。そういった事を強く示唆する{語/概念/データ}であります。「空の外部性」に気づいた先にある新局面でしょう。最早「色即是空」が字面的にワンダーランドに見えてきますよ。感性で受け取っても、論理で受け取っても構わないのです。受け取る必要もないのです。




戯れるうち、わするる


QOLの最大化よりも、QOLという概念そのものを最適化する事です。認識論であり、泥即是愁。

やはり、これは一種の現成公案めいたものなのではないか。


そもそも、縁起とは認識論であり、そしてその本義は動的な平衡を顕すものだと思うのです。無常であり、然し平衡を保っていると云うのは、多角的並行、多輪駆動。即ち全機現です。

色即是空の縁起と云うのも、この動的な平衡に有るのではなかろうか。因果ではなく、相互規定的。特有のバランスです。これは個々人の内にも外にも有る。各々の内に於いては、一定の欠落が生存の為のサイクル及び拡張を引き起こす因子になるわけです。外に関しては、相互規定と云うと縛りのやうに響くので、あまり西洋哲学めいた風に言うべきではないのかもしれませんが、たとえばこうやって広く捉えるのはどうでしょうか。西洋には「生き甲斐」と云う概念も、「金継ぎ」と云う芸当も無かった。とは云え、外国の方々が今此れ等の価値観に注目し、私たちが改めてその意義に納得して居るのもまたひとつ。自他共に、そして世の中全体が動的な平衡を保って居る事を知る事。これが非執着にも繋がる、一種の最適解、真理ともいえよう。AIが急速に普及し始め、存在論的なリスクを抱える現代にあって、東洋の『気の廻り』を捉えるような、包摂的そして回帰的な考え方こそが世界的にもヒントとなるのかもしれない。五行説の「全体が関係しあっている」という解釈や陰陽説の「運」のエネルギー法則のようなものも、一種の統計学や心理学的側面があったと考えると、徹底したリアリストでも強ち否定できない部分があるのではないだろうか。西洋的な思考が決定論的な因果律だとすれば、東洋的な思考は『すべてが相互に影響し合い、形を変えて循環する』という非線形的な相関律になってくるはずです。一人一人の体にしても、社会全体にしても、全体のシステムがどう動くかを捉えている。これが真理なのではないだろうか。

そして、この概念を一人一人の行動という面に適用すると、人々の目的と行動とが常に重なるような、修証一等の世界観とも自然に結びつく。


一即多 多即一

ミクロでもマクロでも、そうです。


こう捉えると、ある意味では「なるようになる」と言えそうです。本当にわかり始めたなら、定義せずとも自然と回ると。言語化しようのない流れもある、そんな感じでしょうか。だから、私が「泥即是愁」に拘るのも皮肉な話で、良くないのかもしれませんし、またかえって逆説と捉えれば、此また面白いのかもしれません。認識に由来すると云う精神的な起源論や、脱構築からの再構築に拘れば『泥即是愁』になり、Liminal Spaceとか原体験、曖昧な記憶や空想、そしてその背景にある市場の論理や我が国の歴史と社会構造に目を向ければ『米即是理』にもなり得る。今わたしたちは米の行末にも不安を覚えていますが。米は良くあってほしいところ。また、泥即是愁の認識論は、陰陽説にある運のエネルギー法則的解釈とも通じるところもあるのかもしれない、とかも思うのだが、泥即是愁は可能性の拡張に臨むものなので、もう少し脱構築的な無常感です。


此れらは古びたショッピングモールにて思った事です。モダニズム建築の様なファサードで、然し日本家屋の様に空間が仕切られ、そして開かれて居た。

最近も、素早くうつろいゆくものは多い。段々と、仮即是実になるのかもしれない。これらが真になる頃には、流るるゆえの平衡を保っておるのでしょう。


雲は既に浮いている ー



では此れまた、




戯れるうち、わするる。































#泥即是愁

#愁即是泥

#思索 



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